第8話 指

文字数 2,728文字

 わたしは、その人の指にかみついたことがある。

 十一年ぶりに会った彼は、今眼の前でコーヒーを飲んでいる。
 テーブルの上には本屋の紙袋が載っている。文庫本一冊だけだから紙袋は小さい。でも、それはかなり厚みのあるふくらみ方をしている。本屋のレジに並んでいる時、ちょっと表紙を見たが、海外ミステリのシリーズものだった。
 あの頃と、読書の趣味は変わっていないらしい。まあ、人間の趣味なんてそうそう変わるものではないけれど。

 変わらないと言えば、彼の外見もそうだった。あの頃と同じような、すっきりした身体つきで、服装も特にお洒落ではないものの、清潔感がある。いっそ頭が禿げかけ、お腹の形がだらしなく崩れていればよかったのに。顔には確かに十一年分の時間の痕があるが、それは決して醜いものではなかった。

『あの先輩ってさ、なんか仙人っぽいよね』
 あれは彼と付き合い始めたばかりの時だったろう。大学の友達が、そうわたしに言った。彼女の小鼻によっていた皺を、今でも覚えている。ああいう人がいいの? 皺はわたしにそう訊いていた。わたしが彼の部屋に転がり込むかたちで同棲を始めたのは、それから間もなくのことだ。

「きみは、ずいぶん変わったね」
 十年ひと昔というなら、ひと昔以上の時間を、まるで隣の部屋へ移動するようにあっさり踏み越えて、彼は言った。
 褒めているのだか、けなしているのだかわからない。どっちとも取れるような、そのどちらでもないような言い方。こうしたところも、以前と同じである。穏やかと言えば、こんな穏やかな人もないはずだが、その仙人じみた超俗の雰囲気のうちに、時折妙に生臭く、したたかなものが閃いて、ひやっとさせられることがあった。明るい海に浮かんだヨットの白い帆に、一瞬鳥の影が映るみたいに。影は捉えられない。ただ、ひやっとするだけ。
 
 わたしが変わったのは事実だろう。変わっていなければ、逆におかしい。一緒に住んでいた時、わたしはまだ大学生で、およそ化粧っけもなかった。毎日ほぼジーンズを履いて暮らしていた頃の話だ。

 それにしても、つくづく不思議な人だと思わずにはいられない。
 学生の時と同じ街に住んで、学生の時と同じようにのんびりと生きている。まさかとは思うが、同じアパートの部屋にそのまま住み続けている可能性だって否定はできない。日曜日に大型書店をぶらつく習慣もそのままなのだろう。だから今日みたいに、文芸書のフロアで昔同棲していた女とひょっこり再会もするわけだ。十分劇的なはずなのだが、それを劇的と感じさせないのは、この人が身に(まと)っている空気のせいに違いない。彼の人生の中で、大学の後輩の女と二年ほど一緒に暮らした時間は、いったいどんな意味を持つのだろう。

「ご結婚は?」
 わたしは訊いてみた。微妙に距離のある言い方になった。
「いや」
 相手の答えは簡単すぎた。一ダースくらい言い訳を並べてくれればかわいいのに、と思う。
「一度も?」
「一度も」
 君は? と彼は訊かない。普通は訊くものではないかしら。別にマウントをとろうとして言ったわけではないのだが、なんとなく軽くいなされた感じがした。そのくせ、彼が発散する懐かしい匂いに、すっと身体が馴染みそうになっている自分に気づいて少し焦る。それでは、わたしの十一年は何だったのかという話になってしまう。

「仕事、順調みたいだね」
「うん」
 思わず、子供みたいに頷いていた。妙に恥ずかしく、顔を隠すようにマグカップに口をつける。
「眠れてる?」
 前髪が(かぶ)さったわたしの眼を、彼はちょっと覗き込むように見た。
「うん、だいじょうぶ」
 マグカップの中の、黒いコーヒーの海を眺めながら、わたしは言った。心に微かな(さざなみ)が揺れた気がしたのは、嘘をついたからか。それとも、彼の柔らかく澄んだ眼に見つめられていると、自分がただ上司や会社に評価されるためにがつがつしているだけの、どうしようもない俗物に思えてくるからだろうか。
 睡眠障害は、殆ど毎晩服薬しなければ正常な生活を送れないほど悪化していた。

 彼と同棲していた二年は、わたしが人生で初めて知った、夢も見ないほど深い眠りを(ほしいまま)にした二年だった。
 長い間、ずっと睡眠障害に悩まされてきたわたしにとって、それは奇蹟に近い幸福だったのである。

 彼と別れてから、睡れぬ夜は、子供の頃のいじめっ子のように再びわたしを(さいな)み始めた。最初はちょっとずつちょっかいを出し、こちらが抵抗できないと知ると、だんだんあからさまに、執拗になってゆくのだった。
 薬を飲んで寝ると、起きた後も頭がぼんやりして仕事に支障が出る。だから、その頃は努めて薬を飲まないようにしていた。眠れない夜を過ごしていると、魔に魅入られる。明け方ちかくになって、やっととろとろ浅い眠りに落ちても、必ずと言っていいほど怖い夢を見た。

 わたしが男の指を食べている。指だけなのだが、男のそれとわかる。どの指なのかは知らない。わたしだって、そんなもの食べたくはないのだ。指の肉が裂け、骨の砕ける音が自分の口の中で響く。激しい吐き気がこみ上げ、眼に涙が溢れる。それでも食べずにはいられない。泣きながら、わたしは食べる。唇を拭うと、ペンキみたいに鮮やかな血がべったりと手の甲につく。鬼。わたしは鬼になってしまったんだと思う。
 ……眼が覚める。カーテン越しに白々とした朝が滲んでいる。朝の色は、夜よりも死に似ていた。

 穏やかで幸福な眠りを捨てたのは、誰でもない、わたし自身だった。

 同棲するようになって、彼が妙に荒々しくなる夜があることに気づいた。わたしも若かったから、別に嫌というわけではなかった。そんな夜をちょっと待ち受けるような気持ちもなかったとは言えない。でも、ある時気づいてしまった。それが起こる日は、彼がある人と会う日と重なっているということに。

 指をかんだのは、その夜のことである。

 彼とあの人が、結局のところどこまでの関係だったのかはよくわからない。わたしと別れた後、ふたりはどうなったのか。訊きたいことはいろいろある。草に置く露のように、今にも舌の上から(こぼ)れ落ちそうな言葉がある。それらを、なんとかもう一度喉の奥に呑み込む。

 言葉の代わりに、というわけでもないが、わたしはさっきからカップを持っている方の彼の指をちらちらと盗み見ている。
 十一年前、確かに思い切りかんだはずの指なのに、今は針で突いたほどの傷も残ってはいないようだった。

                                   (第八話・了)

※本作は『源氏物語』「帚木」の巻、いわゆる「雨夜の品定め」において、左馬頭が語るエピソード「指喰いの女」のオマージュです。
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