第13話 魔法はまだ……

文字数 3,331文字

 これが珈琲というものでござるか、と相手が言った。

「そうでござるのよ」
 わたしの言葉遣いがおかしくなっているのは、今テーブルでわたしと向かい合っている侍のせいだ。

「ふむ。なんとも邪悪な、闇のような色を湛えた液体でござるな」
「キリスト教では『悪魔の実』と言われていたこともあるそうよ」
「なんと、そのようなものを里緒(りお)どのは日頃飲んでおられるのか」

 口元には微笑が浮かんでいるが、彼の目は大きく見開かれている。目の前に置かれた、湯気の立つカップを見つめて、明らかに戸惑っている。これが演技なら、たぶん、『VIVANT』の堺雅人よりうまい。
「ねえ、あなた本当に、『パリピ孔明』のマネをしているイタい人じゃないのよね」
「孔明とは、諸葛亮のことでござろう。しかし、『パリピ』とはいかなる意味にて……?」

 ハロウィンで侍の恰好をしている人を見れば、コスプレだと思うのが自然だ――というか、他に考えられない。だから、あんな出来事さえなければ、チョンマゲも刀もすごくリアルだな、気合い入ってるんだな、と思っただけだったろう。このためにわざわざ月代(さかやき)を剃ったの? お祭り騒ぎが終わった後、困ったりしないのかしら。

 自分のマンションの近くまで帰ってきたところで、死神と狼の仮装の男たちに絡まれた。

 自分が浮いているのはわかっていた。皆が仮装して上機嫌に騒いでいる中を、残業帰りのパンツスーツの女が足早に通り過ぎようとすれば、逆に目立ってしまう。

 ひとりが両腕を広げてわたしを通せんぼし、思わず足を止めたところを数人に囲まれた。だいぶ酔っているらしい。何かのたがが外れてしまっているように見え、腋の下に冷たい汗が滲んだ。どう対処していいかわからない。舌が喉の奥に詰まったようで、声すら出せない。

 その時、侍が男たちの間をすっと通り過ぎた。男たちに絡まれる前に、ちらっとわたしの視界に入った、あのリアルな侍だった。

 別に押し通るという感じではなかった。人ごみを巧みに縫って歩く人のような軽やかな動きだった。

 パチン。

 侍の刀の鍔が鳴った。わたしの目には、そうとしか見えなかった。

 瞬間、狼の被り物が真っ二つに割れ、中から意外に気の弱そうな顔が覗いた。死神のマントが地に落ち、貧弱な毛脛が剥き出しになった。

「さ、早く」
 侍はわたしの手を握って、走った。
 後ろで間の抜けた悲鳴と、それを掻き消す大きなどよめきが上がった。
「今は慶応何年でござるか」
 走りながらもまったく息を乱さず、侍はわたしに訊ねた。青い月の光が、その端正な顔を照らしていた。

 ※※※※※

 部屋に戻る前に、コンビニで遅い夕食を買った。
 中身が梅干しや鰹節だけの、一番シンプルなおにぎりを買った。
 日本人が牛肉などを食べ始めるのは明治の世になってからだったはずだ。
 助けてもらっておいて、おにぎりだけではあんまりなので、冷蔵庫にあった茄子で煮びたしを作った。これなら口に合うんじゃないかと思ったのだ。

 ふと見ると、おにぎりのビニールのフィルムを外すために、侍が小刀を取り出したところだったので、慌てて止めた。

 フィルムの外し方を教えると、感に堪えたような顔をして、わたしの手元を見つめていた。二つ目のおにぎりのフィルムは、自分できれいに外した。

「器用なのね」
 と褒めると、侍は微笑んだ。少年のような笑顔、というのともちょっと違う、ひどくきれいな笑顔だった。肉を食べなかった時代の人は、化学調味料に塗れたわたしたちよりずっと清らかな体をしていて、だからこんなふうに笑えるのかもしれなかった。

 その時にはもうわたしは、彼が幕末からタイムスリップしてきた侍だと信じて疑わなかった。西洋人は月の光に人を狂わす作用があると信じているそうだけれど、もしかしたらわたしも、ハロウィンの月の魔法のせいで、頭がおかしくなっているのだろうか。

 おにぎりも茄子の煮びたしも、侍はきれいにたいらげてくれた。

(うも)うござった。おかげで、ようやく人心地つき申した。里緒どのの包丁さばきは、お見事でござるな」
 などと、急いで作った簡単な料理を大げさに褒められ、わたしはあいまいな笑顔を浮かべるしかなかった。

「ただ、娘御(むすめご)が夜分にあのようなところをひとりで出歩くものではない。どのような事情があったのかは存ぜぬが、もっと御身(おんみ)を大切にせねば」

 静かに諭されて、わたしはなんだか泣きそうになった。本当にひさしぶりに、男のやさしさに触れた気がした。御身。自分の体を、そんなふうに言われたのは初めてだった。確かにわたしは最近、自分の体をあまり大切にしていなかったような気がする。

 言い訳は、ある。急な転勤でこの町にやって来たのは春のことだったから、まさかマンションの前の通りが、ハロウィンの仮装をした人たちの練り歩くルートに当たっているとは知らなかったのだ。もちろん、総合職を選んだ時点で、残業や転勤があるのは覚悟の上だったけれど、それにしても急な辞令だった……。

 そんな事情を、相手に説明しようとは思わなかった。説明してもわかってもらえないだろうというより、その必要を感じなかった。

「はい」妙に素直に答えてしまい、わたしは急に恥ずかしくなった。頬が熱い。男の人の前で顔を赤らめるなんて、何年ぶりのことだろう。

「里緒どの、実は(それがし)、先ほどは嘘をついており申した」
 その言葉に、はっとした。やっぱり。運動神経抜群の新人俳優の人助け?わたしに絡んできた男たちも事務所の人たち? 仕組まれた美談。ちゃんと動画を撮っている人もいて、今頃SNSでバズっているのか。

「珈琲のことでござる。某、飲んだのは初めてにあらず」
「こーひー?」
 わたしは相手の顔を、まじまじと見つめてしまった。侍は、こちらが切なくなるほど澄んだ目をしている。

「某の時代にも、珈琲はあり申した」
「ほんとう?」
「長崎で、ある阿蘭陀(オランダ)商人と懇意になり、珈琲を饗してもらったことがござる」
「じゃあ、さっきはなんで嘘をついたの」
「里緒どのが、某の驚く顔を期待しておられるように見えた故」
「あら、わたしを失望させないため? 女扱いがお上手なのね」
 皮肉っぽく言ったつもりなのに、相手は悠然と微笑んでいる。今の人間とは心構えが違うのか、落ち着き払っていて、ちょっと憎らしい。そもそもタイムスリップしてきた人なら、もっと狼狽したり、慌てたりするべきでは?

「『珈琲』という字の本来の意味はご存知か」
「本来の意味?」思いがけない侍の質問に、わたしは目を丸くする。
左様(さよう)。珈琲の『珈』という字は、玉の垂れた(かんざし)の意。『琲』も、玉を連ねた飾りを表す字にござる」
「へえ」知らなかった。「どうしてそんな字を当てたのかしら」
「『珈琲』の字を当てたのは、蘭学者の宇田川榕菴どのだったと聞いており申す。珈琲の赤い実が簪の玉に似ておるが故と――」
「なるほど、ね……」

 ――侍に 雑学(トリビア)を聞く 秋の夜

 下手な俳句みたいなものが頭に浮かんでしまった。やっぱり、今夜のわたしはおかしい。

 ふと気づくと、侍の瞳がどこか遠くを見るような色を湛えていた。

「あなたの時代の、きれいな女の人でも思い出しているようなお顔ね」
 少し意地悪な口調になってしまったのがなぜなのか、自分でもよくわからない。

 え……。

 侍が何も言わず、いきなりわたしの頭に手を伸ばしてきたので、わたしは反射的に首をすくめた。何をするの。

「里緒どのは海草の如き髪をしておられるが、この髪を結って赤い玉の簪を挿したら、さぞお似合いでござろうな」
「海草って……」私の美容師が聞いたら泣くだろう。
「これは……失礼仕った」侍は、はっと我に返ったように手を引っ込めた。

 ちょっと、いきなり髪に触ってくるとか、何考えてるの。いかにも堅物みたいなふうをして、油断ならないったらないわ。涼しい顔して嘘もつくし、なんなのよ、この侍は。

 わたしの心臓は今、百メートルを全力疾走した後のようになっている。前に全力疾走したのは、いつのことだったろう。前に恋をしたのは、いつのことだったかしら。
 
 ハロウィンの魔法は、まだ解けていないらしい……。

                                  (第十三話・了)
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