第2話 ぬばたまの(二)

文字数 2,170文字

 あれは、わたしが九つの年の正月の出来事だった。

 毎年正月二日に、父はわたしを連れて本家へ挨拶へ行くのが(なら)わしだった。
 その日は、珍しく倭文子の具合がよかった。正月らしい晴れ着に身を包んだ倭文子の姿は眼の醒めるほどの美しさだった。
 大人たちが御屠蘇に酔っている時、わたしたちは子供部屋で百人一首をしていた。
 あの日の倭文子はよく笑った。わたしも釣られて笑った。
 倭文子の弟の祐臣(すけおみ)だけが、札をうまく取れずにいらいらしていた。

 夜になって、雪が降った。
 倭文子が雪に触りたいと言い出した。身体に(さわ)るからおやめなさい、とわたしは言った。素直にあきらめるかと思ったら、生来(せいらい)内気で、いつもあやまってばかりいる倭文子が、この日だけは変に頑強だった。(そら)から降ってくる雪を(てのひら)で受け止めてみたいと言う。

 ついにわたしは折れた。倭文子にぶ厚い綿入れを着せ、手を引いて一緒に沓脱(くつぬぎ)から庭に下りた。ごめんなさい。下駄を揃えてやったわたしに、倭文子はまたあやまった。お雛様みたいに小さい足だと思ったのを覚えている。

 開けた障子から洩れる()が、真っ白な庭の一部を四角く切り取ったよう照らしていた。
 倭文子は池の方へ行きたいと言った。わたしはまた倭文子の手をとって、ゆっくり池の(はた)まで歩いていった。雪の上に下駄の足跡がつくのを、倭文子は物珍しそうに、振り返り振り返りしては眺めていた。

『池の上に雪は積もらないのね』
 感心したように倭文子が言うのを聞いて、わたしは呆れた。
『そりゃそうよ。水の面に触れた瞬間、雪は溶けてしまうんだもの』
『ごめんなさい』倭文子は恥じ入るように俯くと、小さい声で言った。『わたし、ばかだから』

 起きている日より(とこ)()いている日の方がはるかに多かった倭文子は、小学校にもほとんど通っていなかった。父の命令でわたしは時々本家へ行き、倭文子専属の、小さい家庭教師みたいなことをしていた。わたしは人に勉強を教えるのが嫌いではなかった。だから気にしなくてもいいのに、倭文子の方では、いつもわたしにすまないという気持ちが働いていたらしい。算数の計算を間違えたりすると、すぐ泣きそうな顔になって、こう言うのだった。
『ごめんなさい。わたし、ばかだから』
 その顔が、なぜかわたしの()(ぎゃく)心を刺激した。
 わたしは、わざと難しい問題を出して、倭文子が、あの抜けるように白い、ほっそりした(うなじ)を真っ赤に染めて困っているさまを、猫がわざと時間をかけて小動物をいたぶるような残虐な(よろこ)びをもって眺めていた。
 分家の子の、どうしようもなく歪んで卑しい復讐心だった。

 倭文子の口から洩れる息は真っ白で、わたしは気が気ではなかったのだが、それでも倭文子はなかなか池の端を動こうとしなかった。両手でお椀のような形をつくって降る雪を受けたり、池の上まで(しま)をなして伸びている部屋の灯が、水に溶ける寸前の雪片を燃やすように(きらめ)かすさまを息を詰めて見つめては、
『きれい』
 うっとりと呟いたりした。
『もう戻りましょう。また熱でも出たら大変だわ』
 わたしは少し強い口調で言った。
 倭文子はわたしを上目遣いに見て、随分間をおいてから、小さく頷いた。わたしはほっとすると同時に、倭文子の仕草の、いかにも渋々という様子に思わず吹き出して――

 

は、その直後に起こったのだ。

「高子姉さん」
 十年前の雪の日の中にいたわたしは、はっと現実に戻って倭文子を見つめた。
 倭文子が、両手をわたしの方に差し伸ばしていた。
 思わず顔を近づけると、倭文子がわたしの着物の襟を掴み、いきなり引き寄せた。わたしは倭文子の上に覆いかぶさる形になってしまった。
 刹那。
 枕の上に海藻のように広がっていた倭文子の髪がするすると伸び、(つる)薔薇(ばら)か何かみたいにわたしの身体に絡みついてきた。慌てて上体を起こそうとした時には、もうわたしは倭文子の髪でできた(まゆ)の中に包み込まれてしまっていた。
「ごめんなさい」
 耳元で囁く倭文子の声が、火のように熱い。
 長いこと陽に当たっていないため、倭文子の(はだ)は以前より一層白く、骨が透けて見えるかと思うほど透きとおっていたが、その奥から炭火が(おこ)るように赤みが滲んできた。
 倭文子は自分の唇で、わたしがいつも前髪で隠している生え際を探ると、引き()れのようになっている傷跡の上に、接吻(せっぷん)の雨を降らした。わたしはなぜだか急に身体の力が抜けてしまい、倭文子の髪の繭の中で、されるがままになっていた。
 倭文子は上ずった声で囁き続けた。熱い息が私の耳を濡らした。
 ごめんなさい、高子姉さん。ごめんなさい。百人一首に負けた腹いせにわたしを突き飛ばしたのは祐臣だったのに、あなたがひとりで罪を被って叔父さまに折檻され、こんな一生消えない傷跡を残すことになってしまった。わたしがいけなかったの、まさか高子姉さんのせいになっているなんて夢にも知らなくて。ごめんなさい。わたしはいつも姉さんに迷惑ばかりかけてきました。生きていれば罪を償うこともできたかもしれないけれど、今生(こんじょう)では返しようがないみたい。ごめんなさい、本当にごめんなさい……。

 倭文子は、切なげに身もだえした。わたしも、いつかきつく倭文子の薄く小さな身体を抱きしめていた。そうしていなければ、倭文子が雪のように溶けて、このまま何処(どこ)かへ消え失せてしまいそうな気がしたから。 
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