第3話 河神(一)
文字数 2,903文字
わたしはさっきから、いらいらと瓜子 ※1を噛んでいる。
紫檀の卓の上に、盆の中身をぶちまけて、わざとお行儀悪く、音を立てて瓜子の殻を噛む。噛みながら、睨んでやる。
向かいの椅子に腰を下ろし、呑気な顔で盃を口に運んでいる嫖客 を。
『あんたの取り柄は、そのお眼々 だね』
父親の賭博 の借金のかたに、わたしは河の畔 の青樓 に売られてきた。その時、鴇母 が、わたしの鼻を軽く突っつきながらいった言葉だ。
鳳眼 。眼尻の釣り上がった鳳凰の眼。逆に言えば、それしか取り柄がないと言うふうにも聞こえた。鴇母の爪は長く尖っていて、突かれるとひりひりする痛みが走った。自分が物として品定めされているのを思い知って、泣きたくなった。
『お前の名は、今日から春嵐 だ。いいね? わかったら返事をおし』
嗚咽 を堪 えながら、『是 』と答えた時、わたしの運命は決まった。
三年前の話だ。
この嫖客が渡し場に船を乗りつけて、青樓にあがってきた時、妓女 たちは色めき立った。
手にひとふりの長い剣を持っていたが、武張 ったところは少しもなく、立ち居振る舞いが瀟洒 で、目元が涼しかった。
たとえ金で買われる身でも――不 、だからこそせめて見目よい、優しげな男の相手をしたい。物として扱われるわたしたちにも、まだそれくらいの人らしい感情は残っているのだ。だから、並み居る妓女の中から選ばれた時、わたしの胸は高鳴った。三年の青樓暮らしで、初めてのことだった。
ところが、わたしの甜美的 期待は、間もなく苦澀的 失望に変わった。
三日も流連 をしながら、この嫖客はわたしに指一本触れなかったのだ。
お酒のお代わりや瓜子などを持ってくるために部屋を出ると、妓女たちが群がり寄ってくる。彼女たちは、男がわたしによほどご執心だと思い込んでいて、羨望と妬みの混じった眼で根ほり葉ほり訊いてくるのだ。流連してくれる嫖客は上客で、しかも前金でたっぷり払っているらしく、鴇母も眼尻を下げっぱなしだった。これでは本当のことなど言えたものではない。わたしは、必要なものを盆に載せると、逃げるように部屋に帰った。
男は酒を飲むばかりで、瓜子には手を出さない。仕方がないから、わたしがひとりで齧っている。がりりと、殻が砕ける音がわたしの口の中で鳴る。
「こうして見ると、瓜子もきれいだな」
「您說什麼 ?」
わたしはびっくりして、男を見た。艶やかな唇が微笑を含んでいる。
「お前の皓 い歯に殻を破られた瓜子の実が、燈火を受けて滑潤 と光るさまがなんとも言えない。河の水のきれいなところに、ちょうどそんな色の貝がある」
「そう。じゃあ、こうしてあげる」
わたしはいきなり立っていって、男の首に腕を絡めた。唇から、今殻を取ったばかりの瓜子の実を口移しで男に差し出す。男は器用に歯で実だけ取った。わたしの唇には触れない。花の香のようなものが微かに匂った。なによ、男のくせにわたしよりよっぽど漂亮 じゃない。
わたしは思わず火大 となって、卓の上の瓜子の殻の山を掴んで、男の顔に投げつけた。相手は手掌 で顔をかばい、「唉唷 」と悲鳴を上げた。活該 。いっそ怒って敵娼 を替えてくれればいいのに。
「わかった、悪かった。わたしが木頭人 のせいで、すっかり春嵐の機嫌を損ねてしまったね。では、何かして遊ぼう。投壺 は如何 ?」
わたしはうんざりしながら、心の中で「又來了 !」と呟く。この三日間、男が酒を飲む以外に唯一興ずるのが、この投壺なのだ。
「なんだい、溜息なんかついて」
「だって、投壺ばっかりなんだもの」
「投壺が嫌いかね?」
「討厭 。很討厭 」
「それは困ったなあ」口では困ったと言いながら、唇は相変わらず微笑を含んでいる。本当に憎らしい。
「まあ、そうつむじを曲げずに、付き合っておくれ。後できっと、やっておいてよかったと思うから」
「何よ、算命先生 みたいなこと言って」
「算命先生? まあ、そんなものかもしれないね」
「胡說 ! どこの世界に剣を持った算命先生がいるもんですか」
「じゃあ、付き合ってくれないのかね」
「やりますわ。大事な嫖客大人 のお言いつけなんですから」
わたしは、ふくれながら投壺の用意をした。口の狭い酒壺に箭 を投げ入れる遊びの、どこが愉 しいのだかわからない。それに、わたしが投壺を嫌う理由はもうひとつある。青樓での投壺遊びは、時に妓女をいたぶるために行われるものなのだ。
自分からやろうと言うだけあって、男は投壺が上手かった。まるで箭に見えない糸が結ばれていて、それを壺の中から矮 人 が引っ張ってでもいるかの如く、百発百中、あやまたず壺の口に吸い込まれる。
「這次輪到妳了 」
男はわたしに箭を手渡して、場所を譲 る。わたしはあまり考えずに、適当に箭を投げる。それでも四本中、二本が壺の口に入った。
「好極了 ! 大したものだ」
「そりゃあ、あなたに付き合って三日の間、投壺ばっかりやっていればうまくもなりますわ」
「そういうものでもないさ。お前は、なかなか筋がいい」
こんなことで褒められても、ちっとも嬉しくなんかありゃしない。これで気が済んだかと思うと、今度はわたしに目隠しをしてやってみろと言う。
仕方なく、渡された布で目隠しをする。思ったより闇が深く、急に心細くなった。
「こんなの、できるわけが――」
思わず絶句した。男の身体が、背後からわたしに密着していた。
「いいかい。肩の力を抜くんだ」
男の声が耳元で囁く。男はわたしの右手に、自分の手掌 を重ねている。いつも剣を握っているからだろう、少し硬い。でもしなやかな弾力があり、そして意外に指が細かった。
「そう。ゆっくり腕を上げて一度好 、この角度を忘れてはいけないよ」
わたしはまるで初心 な小娘みたいに胸が小鹿亂撞 し、それが相手にも伝わっているに違いないと思うと堪 らなくなった。閉じた瞼を押し上げるように涙が溢れる。目隠しの布に染みができて、男に哭 いていると覚られてしまうのではないか。討厭 、很討厭 !
ここに売られてきた日、あてがわれた物置のような狭い部屋の中で一晩泣き明かしたあとの未明、白々と霞に覆われた河 面 を眺めながら、もう金輪際 涙など流すものかとわたしは誓ったのに。
「可愛的 春嵐、わたしがお前を抱かないことで傷つけてしまったのなら、どうか許しておくれ。これには理由 があるのだ。決してお前のせいではないのだよ」
わたしは、奇妙な思いに捉われていた。わたしの背後にぴったりと重ね合わされている男の胸の感触がへんに柔らかいのだ。これでは……これでは、宛如 ……
「あなたは、いったい――」
「わたしは、河神 さ」
「咦 ……」
咻 、
箭が空を切る音がした。
背中が急に軽くなった。
目隠しをかなぐり捨てる。部屋の中 にその人の影は既になく、河に面した窗戶 が開いているばかりだった。
箭はあやまたず壺に投げ入れられ、箭 羽 が僅かに震えていた。
思わず窓辺に走り倚 ろうとしたわたしは、この時ふと、樓下 が騒がしいのに気づいたのだった。
※1 「瓜子」には「葵花籽(ヒマワリの種)」、「南瓜籽(カボチャの種)」、「西瓜籽(スイカの種)」等の種類があるが、ここでは「葵花籽」のイメージ。
紫檀の卓の上に、盆の中身をぶちまけて、わざとお行儀悪く、音を立てて瓜子の殻を噛む。噛みながら、睨んでやる。
向かいの椅子に腰を下ろし、呑気な顔で盃を口に運んでいる
『あんたの取り柄は、そのお
父親の
『お前の名は、今日から
三年前の話だ。
この嫖客が渡し場に船を乗りつけて、青樓にあがってきた時、
手にひとふりの長い剣を持っていたが、
たとえ金で買われる身でも――
ところが、わたしの
三日も
お酒のお代わりや瓜子などを持ってくるために部屋を出ると、妓女たちが群がり寄ってくる。彼女たちは、男がわたしによほどご執心だと思い込んでいて、羨望と妬みの混じった眼で根ほり葉ほり訊いてくるのだ。流連してくれる嫖客は上客で、しかも前金でたっぷり払っているらしく、鴇母も眼尻を下げっぱなしだった。これでは本当のことなど言えたものではない。わたしは、必要なものを盆に載せると、逃げるように部屋に帰った。
男は酒を飲むばかりで、瓜子には手を出さない。仕方がないから、わたしがひとりで齧っている。がりりと、殻が砕ける音がわたしの口の中で鳴る。
「こうして見ると、瓜子もきれいだな」
「
わたしはびっくりして、男を見た。艶やかな唇が微笑を含んでいる。
「お前の
「そう。じゃあ、こうしてあげる」
わたしはいきなり立っていって、男の首に腕を絡めた。唇から、今殻を取ったばかりの瓜子の実を口移しで男に差し出す。男は器用に歯で実だけ取った。わたしの唇には触れない。花の香のようなものが微かに匂った。なによ、男のくせにわたしよりよっぽど
わたしは思わず
「わかった、悪かった。わたしが
わたしはうんざりしながら、心の中で「
「なんだい、溜息なんかついて」
「だって、投壺ばっかりなんだもの」
「投壺が嫌いかね?」
「
「それは困ったなあ」口では困ったと言いながら、唇は相変わらず微笑を含んでいる。本当に憎らしい。
「まあ、そうつむじを曲げずに、付き合っておくれ。後できっと、やっておいてよかったと思うから」
「何よ、
「算命先生? まあ、そんなものかもしれないね」
「
「じゃあ、付き合ってくれないのかね」
「やりますわ。大事な嫖客
わたしは、ふくれながら投壺の用意をした。口の狭い酒壺に
自分からやろうと言うだけあって、男は投壺が上手かった。まるで箭に見えない糸が結ばれていて、それを壺の中から
「
男はわたしに箭を手渡して、場所を
「
「そりゃあ、あなたに付き合って三日の間、投壺ばっかりやっていればうまくもなりますわ」
「そういうものでもないさ。お前は、なかなか筋がいい」
こんなことで褒められても、ちっとも嬉しくなんかありゃしない。これで気が済んだかと思うと、今度はわたしに目隠しをしてやってみろと言う。
仕方なく、渡された布で目隠しをする。思ったより闇が深く、急に心細くなった。
「こんなの、できるわけが――」
思わず絶句した。男の身体が、背後からわたしに密着していた。
「いいかい。肩の力を抜くんだ」
男の声が耳元で囁く。男はわたしの右手に、自分の
「そう。ゆっくり腕を上げて一度
ため
を作るんだ。わたしはまるで
ここに売られてきた日、あてがわれた物置のような狭い部屋の中で一晩泣き明かしたあとの未明、白々と霞に覆われた
「
わたしは、奇妙な思いに捉われていた。わたしの背後にぴったりと重ね合わされている男の胸の感触がへんに柔らかいのだ。これでは……これでは、
「あなたは、いったい――」
「わたしは、
「
箭が空を切る音がした。
背中が急に軽くなった。
目隠しをかなぐり捨てる。部屋の
箭はあやまたず壺に投げ入れられ、
思わず窓辺に走り
※1 「瓜子」には「葵花籽(ヒマワリの種)」、「南瓜籽(カボチャの種)」、「西瓜籽(スイカの種)」等の種類があるが、ここでは「葵花籽」のイメージ。