第4話 右手(三)

文字数 1,192文字

 その日の夕方、スーパーで買い物をした後、わたしは自分がうっかり二人分の食材を買ってしまったことに気づいた。
 
 今更返しにいくわけにもいかず、わたしはマンションへ帰る坂道をとぼとぼと上っていった。エコバッグがひどく重かった。
 以前は当たり前のように、彼が持ってくれていたから。

 坂道はひどく長かった。まるで終わりがないんじゃないかと思われるほどに。マスクをしているせいか、息が苦しかった。ようやくマンションの部屋に戻ると、両手が塞がっているため足を擦り合わせるようにして靴を脱いだ。
 そこまでが、限界だった。
 
 エコバッグをその場に放り出し、マスクをかなぐり捨てると、わたしは床にべったりと座って泣いた。
 そう、わたしは、泣いたのだ。
 彼がこの世界から消えてしまった後、初めてわたしの頬を伝う涙だった。

 わたしは天井を向いて口を開け、獣が吠えるような無様な声を上げて、おんおんと泣いた。
 よく泣く人もそうでない人も、人間が元々持っている涙の量は同じなのかもしれない。そんな気がするほど、泣いても泣いてもわたしの涙は一向になくなる気配もなかった。
 次から次に溢れ、頬を伝い流れる涙は、いつかブラウスの胸をぐっしょり濡らし、そのままジーンズの(もも)を濡らし、床の上の絨毯まで濡らした。
 
 ふと気がつくと、何か温かいものが顔に触っていた。
 涙で霞む眼を動かして見ると、彼の右手がいつの間にかわたしの肩に載っていて、そこからおずおずと指を伸ばして、わたしの涙を(ぬぐ)おうとしているのだった。
 不器用で、ぎこちないその動き。間違いなかった。(たま)らなく懐かしい、彼の手の動きだった。

「ありがとう」
 わたしは彼の右手に向かって(ほほ)()んだ。
 あの日から今の今まで、わたしは一滴の涙も零さず日々を過ごしてきたが、同時に一度も笑っていなかったことに、不意に気づいた。
 わたしは笑った。泣きながら、くつくつと笑った。ありがとう。笑うことを、もういっかいわたしに思い出させてくれて。新たに溢れた涙を、彼の指は不器用にぎこちなく、そしてこの上ないやさしさで拭ってくれた。辛抱強く、何度も何度も。

 その夜、わたしは彼の右手と一緒にテレビのバラエティー番組を見た。
 わたしはソファの上でお腹をよじって笑った。わたしが笑うと手は嬉しいらしく、わたしの膝の上を跳ね回ったり、肩や腕に飛び乗ったりした。

「だめよ!」
 調子に乗ってわたしの胸元に潜り込もうとした手を、わたしはぴしゃりと打った。手はぽとりとソファの上に落ち、面目(めんぼく)なさそうに、もぞもぞと隅の方へ移動する。
 その様子を見てわたしはまた笑い、そっと眼尻をぬぐった。彼の右手を再び心配させないように、そっと。

 この世界はすっかり変わってしまったけれど、まだなんとか生きていけるような気がした。

                                   (第四話・了)
 
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