第8話 現実と夢宙世界が繋がれる日
文字数 6,418文字
「小杉さん、俺、悪魔に会ってきた」
その突拍子もないセリフは、巡回を終えたタイミングだった。
小杉は顔を上げ、あえてゆっくり珈琲を飲み込み、ただ無言で微笑む。
「信じないよね、当然だ。でも、近々に知ることになるかも知れないですよ」
その反応にたじろがず不敵な笑みの慶治、それだけ言って水屋で珈琲を入れる。彼には理解して貰えない領域だと判断していた。
(夢宙世界の話をすれば、口論で終わる。――おそらく人間は育った環境や経験値が固定化され、その変更は容易ではない。それに両親から受け継いだ遺伝要素や命の癖のようなもの、言い換えれば『傾向性』を変えるのは、自分が実際に経験しない限り無理だろう)
達観の慶治、明るく微笑みかえす。小杉が必死に平然さを保とうとしている心理が、手に取るようにわかるのだ。――(俺、バージョンアップ?)
「……まぁ、それはいるわな。近年では有名すぎるヒットラー、近いところではプーチンが有名だね。悪魔顔負けの残虐の限りを指揮した人物だね。しかも自らは直接には手を下さずに――もち、これはこの二人に限った話ではないけれどね」
その小杉の言葉を切り口にする。
「小杉さん、人類のもっている残虐性ってなんだろう。そうだ、キリスト教ではどう解釈しているの」
「……そうだなぁ『原罪』だろうか。――それはね、ユダヤ教の『アダムの犯した罪が全人類に及ぶ』という説。でも、……キリスト教系の多くは、その説の教義化を避けているけれどね」
今夜の彼、キリストにはあまり触れられたくないようだと感じた。それで二人の今夜の対話は変化して、いつしか中国の思想家荀子 が唱えた性悪説 と孟子 の性善説 へと置き換えられた。
「ほんと、人間は想像力が豊かだね」
「悪魔に会ってきた」ことへの当てつけだろうと、慶治は軽く無視をする。
人間の『善悪テーマ』で話は弾んだが、――この中国発の人間の本性に対する主張については、なんとなく理解してもそこに至った根拠が明確でない。それが二人の共通認識であった。
『最初に本人が説いた説は、根拠が明確でないにしろ説得力をもち凄いが、後継者が個人解釈で作り上げた論語のたぐいでは、もっとも論 の言葉遊びで、人間精神の根本解決ではない』
結局そこにいきつき、二人は今夜も疲れ切って話を終えた。
やがて『睡魔』に襲われた小杉が、宿直室に去って行く。いつもの平穏なパターンである。取り残された今日の慶治は、良い意味で執筆気分では無い。事務所内のボンボンベッドに横たわると、悪魔と宣戦布告を交わした日からのいきさつを辿った。
――あの宣戦布告の翌日からの夢は、もう見慣れた四方壁の室内だった――。
その穏やかな夢でミツル・ラートは言った。
「ここ、悪魔も寄り付けない環境だよ」
その、小生意気な言いぐさ。
「それって、今までは悪魔と出会うための場所設定だったわけかい」
尋ねると「そうだよ」と、あっけらかんとして答えた。
「……忙しくて、親友の休みがなかなか取れない」
そう告げると、「分かった」と言った。
「これまでの惑星でのパターンだと、悪魔一族によって都合があるようだし、それまでに現実世界にはられた伏線も巧みだから、すぐには行動を起こさない」
幾多の経験を重ねたらしい彼、初めて会った頃より身長が伸びて見えた。
(ミツルは死人らしいが、憑依しているラートの成長が影響しているのかも知れない。でも人の死って、どうなっているのだろう。ミツルのように成仏できないでいる魂は、今後どうなるのだろう。疑問だらけだ)
生命の永遠性――考えるほどに迷宮の世界にはまり込んでいく気分だ。同僚の小杉は魂や生命の永遠性を否定しているが、そのほうが楽かと思える。
(彼との違い、どうしてだろう)
ミツル・ラートなら答えを持っている気がするが、今はその流れではない。
「おんちゃんの『スマホ』一日預かっていいですか」
唐突にラートが言った。
(彼の世界にもスマホがあるのか!)
「いいけど、スマホは……」
言い終えないうちに、スマホを握っている自分に慶治は気がついた。
「あれ、いつの間に」
「うん。僕がスマホ持参、意識誘導したの」
いたずらっ子は笑う。
「だって慶治さん、『門番能力者』なの。なんだって可能ですよ」
おんちゃんと、呼び名を使い分ける。
「ああ、以前より自分の姿がはっきりと見える」
「うん、自覚したせい」
スマホの目的を聞くと『通信アプリ』を入れるためといった――(次元を超える通信用アプリ)――慶治の世界ではあり得ないレベルだ。
翌日には、その改造された『夢宙スマホ』を持って少年は現れた。
ふんいき慶治のものだが、見覚えのないスイッチがいくつか付いていて、すでに異次元製品だと認識できた。生まれて初めてスマホを手にした時の感動、それをいくつも飛び越えた先にもまだあり得ない、まさに『神器』だ。
「鬼に金棒って……知らないと思うが、このスマホすごいねえ」
操作を習っているうちに、強い味方を得た気分になった。
それに二人の次元には、約十二時間の時差があることも知った。
「そうか! 俺、昼夜逆転の生活だから、接見の都合が良かった訳だ」
みょうに納得した。
その夜以来、ひと段落したのか少年は現れなくなった。以前のように気楽な夢だった。今の慶治は、よく理由が分からないが精神に宿る『真理』と呼ばれる領域を覗き込もうとしている自分がいて、魂という不思議なスペースの存在を意識している。だから小杉との会話も余裕であったのだ。満たされた気持ちで眠りにつけていた――。
――勤務明け十七日は、とても明るい朝だった。軽快にボンボンベッドから飛び起き、ドア解錠に向かった――。
勤務を終え、北山通りに近い資料館に寄ることにした。
そこは京都コンサートホールに隣接する京都府立京都学・歴彩館内にある。慶治は昼まで精神病理学関係の本を、読む気満々である。
異常な高温世界よりも、ここの館内には自販機もあり清潔なトイレで申し分ない。クーラーの効いた静かな環境の中で、椅子に座ってゆっくり本が読める。
(どんな形で、悪魔はやってくるのだろう)
ふと思ったが、今の慶治にまだ焦燥感などない。
精力的に本を読み漁った。だが夢についての解明と思慮を与えてくれる書籍には、結局ここではめぐり逢えなかった。それで野登人が常々言っていたユングとフロイトについての書籍を見つけて、それを読むことにした。
その中で、彼らが人の精神を探求する中で『深層心理学』や『集合的無意識論』に至る過程に興味を惹かれた。人の精神のなりたちを、彼たちの幼児期の精神基盤であろう宗教。つまり一神教(キリスト教やイスラム教など)の全能の神、そこにゆだねる内容ではなかった。――その意外性に驚いた。
(もしかして二人は東洋思想、なかんずく仏教思想を学んでいたのだろうか?)
過去の偉人が仏教的思考で人の精神の姿を捉えていたのかもしれない。そう知ると、人種を越えた共通概念が存在することの不思議を感じた。――アナログ思考がデジタル化した思いだ。同時に日本に存在するという神々の伝承と、伝来仏教に誇りを感じ、理由なく心が安らかになったと思う。
喉が渇き自販機に向かっていると――館内に非常警報が鳴り響いた。
(まただ!)
同時に足元に揺れが訪れ、彼は安全な場所を探した。
頑丈な建物が軽々と踊る。あちこちから擬音でない振動音が伝い来る。書棚から書籍が飛び出す音だ。その揺れ具合から先日の京都発ではなく、四国沖の地震絡みだろうと彼は直感した。
(……いよいよ悪魔、お出ましか!)
今の慶治落ち着いていて、思考感性はそこまでアップしている。あのミツル・ラート少年が言っていた。これは生と死のあいだを移動することで得た『特別な感性』なのだろう。
やがて地震がおさまると、常設物が散在した資料館を出た。
そして北山通りの、もはや天災慣れしたラーメン店の清掃を終えるのを車でのスマホ読書で待ち、ゆっくり食事を済ませた。気がつくと、外国人で満席だった。
野外は相変わらず三十九度越えの日差しで、帽子の中が熱をもってくる。救急車をやり過ごすと、洗濯が溜まっているのを思い出した。一向に冷えることのない愛車を、北山通りから西に向かって走らせる。
賀茂川を渡るとすぐに右折で加茂街道、木々が車道を囲う涼しげなトンネルを北上する。先日に九條を送り届けた街道だ。この道は、気分の落ちつくお気に入りの帰宅コースでもある。
(アブラ蝉は、たくましい)ガラス越しに聞こえる。
慶治は御園橋近くのコンビニで、アイスキャンディを買った。
帰り着くと、部屋を整理して下着一枚と短パンに姿になる。
つねは昼過ぎに睡眠体制に入るのだが、今日から五日間のリフレッシュ休暇だ。ゆっくり気分なのだ。ベッドに横になると、TVから『観測史上初の猛暑・大雨特別警報』など聴き慣れた枕詞がながれる。今日の豪雨被害は東北のようだ。冠水した車が映し出されていた。ゲリラ豪雨は日本中をくまなく巡回している。
(地震報道より、そっちか)
そう考えながら、イチゴ味のアイスキャンディを食べる。
今や世界的に大地震や熱波による森林火災、それに豪雨もあれば干ばつ報道も混じる昨今だ。日本に限ったわけではない、世界中の映像までが獰猛になり始めている。
横目で机の上のパソコン画面を確かめると、まだ地球外遠隔で自動作動 している。その端末に夢宙スマホが繋がっていた。
――慶治は気合を入れ立ち上がり、溜まっていた洗濯物を抱えて屋上に向かった。
なんとそこには九條が居た。彼女は洗濯を終えそれを干しにかかっていた。慶治に気づくと手を止めて、無言で頭を下げたので慶治もそれに応えた。雪の朝が、もう遠い過去に思われた。
なんか互いに目が合うと、二人して笑顔を取り繕った感じ。慶治は恥ずかしく洗濯物を洗濯機の一台に放り込む。屋根付きの物干し台は、今日は干しスペースも充分余裕だった。九條は少し目を離すと消えていた。
「チエッ」
やんごとない気分のまま部屋に戻ると、クーラーがやっと効き始めうなっている。メモしていた時間を確かめ、創作用の机に座る。そこには素粒子仕様のAIパソコンと、それに数日間繋ぎっぱなしの『夢宙スマホ』が置いてある。これは地球上のデーターの漏洩だ。先程まで目まぐるしく稼働していたパソコン画面は、すでに静止していた。
(どうやら、完了のようだな)
ラートから、慶治の惑星内データーが必要だと言われていた。
「スマホ構造から推察して、地球のコンピューター、うちのペースでデーターを収集すると、そちらのサーバがクラッシュするね。それに世界中のデーターが欲しいので、少し時間かかりますよね」
すまし顔で笑って言われ、腹が立ったのを思い出した。
慶治はスマホを外すと、まず田舎に電話を入れた。
――電話に出た母親は、『今日は震度六で、前回よりも強かったねえ、田中さんとこや、川西路 の崖が崩れたがよ。けんど、割に町の被害は少なかったがねえ。……みな大丈夫やき』そう言って、3D モニター画面で笑った。
「よかった、安心したよ」
電話を終えると、すぐに強烈な眠気が襲って来た。
ベッドで気持ち良く転寝 をする。――やがて普通 の幻想迷路のような浅い夢をみた。初めての九條女子とのセクシーな展開内容で、慶治はすこぶる愉快で興奮気味だった。
(……!)
その無警戒な夢から、刺激的だった九條が突然消えた。
思わず夢精しそうだった気分と入れ替わり、夢に寒風が吹き慶治は凍りついた。躰すべての体毛が逆立つような強い冷気が背後から襲いかかってくる。それは防ぎようのない威圧と形容しがたい恐怖を帯びていて、どうにも眼が開かない。
全身に針に刺される痛みが訪れる。まれに訪れる彼の痙攣痛だ。
(あッ)
襲い来た『それ』は易々と背後から彼の躰に侵入し、ヌルリと冷たい感触を置き去りにして通り抜けた。――あとに残された臭いは、まるで胃の中のものが吐き戻されたように生臭かった。
(これは、もしかして!)
眠気は吹き飛び眼を開いた。点けっぱなしのテレビでは、地震関連ニュースが続いていた。そんなことより、彼の気持ちはそこにない。
一時的な痙攣発作は収まったが、かわりに長く泳いだ後のような、けだるい疲労感が重く襲ってくる。呼吸がしづらく、彼はアブラ蝉の抜け殻のように横たわり呆然とした。カチカチと音のする時間が、彼の周辺を知らん顔で通り過ぎていく。
――どれぐらい時間が経過したであろうか。
突如、慶治の意識の隅をめがけ、廊下を走る音が過激に伝わってきた。やがて激しくドアを叩く音を認識すると、彼はバネ仕掛けの絡繰り人形ように飛び起きて、ドアを開けると野登人だった。
「大変じゃ!」
大声を張り上げて、野登人は部屋に勝手に上がり込む。
そしてテレビ画面を素早く確認すると、リモコンを拾い上げチャンネルを切り替える。京都のローカル局に切り替えると座り込んだ。まったく行動が理解出来ない慶治は、野登人の背後にたたずみ躰越しに画面を見た。
「慶治、大変じゃあ!」
振り返った野登人はもう一度、近所をはばからずに叫ぶ。テレビの中でも人びとが叫んでいるのが、慶治にも伝わった。
「いったい、どうしたが!」
野登人の絶叫につられて叫んだ。
「新京極で殺人狂だ。これは生中継じゃ」
もう一度振り向きそう言い放つと、テレビ画面に目を戻す。その瞬間、慶治の背骨あたりがズキンとした。
(え、まさか!)
「おまんの言うちょった 夢と、おんなじじゃ」
野登人は振り返らず、テレビを見たまま言った。
画面には流血騒ぎのプロレス中継のように、マイクを握りしめて実況中継する男のアナウンサーがいた。カメラと現場を忙しく見やり、人びとの声に負けないように絶叫している。どうやら祇園祭の余韻で賑わう新京極で、生中継中のハプニングらしい。
そのアーケード街には、『コンコンチキチン、コンチキチン』の祇園囃子が、まるで囃し立てるように流れている。
『新京極通りで、日本刀を持った若い男が、無差別に人を切りつけています。現場はまるで――まるで地獄の形相です。あッ、また一人切られた』
画面切り替えを忘れたデジタル放送のライブは、人の血の色をリアルに映し出している。その興奮状態のアナウンサー、スタッフから渡されたメモを見た。
『え―、ただ今、え―入った情報によれば、男は近くの寺で行なわれていた祭事に参加していて、突然に住職を切りつけ、逃げ出す僧侶らを追って新京極に入り込んだようです。――あッ、駆けつけた警官が、警官が切られました。銃で撃ち殺せ! ほかの警察官はどうしている』
アナウンサーは報道ルールを忘れ叫ぶ。それほどまでに現場は荒れているのだろう。
『パン。パン。パン』
アーケード内に乾いた銃声が響く、騒ぎが一瞬止まった。――まるでスローモーション映像のように、白カッターシャツを真っ赤に染めた若い男は、自分の胸のあたりを見ながら、何ごとか叫びながらゆっくりと倒れこむ。
ワンテンポおいて、極度の恐怖に晒されていた何人かがこわごわ犯人に近づく。動かないと分かると、犯人を足で蹴り上げた。新手も加わり、しだいに集団リンチの様相になった。それを警官が必死に押し止める。ストレス社会ゆえに、もう見飽きた日常的な風景画である。
慶治の躰はこわばったまま、驚愕と憤慨と虚脱感が同時に押しよせるのだった。
「信じられん!」野登人が怒った。
慶治はこの時、その狂人を駆り立てたのだろう悪魔。その存在を現実の世界で実感として受け止めた。――そいつは間違いなく恐怖を引き連れて、夢の中からやって来たと確信している。横の野登人もマジ顔だ。
(これで彼も狂言でないと信じてくれた……だろうか?)
心の斜め方向に若干の不安が残る慶治であった。
その突拍子もないセリフは、巡回を終えたタイミングだった。
小杉は顔を上げ、あえてゆっくり珈琲を飲み込み、ただ無言で微笑む。
「信じないよね、当然だ。でも、近々に知ることになるかも知れないですよ」
その反応にたじろがず不敵な笑みの慶治、それだけ言って水屋で珈琲を入れる。彼には理解して貰えない領域だと判断していた。
(夢宙世界の話をすれば、口論で終わる。――おそらく人間は育った環境や経験値が固定化され、その変更は容易ではない。それに両親から受け継いだ遺伝要素や命の癖のようなもの、言い換えれば『傾向性』を変えるのは、自分が実際に経験しない限り無理だろう)
達観の慶治、明るく微笑みかえす。小杉が必死に平然さを保とうとしている心理が、手に取るようにわかるのだ。――(俺、バージョンアップ?)
「……まぁ、それはいるわな。近年では有名すぎるヒットラー、近いところではプーチンが有名だね。悪魔顔負けの残虐の限りを指揮した人物だね。しかも自らは直接には手を下さずに――もち、これはこの二人に限った話ではないけれどね」
その小杉の言葉を切り口にする。
「小杉さん、人類のもっている残虐性ってなんだろう。そうだ、キリスト教ではどう解釈しているの」
「……そうだなぁ『原罪』だろうか。――それはね、ユダヤ教の『アダムの犯した罪が全人類に及ぶ』という説。でも、……キリスト教系の多くは、その説の教義化を避けているけれどね」
今夜の彼、キリストにはあまり触れられたくないようだと感じた。それで二人の今夜の対話は変化して、いつしか中国の思想家
「ほんと、人間は想像力が豊かだね」
「悪魔に会ってきた」ことへの当てつけだろうと、慶治は軽く無視をする。
人間の『善悪テーマ』で話は弾んだが、――この中国発の人間の本性に対する主張については、なんとなく理解してもそこに至った根拠が明確でない。それが二人の共通認識であった。
『最初に本人が説いた説は、根拠が明確でないにしろ説得力をもち凄いが、後継者が個人解釈で作り上げた論語のたぐいでは、
結局そこにいきつき、二人は今夜も疲れ切って話を終えた。
やがて『睡魔』に襲われた小杉が、宿直室に去って行く。いつもの平穏なパターンである。取り残された今日の慶治は、良い意味で執筆気分では無い。事務所内のボンボンベッドに横たわると、悪魔と宣戦布告を交わした日からのいきさつを辿った。
――あの宣戦布告の翌日からの夢は、もう見慣れた四方壁の室内だった――。
その穏やかな夢でミツル・ラートは言った。
「ここ、悪魔も寄り付けない環境だよ」
その、小生意気な言いぐさ。
「それって、今までは悪魔と出会うための場所設定だったわけかい」
尋ねると「そうだよ」と、あっけらかんとして答えた。
「……忙しくて、親友の休みがなかなか取れない」
そう告げると、「分かった」と言った。
「これまでの惑星でのパターンだと、悪魔一族によって都合があるようだし、それまでに現実世界にはられた伏線も巧みだから、すぐには行動を起こさない」
幾多の経験を重ねたらしい彼、初めて会った頃より身長が伸びて見えた。
(ミツルは死人らしいが、憑依しているラートの成長が影響しているのかも知れない。でも人の死って、どうなっているのだろう。ミツルのように成仏できないでいる魂は、今後どうなるのだろう。疑問だらけだ)
生命の永遠性――考えるほどに迷宮の世界にはまり込んでいく気分だ。同僚の小杉は魂や生命の永遠性を否定しているが、そのほうが楽かと思える。
(彼との違い、どうしてだろう)
ミツル・ラートなら答えを持っている気がするが、今はその流れではない。
「おんちゃんの『スマホ』一日預かっていいですか」
唐突にラートが言った。
(彼の世界にもスマホがあるのか!)
「いいけど、スマホは……」
言い終えないうちに、スマホを握っている自分に慶治は気がついた。
「あれ、いつの間に」
「うん。僕がスマホ持参、意識誘導したの」
いたずらっ子は笑う。
「だって慶治さん、『門番能力者』なの。なんだって可能ですよ」
おんちゃんと、呼び名を使い分ける。
「ああ、以前より自分の姿がはっきりと見える」
「うん、自覚したせい」
スマホの目的を聞くと『通信アプリ』を入れるためといった――(次元を超える通信用アプリ)――慶治の世界ではあり得ないレベルだ。
翌日には、その改造された『夢宙スマホ』を持って少年は現れた。
ふんいき慶治のものだが、見覚えのないスイッチがいくつか付いていて、すでに異次元製品だと認識できた。生まれて初めてスマホを手にした時の感動、それをいくつも飛び越えた先にもまだあり得ない、まさに『神器』だ。
「鬼に金棒って……知らないと思うが、このスマホすごいねえ」
操作を習っているうちに、強い味方を得た気分になった。
それに二人の次元には、約十二時間の時差があることも知った。
「そうか! 俺、昼夜逆転の生活だから、接見の都合が良かった訳だ」
みょうに納得した。
その夜以来、ひと段落したのか少年は現れなくなった。以前のように気楽な夢だった。今の慶治は、よく理由が分からないが精神に宿る『真理』と呼ばれる領域を覗き込もうとしている自分がいて、魂という不思議なスペースの存在を意識している。だから小杉との会話も余裕であったのだ。満たされた気持ちで眠りにつけていた――。
――勤務明け十七日は、とても明るい朝だった。軽快にボンボンベッドから飛び起き、ドア解錠に向かった――。
勤務を終え、北山通りに近い資料館に寄ることにした。
そこは京都コンサートホールに隣接する京都府立京都学・歴彩館内にある。慶治は昼まで精神病理学関係の本を、読む気満々である。
異常な高温世界よりも、ここの館内には自販機もあり清潔なトイレで申し分ない。クーラーの効いた静かな環境の中で、椅子に座ってゆっくり本が読める。
(どんな形で、悪魔はやってくるのだろう)
ふと思ったが、今の慶治にまだ焦燥感などない。
精力的に本を読み漁った。だが夢についての解明と思慮を与えてくれる書籍には、結局ここではめぐり逢えなかった。それで野登人が常々言っていたユングとフロイトについての書籍を見つけて、それを読むことにした。
その中で、彼らが人の精神を探求する中で『深層心理学』や『集合的無意識論』に至る過程に興味を惹かれた。人の精神のなりたちを、彼たちの幼児期の精神基盤であろう宗教。つまり一神教(キリスト教やイスラム教など)の全能の神、そこにゆだねる内容ではなかった。――その意外性に驚いた。
(もしかして二人は東洋思想、なかんずく仏教思想を学んでいたのだろうか?)
過去の偉人が仏教的思考で人の精神の姿を捉えていたのかもしれない。そう知ると、人種を越えた共通概念が存在することの不思議を感じた。――アナログ思考がデジタル化した思いだ。同時に日本に存在するという神々の伝承と、伝来仏教に誇りを感じ、理由なく心が安らかになったと思う。
喉が渇き自販機に向かっていると――館内に非常警報が鳴り響いた。
(まただ!)
同時に足元に揺れが訪れ、彼は安全な場所を探した。
頑丈な建物が軽々と踊る。あちこちから擬音でない振動音が伝い来る。書棚から書籍が飛び出す音だ。その揺れ具合から先日の京都発ではなく、四国沖の地震絡みだろうと彼は直感した。
(……いよいよ悪魔、お出ましか!)
今の慶治落ち着いていて、思考感性はそこまでアップしている。あのミツル・ラート少年が言っていた。これは生と死のあいだを移動することで得た『特別な感性』なのだろう。
やがて地震がおさまると、常設物が散在した資料館を出た。
そして北山通りの、もはや天災慣れしたラーメン店の清掃を終えるのを車でのスマホ読書で待ち、ゆっくり食事を済ませた。気がつくと、外国人で満席だった。
野外は相変わらず三十九度越えの日差しで、帽子の中が熱をもってくる。救急車をやり過ごすと、洗濯が溜まっているのを思い出した。一向に冷えることのない愛車を、北山通りから西に向かって走らせる。
賀茂川を渡るとすぐに右折で加茂街道、木々が車道を囲う涼しげなトンネルを北上する。先日に九條を送り届けた街道だ。この道は、気分の落ちつくお気に入りの帰宅コースでもある。
(アブラ蝉は、たくましい)ガラス越しに聞こえる。
慶治は御園橋近くのコンビニで、アイスキャンディを買った。
帰り着くと、部屋を整理して下着一枚と短パンに姿になる。
つねは昼過ぎに睡眠体制に入るのだが、今日から五日間のリフレッシュ休暇だ。ゆっくり気分なのだ。ベッドに横になると、TVから『観測史上初の猛暑・大雨特別警報』など聴き慣れた枕詞がながれる。今日の豪雨被害は東北のようだ。冠水した車が映し出されていた。ゲリラ豪雨は日本中をくまなく巡回している。
(地震報道より、そっちか)
そう考えながら、イチゴ味のアイスキャンディを食べる。
今や世界的に大地震や熱波による森林火災、それに豪雨もあれば干ばつ報道も混じる昨今だ。日本に限ったわけではない、世界中の映像までが獰猛になり始めている。
横目で机の上のパソコン画面を確かめると、まだ地球外遠隔で
――慶治は気合を入れ立ち上がり、溜まっていた洗濯物を抱えて屋上に向かった。
なんとそこには九條が居た。彼女は洗濯を終えそれを干しにかかっていた。慶治に気づくと手を止めて、無言で頭を下げたので慶治もそれに応えた。雪の朝が、もう遠い過去に思われた。
なんか互いに目が合うと、二人して笑顔を取り繕った感じ。慶治は恥ずかしく洗濯物を洗濯機の一台に放り込む。屋根付きの物干し台は、今日は干しスペースも充分余裕だった。九條は少し目を離すと消えていた。
「チエッ」
やんごとない気分のまま部屋に戻ると、クーラーがやっと効き始めうなっている。メモしていた時間を確かめ、創作用の机に座る。そこには素粒子仕様のAIパソコンと、それに数日間繋ぎっぱなしの『夢宙スマホ』が置いてある。これは地球上のデーターの漏洩だ。先程まで目まぐるしく稼働していたパソコン画面は、すでに静止していた。
(どうやら、完了のようだな)
ラートから、慶治の惑星内データーが必要だと言われていた。
「スマホ構造から推察して、地球のコンピューター、うちのペースでデーターを収集すると、そちらのサーバがクラッシュするね。それに世界中のデーターが欲しいので、少し時間かかりますよね」
すまし顔で笑って言われ、腹が立ったのを思い出した。
慶治はスマホを外すと、まず田舎に電話を入れた。
――電話に出た母親は、『今日は震度六で、前回よりも強かったねえ、田中さんとこや、
「よかった、安心したよ」
電話を終えると、すぐに強烈な眠気が襲って来た。
ベッドで気持ち良く
(……!)
その無警戒な夢から、刺激的だった九條が突然消えた。
思わず夢精しそうだった気分と入れ替わり、夢に寒風が吹き慶治は凍りついた。躰すべての体毛が逆立つような強い冷気が背後から襲いかかってくる。それは防ぎようのない威圧と形容しがたい恐怖を帯びていて、どうにも眼が開かない。
全身に針に刺される痛みが訪れる。まれに訪れる彼の痙攣痛だ。
(あッ)
襲い来た『それ』は易々と背後から彼の躰に侵入し、ヌルリと冷たい感触を置き去りにして通り抜けた。――あとに残された臭いは、まるで胃の中のものが吐き戻されたように生臭かった。
(これは、もしかして!)
眠気は吹き飛び眼を開いた。点けっぱなしのテレビでは、地震関連ニュースが続いていた。そんなことより、彼の気持ちはそこにない。
一時的な痙攣発作は収まったが、かわりに長く泳いだ後のような、けだるい疲労感が重く襲ってくる。呼吸がしづらく、彼はアブラ蝉の抜け殻のように横たわり呆然とした。カチカチと音のする時間が、彼の周辺を知らん顔で通り過ぎていく。
――どれぐらい時間が経過したであろうか。
突如、慶治の意識の隅をめがけ、廊下を走る音が過激に伝わってきた。やがて激しくドアを叩く音を認識すると、彼はバネ仕掛けの絡繰り人形ように飛び起きて、ドアを開けると野登人だった。
「大変じゃ!」
大声を張り上げて、野登人は部屋に勝手に上がり込む。
そしてテレビ画面を素早く確認すると、リモコンを拾い上げチャンネルを切り替える。京都のローカル局に切り替えると座り込んだ。まったく行動が理解出来ない慶治は、野登人の背後にたたずみ躰越しに画面を見た。
「慶治、大変じゃあ!」
振り返った野登人はもう一度、近所をはばからずに叫ぶ。テレビの中でも人びとが叫んでいるのが、慶治にも伝わった。
「いったい、どうしたが!」
野登人の絶叫につられて叫んだ。
「新京極で殺人狂だ。これは生中継じゃ」
もう一度振り向きそう言い放つと、テレビ画面に目を戻す。その瞬間、慶治の背骨あたりがズキンとした。
(え、まさか!)
「おまんの
野登人は振り返らず、テレビを見たまま言った。
画面には流血騒ぎのプロレス中継のように、マイクを握りしめて実況中継する男のアナウンサーがいた。カメラと現場を忙しく見やり、人びとの声に負けないように絶叫している。どうやら祇園祭の余韻で賑わう新京極で、生中継中のハプニングらしい。
そのアーケード街には、『コンコンチキチン、コンチキチン』の祇園囃子が、まるで囃し立てるように流れている。
『新京極通りで、日本刀を持った若い男が、無差別に人を切りつけています。現場はまるで――まるで地獄の形相です。あッ、また一人切られた』
画面切り替えを忘れたデジタル放送のライブは、人の血の色をリアルに映し出している。その興奮状態のアナウンサー、スタッフから渡されたメモを見た。
『え―、ただ今、え―入った情報によれば、男は近くの寺で行なわれていた祭事に参加していて、突然に住職を切りつけ、逃げ出す僧侶らを追って新京極に入り込んだようです。――あッ、駆けつけた警官が、警官が切られました。銃で撃ち殺せ! ほかの警察官はどうしている』
アナウンサーは報道ルールを忘れ叫ぶ。それほどまでに現場は荒れているのだろう。
『パン。パン。パン』
アーケード内に乾いた銃声が響く、騒ぎが一瞬止まった。――まるでスローモーション映像のように、白カッターシャツを真っ赤に染めた若い男は、自分の胸のあたりを見ながら、何ごとか叫びながらゆっくりと倒れこむ。
ワンテンポおいて、極度の恐怖に晒されていた何人かがこわごわ犯人に近づく。動かないと分かると、犯人を足で蹴り上げた。新手も加わり、しだいに集団リンチの様相になった。それを警官が必死に押し止める。ストレス社会ゆえに、もう見飽きた日常的な風景画である。
慶治の躰はこわばったまま、驚愕と憤慨と虚脱感が同時に押しよせるのだった。
「信じられん!」野登人が怒った。
慶治はこの時、その狂人を駆り立てたのだろう悪魔。その存在を現実の世界で実感として受け止めた。――そいつは間違いなく恐怖を引き連れて、夢の中からやって来たと確信している。横の野登人もマジ顔だ。
(これで彼も狂言でないと信じてくれた……だろうか?)
心の斜め方向に若干の不安が残る慶治であった。