第12話 麦わら帽子(一)

文字数 2,949文字

 落葉松(からまつ)の道を歩いているうちに、未緒子(みおこ)は、さっきまでのいらいらした気持ちがだんだん落ち着いてくるのを覚えた。

 ――音がある方が、かえって静かに感じるのね。

 都会で静かな空間を作ろうと思ったら、窓を閉め切って、外の音を遮断するしかない。
 でも、ここは違う。
 風のそよぎ、鳥のさえずり、そして自分の足が土の道を踏む音。

 空気の中にさまざまな音が溶け合い、鳴り響いている。
 なのに、とてもとても静かだ。

 落葉松の葉に()され、緑色に染まったような風を胸いっぱいに吸い込めば、肺の奥まで(きよ)められる気がする。

 ――やっぱり来てよかった、のかしら?

 と思ったが、夫には言ってやらない。だって、まだちょっと(しゃく)だもの。

『バケーションレンタル? 軽井沢に?』
『うん。君の小説の舞台に行ってみようよ、出版のお祝いにさ。それに作家って、そういう静かな環境でこそ筆が進むものなんだろ?』
『いつの時代の話よ、わたしには必要ないわ。そもそも作家なんかじゃないもの』
『僕にとって、君は立派な作家だよ。株でちょっと儲けたことだし、今年の夏休みは優雅に軽井沢で過ごそうよ。僕も行ったことないしさ』
『わたしは行ったことないわけじゃないのよ、軽井沢。旅行で、一度きりだけど』
『へえ、いつ?』
『三つの時』
『なんだ、三つじゃ全然覚えてないんじゃない?』
『残念ながら、ね。アルバムが残ってるから、行ったことは事実よ。落葉松の道で、母の手を握っている写真があるの』
『そんなの行ったうちに入らないって! じゃあ、決まりだね』
『でも……』
 未緒子は正直、あまり気がすすまなかった。
 本を出版したことのある人が全員作家だというなら、確かに彼女も作家のはしくれということになるだろう。でも、その出版経験というのが、実はちょっとした運命の悪戯(いたずら)、あるいは神様の気まぐれのような幸運にすぎないことを、当の本人が一番よく知っていたのである。

 いつの頃からか覚えていないが、未緒子の中には、ひとつの物語があった。

 登場人物は、なぜかふたりの戦前の女学生だった。
 彼女たちは今の若者とは異なる、上品でやわらかな言葉遣いで話した。しかし、心の内に秘めた感情は、かえって現代人よりずっと濃密で、荒々しいまでに激しいようだった。

 上級生と下級生である一組の少女が繰り広げる物語は、未緒子が自分の頭で考えたというより、勝手に頭の中から滲み出してそれぞれのシーンを形作り、次第に悲劇的なストーリーへと収斂(しゅうれん)されていった。

 もしこれを映画にたとえるなら、未緒子の役割は映画館の暗がりに座った、たったひとりの観客といったところだったろう。

 自分の中に物語を閉じ込めている苦しさに耐えられなくなって、未緒子はネットの中にそれを吐き出した。

 全て吐き出してしまうと、まるで憑き物が落ちたようにすっきりしたので、未緒子としてはもう満足だったのだが、暫くして思いも寄らぬことが起きた。

 その物語を読んだ出版社の編集者からメールがきて、本を出してみる気はないかと言われたのである。

 自分の物語に商業的な価値があるなどとは考えたこともなかったので、未緒子は最初かなり戸惑った。だまされているような気がして、わざわざ出版社に電話をかけ、その編集者を呼び出してもらったくらいだ。結果、だまされているわけではないとわかったものの、本を出すべきかどうかでまた悩んだ。

 それは物語の内容が、女性同士の恋愛だったからである。
 未緒子自身は、今まで平凡に異性と交際してきて、同性に対し友情以上の感情を抱いたことはなかった。少なくとも自分ではそう信じていた。それなのに、こんな本を出してしまっていいのだろうか。未緒子は、まるで他人の落とし物をネコババしてしまったようなうしろめたさを覚えたのだ。

 思い余って夫に相談すると、『それでも君が自分で書いたのは確かなんだろう? なら悩む必要はないじゃないか。せっかく声を掛けてもらったんだし、出してみればいいと思うよ』と言われた。

 いつもぐじぐじと悪い方へ考えすぎる未緒子と違って、夫は楽天的で、物事をざくっと単純化して考えるタイプだった。おかげで夫と話していると、未緒子はいつも救われた気分になる。

 今回のことも、夫の答えを聞いたとたん、悩んでいたのが急にばからしくなった。そうだ、夫の言う通り、自分の書いたものが本になるという喜びを、素直に味わえばいいのだと思った。

 それは未緒子たち夫婦にとって、ちょうど運の潮目だったのかもしれない。

 夫婦は運命共同体なので、果たしてどちらの運だったのかは定かでないが、未緒子が初めての本を出版したのとほぼ同じ時期に、夫が買っていた株が大幅に値上がりしたのである。

 夏休みの間、軽井沢のコテージをレンタルするという夫の提案に、未緒子がもろ手を挙げて賛成できなかったのは、それがなんだか自分たちの身の丈に合わぬ贅沢のような気がしたからだった。

 ――でも……。

 コンピューターエンジニアの夫は、仕事が忙しい時は何日も会社に泊まり込んだりする。ちょうどあるプロジェクトが終わったところだったので、今年は少し長い夏休みが取れることになったが、毎年そうだとは限らないし、コロナ禍の影響もある。いつまたほとんど外出できない日々に戻ってしまうか知れない。

 ――全てはタイミングなのかもしれないわね。

 まるで未緒子の心を読んだように、夫は気楽そうな声で言った。

『人生は、楽しめる時に楽しむべきだよ』

 気がつくと、未緒子は首を縦に振ってしまっていた。

 ところが、軽井沢に着いて早々、未緒子は後悔し始めた。夫がちっとも自分をかまってくれないからだ。

 夫はこの時とばかりに、ふだん仕事が忙しくてできないRPGに熱中していた。勇者の冒険は果てもなく、延々と続く。涼しそうな服装で、胸のやたら大きな美少女がいっぱい出てくる。そのうち、二次元の美少女たちに嫉妬に近い感情を持ち始めている自分に気づき、未緒子の不機嫌は頂点に達した。

 ――何が出版のお祝いよ、自分が心ゆくまでゲームがしたかっただけじゃないの!

 衝動的に麦わら帽子を持って玄関へ行った。

 妻のただならぬ様子に、さすがに何か声を掛けてくるだろうと思ったのに、ゲームのBGMしか聞こえてこない。
 ふり返るのは負けを認めたに等しい気がして、未緒子は玄関の姿見にちらっと視線を走らせる。
 信じがたいことに、妻が出て行こうとしているのに、夫はまったく気づいていなかった。

 ――そこで一生ゲームをやってなさい。ばっかみたい!

 荒々しくドアを閉めると、家の前の道をずんずん歩いていった。

 ――今晩は何も告げずに、高級ホテルのスイートにでも泊まってやろうかしら。そうすればあの鈍感な夫も少しは思い知るかもしれない……。

 ただ、悲しいかな。すぐ怒るくせに、その怒りがあまり持続しないのが未緒子の性格だった。
 しっとりした落葉松の道を歩いているうちに気持ちは次第に落ち着き、さっきまであんなに怒っていた自分が不思議に思われさえした。

 ――もう戻ろうかしら。

 その時、ざっと風が吹いた。

 未緒子は無意識にワンピースの裾を手で押さえた。すると、まるで見えない手がつかんで(ほう)り投げたように、被っていた麦わら帽子が飛んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み