第2話 ぬばたまの(一)
文字数 2,313文字
玄関までわたしを出迎えた伯父に嘗 ての尊大さはなく、窶 れと疲労の翳 が明らかだった。忙しいところすまないが、お前の従妹の最後の我儘 だと思って許してやってほしいと丁寧に言われ、かえってこちらが戸惑ってしまった。
伯母の変化には、思わずぎょっとさせられた。髪の大半が白く変じ、顔の皺も深く、まるで老婆のようだった。もがもがとわたしに何か言っているようだったが、ほとんど何も聞き取れなかった。
都会に住む人には笑われるだろうが、わたしが生まれ育った土地では未だに親類縁者の繋がりが強く、本家と言えば、まるで一段身分が高い人間であるかのようにみなされる。父はそれを絆だという。わたしはこの絆という言葉が大嫌いだった。この言葉を聞くと、自分の身体を雁 字 搦 めにしている何本もの鎖が見えるような気がしたから。
この鎖は、もちろんわたしだけに繋がれているものではない。父母や兄弟や親類縁者たち、それぞれがそれぞれの鎖に繋がれている。わたしの鎖は彼らの鎖と絡 まり、縺 れ合っている。それらは古い家の柱や梁に固く喰い込み、更に伸びて本家へと届く。
女に学問は要らないという両親を拝み倒すようにして説得し、わたしが東京は目白台にある日本女子大学――通称、目白の女子大に進むことにしたのは、このうんざりするような血の鎖から逃れたかったからに他ならない。
だから、合格通知が届いた時は小躍りするほど嬉しかった。喜び勇んで荷造りなどをしている時、本家から連絡が来た。娘が会いたがっている、上京する前に一目会ってやってほしいと言う。
わたしは、石でも呑まされたように胃に鈍い痛みを覚えた。
『倭文 子 さんが、わたしに会いたいというのですか』
『そういう話だ。今からすぐ行ってこい』
『今からですか。しかし、今日中に荷物をまとめなければいけませんし、明日の朝では――』
『いいから、すぐ本家へ行け。また俺に迷惑をかけるつもりか』
吐き捨てるような父の声だった。部首の「厂 」のような形の眉の先が、神経質に震えている。
次男である父は、長男である本家の伯父が怖くて仕方ないのだ。こういう気の弱い人の常で、目下の者に対してはこらえ性がなく、すぐ怒鳴りつけたり手を上げたりする。
『四の五の言うな』ぴしゃりと頬を打つように言われた。『これは、命令だ』
わたしは、鎖の軋 む音を聞いた気がした。
逃げられるなんて思うな、身の程をわきまえろ。音はわたしにそう告げているようだった。
額の生え際が、微かに痛んだ。
挨拶もそこそこに、すぐ倭文子の部屋に案内された。
さほど大きくはないが、庭に面した東向きの、陽当たりのいい部屋だ。でも、障子越しにも十分明るい光はかえって無惨に、このひとつ年下の従妹の命の衰えをわたしの前に晒していた。
倭文子は、それでも穏やかな微笑みでわたしを迎えた。どこか全てを諦めきった微笑みにも見えた。病がかなり悪いとは聞いていたが、床 の上に起き上がる気力もないほどとは知らなかった。
倭文子は両手をそろそろと蒲団から出して、掛布団を上から押さえつけるように置いた。そうすると、腕の形に沿って掛布団が凹んで、蒲団の下の倭文子の身体つきが浮かび上がった。その薄さ、小ささが哀しかった。
ただ不思議なことに、髪だけは生き生きとして見えた。まるで倭文子のうちに残る命が全て髪に集まったかのように。人の髪は十万本もあるというが、その一筋ひとすじがつやつやと紫がかった光沢を帯びて、枕の上に流れていた。
ぬばたまの黒髪。
ふっと、そんな古風な言葉が心に浮かんで、消えた。
「来てくれて、ほんとうに、ありがとう」
声はか細かったが、それでも意外に瑞々 しい潤いをもっていた。
「いえ」とだけ、わたしは答えた。
すると、なぜか倭文子はくすくす笑った。
「どうしてお笑いになるの?」
「ごめんなさい。だって、昔とちっとも変わらないんだもの。わたしと話す時は、いつだってそんな怖いお顔をなさって……」
わたしは黙っていた。倭文子は、すぐ謝る。子供の頃からそうだった。自分がちっとも悪くないことでもあやまる。ごめんなさい。幾たびこの言葉を聞いたかわからない。癪 にさわって、本家の娘がいちいちあやまらないで、とつっけんどんに言ってやったことがある。言った後で、ひやりとした。そういう生まれついての上下関係を憎んでいた自分のはずなのに。卑屈なのは、わたしの方だった。あの時の、泣きべそをかきそうだった倭文子の顔が忘れられない。
「高 子 姉さんは、わたしがお嫌いなのでしょう」
目の前に横たわっている倭文子が、僅かに首を動かしてそう訊いた。
わたしは、やはり黙っていた。
倭文子は、ほっと小さな溜息を吐 いた。蒲団の下で、胸が僅かに上下した。いや、震えた。まるで蝋燭 が風に吹き消された刹那の空気の揺らぎを見るようで、わたしは思わずどきりとした。
倭文子は息を整えるかのように、しばらく眼を閉じていた。その顔は、まるで祈りを捧げている人のようだった。
火鉢の上の鉄瓶が、白い湯気を上げている。
ちん、ちん、と鉄瓶の中で湯の鳴る音がいやに耳につくほど、四囲 は静かだった。沈黙が耐えがたかった。それでも、何を話していいかわからない。
額の生え際が、また痛んだ。
『また俺に迷惑をかけるつもりか』
父の声が耳に蘇る。
「迷惑」というのは、十年前のあの出来事を指している。
田舎では、時間が川の淵のように、淀んでいる。
十年前の話も、昨日起こった出来事も、同じ淵に落ちた木の葉の違いでしかない。木の葉は水面に浮かんで、くるくると回っている。それは決して流れ去りはしない。わたしの額の傷痕が消えないのと同じように。
伯母の変化には、思わずぎょっとさせられた。髪の大半が白く変じ、顔の皺も深く、まるで老婆のようだった。もがもがとわたしに何か言っているようだったが、ほとんど何も聞き取れなかった。
都会に住む人には笑われるだろうが、わたしが生まれ育った土地では未だに親類縁者の繋がりが強く、本家と言えば、まるで一段身分が高い人間であるかのようにみなされる。父はそれを絆だという。わたしはこの絆という言葉が大嫌いだった。この言葉を聞くと、自分の身体を
この鎖は、もちろんわたしだけに繋がれているものではない。父母や兄弟や親類縁者たち、それぞれがそれぞれの鎖に繋がれている。わたしの鎖は彼らの鎖と
女に学問は要らないという両親を拝み倒すようにして説得し、わたしが東京は目白台にある日本女子大学――通称、目白の女子大に進むことにしたのは、このうんざりするような血の鎖から逃れたかったからに他ならない。
だから、合格通知が届いた時は小躍りするほど嬉しかった。喜び勇んで荷造りなどをしている時、本家から連絡が来た。娘が会いたがっている、上京する前に一目会ってやってほしいと言う。
わたしは、石でも呑まされたように胃に鈍い痛みを覚えた。
『
『そういう話だ。今からすぐ行ってこい』
『今からですか。しかし、今日中に荷物をまとめなければいけませんし、明日の朝では――』
『いいから、すぐ本家へ行け。また俺に迷惑をかけるつもりか』
吐き捨てるような父の声だった。部首の「
次男である父は、長男である本家の伯父が怖くて仕方ないのだ。こういう気の弱い人の常で、目下の者に対してはこらえ性がなく、すぐ怒鳴りつけたり手を上げたりする。
『四の五の言うな』ぴしゃりと頬を打つように言われた。『これは、命令だ』
わたしは、鎖の
逃げられるなんて思うな、身の程をわきまえろ。音はわたしにそう告げているようだった。
額の生え際が、微かに痛んだ。
挨拶もそこそこに、すぐ倭文子の部屋に案内された。
さほど大きくはないが、庭に面した東向きの、陽当たりのいい部屋だ。でも、障子越しにも十分明るい光はかえって無惨に、このひとつ年下の従妹の命の衰えをわたしの前に晒していた。
倭文子は、それでも穏やかな微笑みでわたしを迎えた。どこか全てを諦めきった微笑みにも見えた。病がかなり悪いとは聞いていたが、
倭文子は両手をそろそろと蒲団から出して、掛布団を上から押さえつけるように置いた。そうすると、腕の形に沿って掛布団が凹んで、蒲団の下の倭文子の身体つきが浮かび上がった。その薄さ、小ささが哀しかった。
ただ不思議なことに、髪だけは生き生きとして見えた。まるで倭文子のうちに残る命が全て髪に集まったかのように。人の髪は十万本もあるというが、その一筋ひとすじがつやつやと紫がかった光沢を帯びて、枕の上に流れていた。
ぬばたまの黒髪。
ふっと、そんな古風な言葉が心に浮かんで、消えた。
「来てくれて、ほんとうに、ありがとう」
声はか細かったが、それでも意外に
「いえ」とだけ、わたしは答えた。
すると、なぜか倭文子はくすくす笑った。
「どうしてお笑いになるの?」
「ごめんなさい。だって、昔とちっとも変わらないんだもの。わたしと話す時は、いつだってそんな怖いお顔をなさって……」
わたしは黙っていた。倭文子は、すぐ謝る。子供の頃からそうだった。自分がちっとも悪くないことでもあやまる。ごめんなさい。幾たびこの言葉を聞いたかわからない。
「
目の前に横たわっている倭文子が、僅かに首を動かしてそう訊いた。
わたしは、やはり黙っていた。
倭文子は、ほっと小さな溜息を
倭文子は息を整えるかのように、しばらく眼を閉じていた。その顔は、まるで祈りを捧げている人のようだった。
火鉢の上の鉄瓶が、白い湯気を上げている。
ちん、ちん、と鉄瓶の中で湯の鳴る音がいやに耳につくほど、
額の生え際が、また痛んだ。
『また俺に迷惑をかけるつもりか』
父の声が耳に蘇る。
「迷惑」というのは、十年前のあの出来事を指している。
田舎では、時間が川の淵のように、淀んでいる。
十年前の話も、昨日起こった出来事も、同じ淵に落ちた木の葉の違いでしかない。木の葉は水面に浮かんで、くるくると回っている。それは決して流れ去りはしない。わたしの額の傷痕が消えないのと同じように。