それ
を見た時、わたしは川だと思った。
右手には杖を持っていたので、わたしは左手で
市女笠を少しあげ、
虫の
垂衣を透かして、じっと見つめた。
路とも言えない僅かな窪みの先を真横に断つように流れているもの。その銀色の照り返しの眩しさは、見つめていると眼が痛むほどだった。
やがてわたしは、自分のとんでもない思い違いに気づき、あっと叫んだ。
川ではなかった。
それ
は、一匹の大蛇だった。
水面の照り返しと見えたものは、その鱗がぬめぬめとした光を放っていたのである。
それにしても、なんという途轍もない大きさだろう。頭と尾が草の中に没して胴だけが見えている。その太さはゆうにわたしの腰ほどもあった。
蛇は眠っているのではなかった。路を横切ろうとしているのだ。だから余計に水の流れらしく見えたのだろう。蛇は這い続けているが、いくら眺めていても胴しか見えない。いったいどのくらいの長さがあるのか。銀の光がわたしの眼を
灼く。痛い。でも、眼を逸らすことができない。わたしは
惚けたように、蛇の胴が動くさまをただ見つめていた。
そのうち、足の感覚がなくなってきた。このままでは倒れてしまう。ぼんやりそう思った時、わたしの頭の中で光とも闇ともつかぬものが弾けた。そして、あとは何もわからなくなった。
われはつねにそなたとともにある。そんな声が聞えた気がして、わたしはぼんやりと眼を開けた。
空はもう暮れかかり、紫のたなびく空をくぎる影のような山の
際に、血そっくりの
紅が滲んでいた。
草の上に手をつき、そっと身を起こす。手足は、一度斬り離された後、木の
蔓か何かで無造作につなぎ合わされたみたいに
ちぐはぐ
で力が入らず、無理に起き上がろうとすると鋭い痛みが走った。わたしの身体の
中を、痛みは
梁の上の鼠のようにすばしこく駆け回り、わたしは歯を食いしばってその
蹂躙に耐えた。こんな痛みを前にも味わったことがある。でも、頭はまだ夢の橋の上を
辿っているようで、それ以上思い出せない。
なんとか立ち上がり、別々の場所に落ちていた市女笠と杖を拾い上げる。
笠を被り直すと、わたしは杖にすがるようにして歩き出す。日が暮れ切る前に、
今宵一夜を過ごせる場所を見つけるのだ。
草履の足は刃のような草の葉のせいで傷だらけであり、その上に足裏の豆が潰れて、
膿さえ流れていた。それでも歩かなければならない。闇は、おそろしい。ようやくその場所を見つけた時、
四囲は既に、太い鎖で
雁字搦めにされた如く重たげな、冷ややかな闇に閉ざされていた。
崩れかけた
築地は、この
家の
主がいなくなって久しいことを示していた。おそらく
狐狸の
棲み
処と化しているのであろう。かえって好都合だ。闇はおそろしい。そして、人は
猶おそろしい。
わたしは築地の崩れたところから、庭の中に入った。庭は外の野よりも草深いほどで、虫のすだく
音が雨のようだった。
こう
暗うては
詮方ない。わたしは殆ど手探りで、ようよう
檜皮葺きの寝殿らしいところまで辿り着くと、
簀の
子に座って月の出を待つことにした。懐から
乾飯を取り出して口に含む。唾が足りないのか乾飯がうまく
解れず咳き込みそうになったため、仕方なく竹筒の底に残った、ぬるい水を唇に流し込んだ。
水をなんとかしなければ。乾飯はまだ残っているが、水が尽きようとしている。庭のどこかに井戸があるのかもしれないが、暗すぎてわからなかったし、たとえ見つかってもすっかり
涸れ果てているか、あるいは落ち葉などが溜まっているかで、どうせ使い物にはなるまい。
少し
饐えた匂いのする水で乾飯をゆっくり噛んでいる時、奇妙なことに気づいた。最前まで降るようだった虫の声が、ふっつり絶えているのだ。
背中に何かの気配を感じ、はっと振り向く。
母屋の方で、いくつかの
燈が動いていた。
几帳もなく、
蔀戸も外れているので、そのまま奥が見透かせるのだ。
狐火。とっさにそう思った。そのふわふわと舞う火に誘われるように、わたしは簀の子より一段高くなっている
庇に上がり込む。
狐火は蛍でも群れ飛ぶように庇の方へ近づいてきたかと思うと、ひとつに
合し、
俄かに勢いよく燃え上がった。気がつくと、青い
狩衣姿の男がそこに立っている。
こんな男は見たことがないという思いと、この男は
吾が
夫であり、わたしはこの男から逃げてきたのだという全く矛盾した想念が頭の中に湧き起こり、ぎしぎしと
軋みつつせめぎ合う。
その間にも、男は一歩一歩近づいてくる。その身体には蒼白い火が
纏わりつくように燃えている。男は両腕を高々と頭上に振り上げた。爪が長く伸び、髪を突き破って二本の曲がった角が生え、耳まで裂けた口から赤い舌と牙が覗く。ああ、この男は鬼なのだ。最初から鬼だったのか。それとも元は人で、のちに鬼と化したのか。お前は鬼となって猶、わたしを傷つけようとするのか。何を言う、わしを鬼にしたのはそなたではないか。
わたしのものでない
わたしの声が、鬼の男と激しく罵り合う。わたしは両手で頭を抱えて耳をふたぎ、固く眼を
瞑ってその場にうずくまる。
刹那。
魂消る如き悲鳴が上がる。はっとして眼を開くと、男の身体に何かが巻き付いていた。それは一匹の大蛇だった。恐ろしい力で締めつけられた男の身体からは、骨の粉々に砕ける何とも形容しようのない音が続けざまに鳴り響き、絶叫に混じってわたしの耳に突き刺さる――
われはつねにそなたとともにある。また声がして、わたしは庇の上に倒れている自分を見出す。
ゆっくりと母屋のほうへ視線を這わす。男の姿は消えていた。床に倒れ、乱れている几帳らしきものが、無残に男に捨てられ、
啜り
哭く女の姿に見えた。かつてのわたしだ。そんな言葉がだしぬけに頭に浮かび、その意味がわからず戸惑う。
その時、月の光が差した。
光は築地の崩れから流れ込み、庇に厚く溜まった
埃を照らし出した。わたしは夢を見ているのだろうか。しかし、夢の始まりの場所がわからなかった。この
破れ
家に入ってからが夢なのか、路で蛇を見てからが夢なのか。いや、それよりもずっと前から、長いひと続きの夢を見ているようにも思われるし、夢の中でもうひとつの夢を見ているような気もする。
埃だらけの庇に横たわったまま、わたしはただ眠りにつくことを願った。目覚めるために眠るのではなく、夢さえも入り込めぬ深い深い眠りの底に、永遠に生まれ落ちぬ赤子のように沈んでしまいたい。
腕も動かせないほど疲れ切っているにも
拘らず、わたしは眠ることができなかった。わたしの身体のどこかに穴が開いていて、眠りはそこから洩れ出し、一滴残らずどこかへ消え
失せてしまったのだ。わたしは、自分の腰ほどの太さを持つ大蛇や、わたしを傷つけようとする鬼のいるこの世界で、目覚め続けていなければならぬのだろうか。われはつねにそなたとともにある。またあの言葉が脳裡に閃く。あれは大蛇が発する声なのか。大蛇はわたしを守っているのか、それともわたしを捉えて離さぬのか。わたしをこの地獄から救い出す
言祝ぎか、それともわたしを地獄に縛りつける
呪詛か。
月の光は水のように、この破れ家の
中に溢れる。わたしは川底に横たわるようにして、ひたひたと
盈ちてゆく銀色の水を眺めている。
助けて。そっとつぶやいてみた。わたしは誰かの名を呼ぼうとした。でも、肝心なその名が思い出せないのだった。これも初めてではない。口まで出かかっているのに、どうしても思い出すことができないのだ。思い出せないからわたしは地獄に落ち、そして、思い出せるまで罰を受け続けるのかもしれなかった。
自分がさっきから泣いていることに、わたしはようやく気づいた。
涙は、涸れた井戸のようなわたしの眼から沁み出し、膨らみ、そして零れる。零れ落ちた涙はやはり銀色に光りながら、水とも月光ともつかぬものの中に、ゆらゆらと溶けてゆくのだった。
前に泣いたのはいつだったろう、とわたしは思う。それは夢の始まりよりも、もっと遠い出来事であるらしかった。わたしは泣く。手で
面を覆いもせず、静かに、本当に静かに泣き続ける。
また、虫が鳴き始めた。
(第六話・了)