第11話 飴玉(二)
文字数 2,167文字
「はい、お醤油」
黄色い歯を剥きだして笑うおばさんの顔が間近に見えた。糸のように細い目が少し釣り上がっている。髪はいつかけたかわからない、伸びたラーメンみたいなパーマ。
「ありがとうございます」
わたしは慌てて礼を言って受け取る。醤油を切らしていたことに気づき、お隣に借りにきていたのだと
醤油入れを胸の前で持った時、わたしは初めてぎょっとした。自分が大人の身体になっていることに気づいたのだ。
逃げるように自分の家に戻る。戸口にひょろひょろしたソテツが植わっている。見たこともないのに、自分の家だとわかることに激しく戸惑う。自分の家と言っても、隣りとは壁一枚しか隔てていない長屋だが。
戸を開けると、六畳の部屋に風車の材料がいっぱいに置いてある。縁日で売るような、ペラペラしたプラスチックの風車だ。風車のかしめ――つまり、羽うちがわたしの内職。
今ではすっかり慣れていて、テレビを見ながらでも作ることができる。内職をしながら、テレビで再放送のドラマを見るのが、わたしにとって唯一の楽しみ。ペラペラしているのにプラスチックの羽は切断面が意外に鋭く、うっかりすると指を傷つける。そんなふうにして一個作っても、手間賃は一円にもならない。何十銭という、現代の日本にはないはずの貨幣単位が、内職の賃金の計算には残っている。
身に覚えのない“記憶”が、どんどん後付けされていく。
ふと視界の隅で動いているものに気づいた。完成した分として壁際に置いてある風車のひとつが、ゆるゆると回っているのだった。
この長屋は建付けが悪く、隙間風が入ってくるから嫌。何年も前から住んでいるように、わたしは思う。だから、まだ十一月だというのに家の中でセーターを着なければならない。自分の身体にぴったり貼りついた、重たいくせに大して温かくもないセーターのお腹のあたりをちょっと指でつまんで、わたしは溜息を吐く。セーターを盛り上げている自分の胸が、なんだか気持ち悪い。
一旦消していたガスを再び点ける。鍋がことことと呑気な音を立て始めた。借りてきた醤油をすっと垂らし、お玉でゆるくまぜ、味見してみる。そんな動作が妙に板についていて、おかしいのか悲しいのかわからない気分になる。頭の隅で、あの人の好きな味だと安心している自分に気づく。
ひとつの疑問が、鍋の湯気のようにふわっと心に広がる。
――あの人って、誰?
玄関の戸の開く音がする。
「今帰ったぜ」
ちょっと甲高い男の声が響く。夫の声だと
気がつくと、母がわたしの肩を激しくゆすぶりながら、わたしの名を連呼していた。
「お母さん……」
呟くように言うと、母ははっとしたように隣を見た。その方向から、能面のような老婆の顔が覘 いた。
「もう大丈夫だ。狐は落ちた」
愛想のかけらもないが、どこか安心させられる声だった。
お面ばあちゃんだった。
母が帰ってきた時、わたしはぐったりと台所の床に倒れていたのだそうだ。
母が慌てて抱え起こすと、うっすらと目を開けたが、ぼんやりと焦点が定まらず、いくら話しかけても反応がない。そこで母はとっさの機転で、お面ばあちゃんの家へ走ったのだと言う。
「お面ばあちゃん」というのは、わたしが密かにつけていたあだ名だ。この人はクチヨセをすると言われていた。当時のわたしはクチヨセの意味はわからなかったが、いつも無表情で近寄りがたい雰囲気が苦手だったので、ちょっとした悪意を込めてそんなあだ名を奉 っていた。
母の留守にやってきた風呂敷包みを背負った男が、本当に狐だったのかどうかはわからない。
ただ、わたしが一時おかしな状態になり、お面ばあちゃんに助けてもらったのは事実らしい。
母にはいろいろ尋ねられたが、わたしは結局、「わからない」の一言で通してしまった。
お面ばあちゃんは何かを見透かすような目でじっとわたしを見つめていたが、
「子供というのは、時々こういうことがある」
とだけ母に告げて、帰って行った。
わたしが見たあの生活は何だったのだろう。思い出す度に、ずいぶん侘しい、それでいて、必ずしも不幸でもないような不思議な心持ちになる。
暮らし向きはかなり厳しいらしく、手もみじめに荒れていた。それでも世間の風の吹き溜まりは、ある意味隠れ里に似ていた。長屋の中では一番若いおかみさんということで、皆から親切にしてもらっていたと
わたしの夫は誰だったのか。なんだか、あの風呂敷包みを背負った男のような気がしてならない。わたしがあの日、束の間入り込んでしまった世界。そこにどこか惹かれるものを感じてしまうのも、つまりは“化かされていた”ということなのかもしれない。
もらった飴玉を呑み込んでしまったわたしは、もしかして自分の未来を、あやうくあの男に盗 られるところだったのではないか。
まさかそんなことのあるはずが……と思いつつも、わたしは今でも飴玉というものを口に入れることが、どうしてもできないのだ。
(第十一話・了)
黄色い歯を剥きだして笑うおばさんの顔が間近に見えた。糸のように細い目が少し釣り上がっている。髪はいつかけたかわからない、伸びたラーメンみたいなパーマ。
「ありがとうございます」
わたしは慌てて礼を言って受け取る。醤油を切らしていたことに気づき、お隣に借りにきていたのだと
思い出す
。醤油入れを胸の前で持った時、わたしは初めてぎょっとした。自分が大人の身体になっていることに気づいたのだ。
逃げるように自分の家に戻る。戸口にひょろひょろしたソテツが植わっている。見たこともないのに、自分の家だとわかることに激しく戸惑う。自分の家と言っても、隣りとは壁一枚しか隔てていない長屋だが。
戸を開けると、六畳の部屋に風車の材料がいっぱいに置いてある。縁日で売るような、ペラペラしたプラスチックの風車だ。風車のかしめ――つまり、羽うちがわたしの内職。
今ではすっかり慣れていて、テレビを見ながらでも作ることができる。内職をしながら、テレビで再放送のドラマを見るのが、わたしにとって唯一の楽しみ。ペラペラしているのにプラスチックの羽は切断面が意外に鋭く、うっかりすると指を傷つける。そんなふうにして一個作っても、手間賃は一円にもならない。何十銭という、現代の日本にはないはずの貨幣単位が、内職の賃金の計算には残っている。
身に覚えのない“記憶”が、どんどん後付けされていく。
ふと視界の隅で動いているものに気づいた。完成した分として壁際に置いてある風車のひとつが、ゆるゆると回っているのだった。
この長屋は建付けが悪く、隙間風が入ってくるから嫌。何年も前から住んでいるように、わたしは思う。だから、まだ十一月だというのに家の中でセーターを着なければならない。自分の身体にぴったり貼りついた、重たいくせに大して温かくもないセーターのお腹のあたりをちょっと指でつまんで、わたしは溜息を吐く。セーターを盛り上げている自分の胸が、なんだか気持ち悪い。
一旦消していたガスを再び点ける。鍋がことことと呑気な音を立て始めた。借りてきた醤油をすっと垂らし、お玉でゆるくまぜ、味見してみる。そんな動作が妙に板についていて、おかしいのか悲しいのかわからない気分になる。頭の隅で、あの人の好きな味だと安心している自分に気づく。
ひとつの疑問が、鍋の湯気のようにふわっと心に広がる。
――あの人って、誰?
玄関の戸の開く音がする。
「今帰ったぜ」
ちょっと甲高い男の声が響く。夫の声だと
わかっている
のに、顔は思い浮かばない。わたしは、恐ろしさと好奇心が入り混じった気持ちで振り返る――気がつくと、母がわたしの肩を激しくゆすぶりながら、わたしの名を連呼していた。
「お母さん……」
呟くように言うと、母ははっとしたように隣を見た。その方向から、能面のような老婆の顔が
「もう大丈夫だ。狐は落ちた」
愛想のかけらもないが、どこか安心させられる声だった。
お面ばあちゃんだった。
母が帰ってきた時、わたしはぐったりと台所の床に倒れていたのだそうだ。
母が慌てて抱え起こすと、うっすらと目を開けたが、ぼんやりと焦点が定まらず、いくら話しかけても反応がない。そこで母はとっさの機転で、お面ばあちゃんの家へ走ったのだと言う。
「お面ばあちゃん」というのは、わたしが密かにつけていたあだ名だ。この人はクチヨセをすると言われていた。当時のわたしはクチヨセの意味はわからなかったが、いつも無表情で近寄りがたい雰囲気が苦手だったので、ちょっとした悪意を込めてそんなあだ名を
母の留守にやってきた風呂敷包みを背負った男が、本当に狐だったのかどうかはわからない。
ただ、わたしが一時おかしな状態になり、お面ばあちゃんに助けてもらったのは事実らしい。
母にはいろいろ尋ねられたが、わたしは結局、「わからない」の一言で通してしまった。
お面ばあちゃんは何かを見透かすような目でじっとわたしを見つめていたが、
「子供というのは、時々こういうことがある」
とだけ母に告げて、帰って行った。
わたしが見たあの生活は何だったのだろう。思い出す度に、ずいぶん侘しい、それでいて、必ずしも不幸でもないような不思議な心持ちになる。
暮らし向きはかなり厳しいらしく、手もみじめに荒れていた。それでも世間の風の吹き溜まりは、ある意味隠れ里に似ていた。長屋の中では一番若いおかみさんということで、皆から親切にしてもらっていたと
覚えている
。飴の味が口の中に広がる。わたしの夫は誰だったのか。なんだか、あの風呂敷包みを背負った男のような気がしてならない。わたしがあの日、束の間入り込んでしまった世界。そこにどこか惹かれるものを感じてしまうのも、つまりは“化かされていた”ということなのかもしれない。
もらった飴玉を呑み込んでしまったわたしは、もしかして自分の未来を、あやうくあの男に
まさかそんなことのあるはずが……と思いつつも、わたしは今でも飴玉というものを口に入れることが、どうしてもできないのだ。
(第十一話・了)