第2話 はじまりは古の都がふさわしい
文字数 6,452文字
二〇三〇年七月三日の朝。
徹夜でキーボードを叩いていた。
時間制限のアラームで我に返ると、生更木慶治 はマグカップに残っていた冷たいコーヒーを呷 った。時間は六時。好きな執筆世界に没入していたのは毎度のこと。
両手で後頭部を支えたまま後ろに反り返り、椅子の背もたれで背伸びをすると、しばらくその姿勢をキープする。その間、両目は閉じられたまま。そうすることで幾分疲労が消えていくと思っている。一分ほどのルーティン化された儀式である。
やがて軽く弾みをつけて立ち上がった。
「さむ―ッ」
自律神経が入れ替わり肌寒いと気づいた彼。不可解な気分で窓側に歩み寄りとっくに明るいカーテンを勢いよく開けた。
(……なんじゃ、これは!)
一面の白色。窓外は雪だった――しかもずいぶん積もっている。まるで飛行機で一夜のフライトを経験し、見知らぬ別世界にトリップしたほどの驚きだ。
京都市内の雪は正月前後、あるいは春先に降った事例も過去にはある。
だが昨日まで日本列島は三十九度越えの真夏日であった。熱中症による死亡者は全国で百人越えの更新だと大きく報道されていた。――だから七月に雪なんてありえない、これまでは。
線状降水帯による集中豪雨被害なら、とっくに常套化しているから別段驚きはしない。だが夏の降雪なんて初めてだし事件だろう。
(マジ、温暖化逆行ベクトルではないか)
テレビをつけると――やはりお祭り騒ぎの様相だった。
だが奇妙にも奇妙、京都府だけが雪印。他府県はどこも晴れているようだ。それも日本海側ならともかく、京都市内も南部までスッポリ雪雲に覆われていた。映し出された衛星気象図は見たことのないウルトラ級気圧配置――シベリア寒気団がまるで飛地 のように舌先を伸ばし覆っている。おもわず彼は咳き込み、持病である胸の痛みが出た。
プライドをはぎ取られた気象予報士は、昨夜の晴れ予報を撤回し、未経験な気圧配置の説明分析にしどろもどろだ。代り映えしない朝ニュース担当の論客は、はなしが北の国の新兵器開発論にまで発展し、誰かれもスッポリとその話に嵌 まり込んでいる。
もちろん四季の記載されたカレンダーはとっくにシュレッダー処理されて、骨董屋にも存在しない時代である。今年も五月早々に真夏の酷暑日が訪れて、梅雨前線は強引な高気圧に押しやられ、農家を潤すべき梅雨はついに訪れなかった。その癖、ところを選ばないゲリラ豪雨は唐突に現れる。急速に河川を決壊させると家々や車を飲み込み、土砂崩れは各地に深々と爪痕を残し去ってゆく。アナウンサーは『かってない・観測史上初・歴史的な』に替わる枕詞 を思いつく暇もない。
だがこの雪も初めての驚きではあるが、何が起こってもさして動揺は長続きしない午後には雪と共にすみやかに融けてなくなるだろう。この時代――人びとの感情はいつも希薄な日常を漂う浮雲の中にいるような――そんな時代なのだ。
(自然、……何もかもが狂っている)
親子間の殺し合い、脈絡のない殺人事件、赤ん坊放棄、やむことなく進化を続ける詐欺犯罪、新しい疫病の発生――慶治は自分がなんでこんな世の中に生まれ合わせたのであろうかと嘆く。夢中な執筆活動など、何の意味も持たない気分になってくる。
それでも歌と笑いと踊りは別次元に存在していて、今朝も各局テレビのどこかしこに満載だ。幼児から老齢者までが、痴呆のような笑顔で踊り歌っている。歴史は繰り返すと言うが、彼は過去にあったという『ええじゃないか踊り』きっとこれだと思う。番組提供企業は政府の経済優先にあまんじて便乗値上げを繰り返す。不満を吐きだす国民には口元にビールをあてがい、アルコール依存症や肥満対策は自己責任だ。慶治はニヒルにそう思う。
(きっと誰かが――得体の知れない誰かが――人間をもてあそんでいる)
自分の人生があらがえない強引な力によって、妙な方向に引っ張られているような気がする。心は形容しがたい理不尽さに黒く覆われている。
彼は頭を左右にふり、首筋のこりをとる。コキ、コキと小気味よく鳴った。
次に「ふう」と一息を発した。
寒さを感じかけっぱなしのクーラーのスイッチを切る。それから目線を駐車場の愛車の屋根に移すと、窓から見る限り二十センチ程の積雪のようだった。雪はすでに止んでいて、立てたワイパーにも積もっていた。彼は眩しげに目をしかめ、ゆっくりと視線を周辺の景色に移した。
異常気象と裏腹で空は真っ青な色だった。
意味なく太陽の恩恵に感謝だ――よくよく考えてみたら不思議――八分前の太陽光はなぜに都合よくそこに存在しているのであろうと思う。
「うつくしい」
西側正面に望める『船形山』と北山連峰も、ハイツの背面の東山連峰に昇った朝日を受けキラキラと光り輝いていた。その風景は美しく音を失い、かすかに救急車の音だけが京都盆地の底で鳴り響いているぐらいだ。
賀茂川対岸の側道には通勤だろうエンジン音のない自家用車が大量に行き来している。市内北部のこの地域はベッドタウンでもある。この京都盆地の頂上は冬用タイヤ履きっぱなしが多い。雪で慌てる人びとは少ないだろう
だが地球温暖化の昨今、北大路通り以南の市内では冬用タイヤを用意している人などまずいない。出勤時の今頃は慌てふためいていることだろう。それでもノーマルタイヤで走る輩はつきもので、救急車の音からして事故も多発だろう。
――七月一杯は京都の街は祇園祭で賑やかになる。
八月は墓参りや五山の送り火だの地蔵盆だのと、宗教行事が目白押し状態の京都市内である。そして暑さにも負けずに観光客が押し寄せる。大半は外国人観光客だ、二十年来途切れることなく続いている。
慶治は二日間の公休日だった。夜勤明けの一昨日の朝――。
東山の勤務先ホテルからコンビニによりハイツに帰り着いたのは九時半頃。赤茶けた鉄筋三階建て木造づくり階段上がってすぐが、彼の部屋201号室である。一階入り口の大家の部屋を含め十五室あり、室内は洋室八畳の1DKだ。狭いながらもユニット・バスとシャワー・トイレもついていて快適といえよう。廊下は足音を跳ねかえすコンクリートで、厚く頑丈な入口は鉄製一枚扉である。
世は晩婚時代だが本来なら恋人と過ごしたい年頃だ。しかし彼には彼女がいない。これまで片思いばかりだし、まして夜勤勤務になり交際の機会などあろうはずがない。それに幼年期に引きこもり歴がある彼、人付き合いは得意ではなかった。だから溢れる出会い系アプリなどまるで興味がない。
「ふぅ」
朝食後にベッドに横たわり、基本テレビを観るのはニュース程度である。スマホ・サーフィンで過ごし四・五時間ほどの睡眠に入った。――夕方に目覚めると、すぐ近くの賀茂川を散歩して御園橋 近くの牛丼屋で夜食をとった。通常は昼が睡眠タイムだが連休は変則だった。二日目の昨夜はAIパソコンでの執筆作業だった。
(とにかく朝食だ)
食パンをトースターに放り込み、インスタントコーヒーをマグカップに入れ湯を注ぐ。次に独身者には不釣り合いな大型冷蔵庫から、大好きなブルーベリー・ジャムを取り出す。幼い頃から極端に猫舌の彼は、椅子に腰を掛けると、まずトーストをかじりカップの縁 に息を吹きかけながら慎重に唇を寄せた。
――まさにその時である。
グラグラと擬音を発して、突き上げる振幅が部屋を襲った。かなり強い地震だ。思わず熱いコーヒーを飲み込んでしまった。
「アチィ!」
慌てて吐き出し揺れが続く中、屈みながらコーヒーをふき取り部屋全体の状況を確認する彼。西側の窓ガラスのすみが僅かにひび割れしていた。照明は切れて湯沸かしポットが流し台からダイビング。お湯が噴出し水蒸気が怒 ったようにあがる。冷蔵庫の上の食料は無残に飛び跳ねそこら中に散在している。本なども崩れ落ちだが、大切なテーブル上のパソコンは寸前で落下を免れていて一安心だ。
――揺れは、しばらく続いて終息した。
立ち上がりポットを拾い上げ流しに置く。心は少し動揺していた。スマホ警告音は鳴らなかったと思う。京都に住んで十三年だが初めての強い揺れ経験だった。ほどなく照明は復帰して一安心の慶治。片付けモードにはいる。
(……なんとも、今朝は初めて尽くしだ)
気分がおちつくと短パンとTシャツのままで部屋の外に出た。
留守の部屋と近隣の状況が気になる。火災など発生していたら大変である。見ると二軒隣りの下弦野登人 が半開きのドアの外で両腕を組んで立っていた。その大柄の彼は寺門前の仁王像のようだ。
慶治に気づくとパジャマ姿の彼は場違いな威勢のよい声を発した。
「おはよう!」
次いでドアの中から野登人の彼女の顔が外に出て、慶治と恥ずかし気に目が合った。その彼女、五十嵐時雨 は笑顔をつくろいペコリと挨拶してきた。独り者の慶治にはピンクのネグリジェ姿が、モロ悩ましい。そんな彼女を目にするのは初めてだから。
「たまげた、大きな揺れやねぇ」
「そうやね」
野登人は無煙タバコを咥 えたまま慶治に歩み寄ってくる。
「初めてやね、こんなんは」
「ほんまや」
慶治は顔を崩して反応する。
「どうもなかったがか?」野登人はやさしげに訊いてきた。
言葉のなまる二人は、同じ高知県人で同年の幼友だちである。高校時代には共に登山部に所属した仲だ。人付き合い苦手の慶治にとって唯一気が許せる友である。それに高校時代の、一夜漬けカンニング工作の戦友でもあった。
野登人は十年前からこのハイツの住人で、彼の誘いで三年前にここに引っ越してきた。――時雨は、ドアを閉め部屋の中に消えた。月に数回は訪れるOLだ。
「留守の部屋は大丈夫やろうか、ここ学生より勤め人がおもだから……」
そう言う彼はエレベーターの保守点検会社に夜勤勤務だから、夜間警備業務の慶治とよく似た生活リズムである。ただ彼には一年ほど前に彼女ができて、最近は行動を共にする機会が少なかった。
手すり越しに二人が下を覗くと、大家である小柄な婆さんが両手を後ろ手に見上げていた。目が合った。
「なにもおへんか?」
よく通る声だ。
「ええ、見た限りは大丈夫なようです。念のため、二階と三階、見回っておきます」
そう慶治が答えると、婆さんは安心したように引っ込んだ。
「野登人、次の休みはいつや」
「……次は七日 やねえ」
野登人の癖なのだが、鉤鼻を人差し指でなぞりながら答える。
「そやったら、久々にどう、モーニング」
「ええねえ」すぐに言葉が返ってきた。
慶治も七日は休みだった。それに彼に相談したいことがある。
「分かった。……とにかく、部屋の片づけをせんといかん」
火事が発生していない事を確認すると、彼はゆらゆらとした足取りで部屋に戻って行く。慶治は「三階を確認しておくから」と告げ、いそぎ階段へと曲がった。
――その時、ふいに三階階段から走り降りてくる女、九條 に出くわした。
走る勢いでぶつかりそうになり、間一髪で避けた慶治。それでもわずかに肩が触れた。二人して驚いた。とっさに(可愛いい)と慶治は思う。
「おはよう、地震すごかったですね、大丈夫?」
「お早うございます。ええ、大丈夫でしたわ」
二人は顔見知りほどの笑顔を交わした。
九條は出勤なのだろう。時間に余裕がないのか、微笑んだあと足早に階下に消えた。
二十歳 代だろう九條の名前までは知らないが、いつだったか野登人から、独身の看護師であろうと聞いていた。慶治の好きなタイプである。彼は執筆と登山一辺倒の世界で過ごしてきた。しかも京都では独り登山だ。それに生まれついての引っ込み思案と自意識過剰の性格、これまでまともに異性と話し込むことができないでいた。
(ああぁ、チャンスが、……またも逃げてった)
いつものことだが慶治――今朝の遭遇には、「ん!」と未経験な衝動が突然に閃いた。彼は全速力で階段を駆け下りたのだった。それは初めて尽くしが重なった不思議な衝動だった。
九條が降り積もった雪と格闘している駐車場所に着くと、慶治は自分の車からワイパーブレードを取り出し、断りなしで九條の車の屋根の雪落としにかかった。その九條は驚いているようだったが、やがて作業をやめた。
「ちょっとこの雪では危ないかも」九條が呟いた。
「ですね」
「私――バスにします」
九條の白いミニクーパーは夏用タイヤだった。それに雪道の走行歴は無いだろう。
「良かったら、その……送りましょうか?」
全てにおいて合理主義の慶治はオールシーズン・タイヤである。
すると九條が初めてまともに慶治に視線を注いだ。それはチャーミングな微笑みだったが、警戒心ありありだ。
「いえ、バスで行きます。……ありがとうございます」
「俺、雪オッケータイヤだし、その……暇だから送ります」
「いえ、ありがとうございます。大丈夫ですので」
ペコリと頭を下げたあと、すぐにエンジンを切りさっさと歩き始めた。
(――あの靴で大丈夫だろうか)
無言で見送る慶治がそう思った矢先、見事にまことに見事に九條は宙に浮き腰から落下した。まるで漫画の一コマのようなスリップ転倒であった。――九條はしばらくその場に座り込み、呆然自失状態のようだ。むしろ慶治が慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか!」
「ええ……大丈夫です」
さすがに若いから両手でサポートし、泥汚れは下半身だけで上半身は倒れずにすんだようだ。ゆっくり立ち上がるとハンカチを取り出しスカートを拭 う。
「やっぱ、俺、送るから、……九條さん着替えてきたら?」
「いえ……」
「ほんと遠慮しなくていいです。俺、車あっためます。……靴は変えたほうが無難かも」
「……」
九條は顔も向けずにしばらく考えている風であった。
「すみません、お願いします」小声でそう言い部屋に戻っていった。
(ラッキー!)
おもわず小躍りしたいほどだった。慶治はさっそく自分の車のエンジンを点け、雪下ろしにかかった。彼は自分の心臓がバクバク高鳴っているのを、まるで他人事のように感じていた。
この雪、さぞかしバス会社も慌てたことだろう。
緊急出勤して冬用タイヤに履き替えるのに手間取ったようだ。路線バスはまだ走っていなかった。融雪剤も撒かれてはいなかった。それでも雪走行経験のないノーマルで走る迷惑普通車も混じっていて、案の定スリップし道路は渋滞気味だった。慶治は裏道に迂回して走る。
「しかし、おかしな天気が続きますね」
野暮ったいセリフしか思いつかない。
「……」九條は無言の笑みだ。
タバコは吸わない慶治だが、念のために用意してあったフレグランス・オイルを初めて使用していた。それだけに、匂いが強すぎないかと心穏やかでない。
「ええ、たしかにそうですね」
九條は時差のある返事で、硬くバリアを張った表情を緩めることはなかった。
「あのう……ハイツにはもう何年ですか」
そう訊くのが精いっぱいだった。
「……もう、かれこれ七年です」
「へぇ、ながいですね。――あっと、失礼」
べつに歳を詮索したわけではないが。
「フフッ、もう古株だわね。だって生更木さんが引っ越して来られたの、知っていますから」
初めて九條に笑顔が浮かんだ。しかしその笑顔は正面向きのままであった。
意外にも自分の入居が彼女に認識されていたことを知り、しかも通常は必ず聞かれる名字の読みまで知っていることで、慶治は少しどころでなく天まで駆け上る気持ちであった。だがそれ以上の会話は続かなかった。
――頃合いで、加茂街道を南下してやがて紫明通りを右折すると、あっという間に彼女の勤務地だという『北京都病院』に到着した。
「ありがとうございます」
それだけ言って、九條は小走りで院内に消えていった。
(うしろ姿までチャーミングだ)
どこからか美しいメロディーが聞こえる気がする。慶治は未練がましく彼女が消えた入口ドアをしばらく眺めていたが、出勤者が不振顔で慶治の車に注目しながら入っていくのに気づくと、慌ててそこを離れた。
徹夜でキーボードを叩いていた。
時間制限のアラームで我に返ると、
両手で後頭部を支えたまま後ろに反り返り、椅子の背もたれで背伸びをすると、しばらくその姿勢をキープする。その間、両目は閉じられたまま。そうすることで幾分疲労が消えていくと思っている。一分ほどのルーティン化された儀式である。
やがて軽く弾みをつけて立ち上がった。
「さむ―ッ」
自律神経が入れ替わり肌寒いと気づいた彼。不可解な気分で窓側に歩み寄りとっくに明るいカーテンを勢いよく開けた。
(……なんじゃ、これは!)
一面の白色。窓外は雪だった――しかもずいぶん積もっている。まるで飛行機で一夜のフライトを経験し、見知らぬ別世界にトリップしたほどの驚きだ。
京都市内の雪は正月前後、あるいは春先に降った事例も過去にはある。
だが昨日まで日本列島は三十九度越えの真夏日であった。熱中症による死亡者は全国で百人越えの更新だと大きく報道されていた。――だから七月に雪なんてありえない、これまでは。
線状降水帯による集中豪雨被害なら、とっくに常套化しているから別段驚きはしない。だが夏の降雪なんて初めてだし事件だろう。
(マジ、温暖化逆行ベクトルではないか)
テレビをつけると――やはりお祭り騒ぎの様相だった。
だが奇妙にも奇妙、京都府だけが雪印。他府県はどこも晴れているようだ。それも日本海側ならともかく、京都市内も南部までスッポリ雪雲に覆われていた。映し出された衛星気象図は見たことのないウルトラ級気圧配置――シベリア寒気団がまるで
プライドをはぎ取られた気象予報士は、昨夜の晴れ予報を撤回し、未経験な気圧配置の説明分析にしどろもどろだ。代り映えしない朝ニュース担当の論客は、はなしが北の国の新兵器開発論にまで発展し、誰かれもスッポリとその話に
もちろん四季の記載されたカレンダーはとっくにシュレッダー処理されて、骨董屋にも存在しない時代である。今年も五月早々に真夏の酷暑日が訪れて、梅雨前線は強引な高気圧に押しやられ、農家を潤すべき梅雨はついに訪れなかった。その癖、ところを選ばないゲリラ豪雨は唐突に現れる。急速に河川を決壊させると家々や車を飲み込み、土砂崩れは各地に深々と爪痕を残し去ってゆく。アナウンサーは『かってない・観測史上初・歴史的な』に替わる
だがこの雪も初めての驚きではあるが、何が起こってもさして動揺は長続きしない午後には雪と共にすみやかに融けてなくなるだろう。この時代――人びとの感情はいつも希薄な日常を漂う浮雲の中にいるような――そんな時代なのだ。
(自然、……何もかもが狂っている)
親子間の殺し合い、脈絡のない殺人事件、赤ん坊放棄、やむことなく進化を続ける詐欺犯罪、新しい疫病の発生――慶治は自分がなんでこんな世の中に生まれ合わせたのであろうかと嘆く。夢中な執筆活動など、何の意味も持たない気分になってくる。
それでも歌と笑いと踊りは別次元に存在していて、今朝も各局テレビのどこかしこに満載だ。幼児から老齢者までが、痴呆のような笑顔で踊り歌っている。歴史は繰り返すと言うが、彼は過去にあったという『ええじゃないか踊り』きっとこれだと思う。番組提供企業は政府の経済優先にあまんじて便乗値上げを繰り返す。不満を吐きだす国民には口元にビールをあてがい、アルコール依存症や肥満対策は自己責任だ。慶治はニヒルにそう思う。
(きっと誰かが――得体の知れない誰かが――人間をもてあそんでいる)
自分の人生があらがえない強引な力によって、妙な方向に引っ張られているような気がする。心は形容しがたい理不尽さに黒く覆われている。
彼は頭を左右にふり、首筋のこりをとる。コキ、コキと小気味よく鳴った。
次に「ふう」と一息を発した。
寒さを感じかけっぱなしのクーラーのスイッチを切る。それから目線を駐車場の愛車の屋根に移すと、窓から見る限り二十センチ程の積雪のようだった。雪はすでに止んでいて、立てたワイパーにも積もっていた。彼は眩しげに目をしかめ、ゆっくりと視線を周辺の景色に移した。
異常気象と裏腹で空は真っ青な色だった。
意味なく太陽の恩恵に感謝だ――よくよく考えてみたら不思議――八分前の太陽光はなぜに都合よくそこに存在しているのであろうと思う。
「うつくしい」
西側正面に望める『船形山』と北山連峰も、ハイツの背面の東山連峰に昇った朝日を受けキラキラと光り輝いていた。その風景は美しく音を失い、かすかに救急車の音だけが京都盆地の底で鳴り響いているぐらいだ。
賀茂川対岸の側道には通勤だろうエンジン音のない自家用車が大量に行き来している。市内北部のこの地域はベッドタウンでもある。この京都盆地の頂上は冬用タイヤ履きっぱなしが多い。雪で慌てる人びとは少ないだろう
だが地球温暖化の昨今、北大路通り以南の市内では冬用タイヤを用意している人などまずいない。出勤時の今頃は慌てふためいていることだろう。それでもノーマルタイヤで走る輩はつきもので、救急車の音からして事故も多発だろう。
――七月一杯は京都の街は祇園祭で賑やかになる。
八月は墓参りや五山の送り火だの地蔵盆だのと、宗教行事が目白押し状態の京都市内である。そして暑さにも負けずに観光客が押し寄せる。大半は外国人観光客だ、二十年来途切れることなく続いている。
慶治は二日間の公休日だった。夜勤明けの一昨日の朝――。
東山の勤務先ホテルからコンビニによりハイツに帰り着いたのは九時半頃。赤茶けた鉄筋三階建て木造づくり階段上がってすぐが、彼の部屋201号室である。一階入り口の大家の部屋を含め十五室あり、室内は洋室八畳の1DKだ。狭いながらもユニット・バスとシャワー・トイレもついていて快適といえよう。廊下は足音を跳ねかえすコンクリートで、厚く頑丈な入口は鉄製一枚扉である。
世は晩婚時代だが本来なら恋人と過ごしたい年頃だ。しかし彼には彼女がいない。これまで片思いばかりだし、まして夜勤勤務になり交際の機会などあろうはずがない。それに幼年期に引きこもり歴がある彼、人付き合いは得意ではなかった。だから溢れる出会い系アプリなどまるで興味がない。
「ふぅ」
朝食後にベッドに横たわり、基本テレビを観るのはニュース程度である。スマホ・サーフィンで過ごし四・五時間ほどの睡眠に入った。――夕方に目覚めると、すぐ近くの賀茂川を散歩して
(とにかく朝食だ)
食パンをトースターに放り込み、インスタントコーヒーをマグカップに入れ湯を注ぐ。次に独身者には不釣り合いな大型冷蔵庫から、大好きなブルーベリー・ジャムを取り出す。幼い頃から極端に猫舌の彼は、椅子に腰を掛けると、まずトーストをかじりカップの
――まさにその時である。
グラグラと擬音を発して、突き上げる振幅が部屋を襲った。かなり強い地震だ。思わず熱いコーヒーを飲み込んでしまった。
「アチィ!」
慌てて吐き出し揺れが続く中、屈みながらコーヒーをふき取り部屋全体の状況を確認する彼。西側の窓ガラスのすみが僅かにひび割れしていた。照明は切れて湯沸かしポットが流し台からダイビング。お湯が噴出し水蒸気が
――揺れは、しばらく続いて終息した。
立ち上がりポットを拾い上げ流しに置く。心は少し動揺していた。スマホ警告音は鳴らなかったと思う。京都に住んで十三年だが初めての強い揺れ経験だった。ほどなく照明は復帰して一安心の慶治。片付けモードにはいる。
(……なんとも、今朝は初めて尽くしだ)
気分がおちつくと短パンとTシャツのままで部屋の外に出た。
留守の部屋と近隣の状況が気になる。火災など発生していたら大変である。見ると二軒隣りの
慶治に気づくとパジャマ姿の彼は場違いな威勢のよい声を発した。
「おはよう!」
次いでドアの中から野登人の彼女の顔が外に出て、慶治と恥ずかし気に目が合った。その彼女、
「たまげた、大きな揺れやねぇ」
「そうやね」
野登人は無煙タバコを
「初めてやね、こんなんは」
「ほんまや」
慶治は顔を崩して反応する。
「どうもなかったがか?」野登人はやさしげに訊いてきた。
言葉のなまる二人は、同じ高知県人で同年の幼友だちである。高校時代には共に登山部に所属した仲だ。人付き合い苦手の慶治にとって唯一気が許せる友である。それに高校時代の、一夜漬けカンニング工作の戦友でもあった。
野登人は十年前からこのハイツの住人で、彼の誘いで三年前にここに引っ越してきた。――時雨は、ドアを閉め部屋の中に消えた。月に数回は訪れるOLだ。
「留守の部屋は大丈夫やろうか、ここ学生より勤め人がおもだから……」
そう言う彼はエレベーターの保守点検会社に夜勤勤務だから、夜間警備業務の慶治とよく似た生活リズムである。ただ彼には一年ほど前に彼女ができて、最近は行動を共にする機会が少なかった。
手すり越しに二人が下を覗くと、大家である小柄な婆さんが両手を後ろ手に見上げていた。目が合った。
「なにもおへんか?」
よく通る声だ。
「ええ、見た限りは大丈夫なようです。念のため、二階と三階、見回っておきます」
そう慶治が答えると、婆さんは安心したように引っ込んだ。
「野登人、次の休みはいつや」
「……次は
野登人の癖なのだが、鉤鼻を人差し指でなぞりながら答える。
「そやったら、久々にどう、モーニング」
「ええねえ」すぐに言葉が返ってきた。
慶治も七日は休みだった。それに彼に相談したいことがある。
「分かった。……とにかく、部屋の片づけをせんといかん」
火事が発生していない事を確認すると、彼はゆらゆらとした足取りで部屋に戻って行く。慶治は「三階を確認しておくから」と告げ、いそぎ階段へと曲がった。
――その時、ふいに三階階段から走り降りてくる女、
走る勢いでぶつかりそうになり、間一髪で避けた慶治。それでもわずかに肩が触れた。二人して驚いた。とっさに(可愛いい)と慶治は思う。
「おはよう、地震すごかったですね、大丈夫?」
「お早うございます。ええ、大丈夫でしたわ」
二人は顔見知りほどの笑顔を交わした。
九條は出勤なのだろう。時間に余裕がないのか、微笑んだあと足早に階下に消えた。
(ああぁ、チャンスが、……またも逃げてった)
いつものことだが慶治――今朝の遭遇には、「ん!」と未経験な衝動が突然に閃いた。彼は全速力で階段を駆け下りたのだった。それは初めて尽くしが重なった不思議な衝動だった。
九條が降り積もった雪と格闘している駐車場所に着くと、慶治は自分の車からワイパーブレードを取り出し、断りなしで九條の車の屋根の雪落としにかかった。その九條は驚いているようだったが、やがて作業をやめた。
「ちょっとこの雪では危ないかも」九條が呟いた。
「ですね」
「私――バスにします」
九條の白いミニクーパーは夏用タイヤだった。それに雪道の走行歴は無いだろう。
「良かったら、その……送りましょうか?」
全てにおいて合理主義の慶治はオールシーズン・タイヤである。
すると九條が初めてまともに慶治に視線を注いだ。それはチャーミングな微笑みだったが、警戒心ありありだ。
「いえ、バスで行きます。……ありがとうございます」
「俺、雪オッケータイヤだし、その……暇だから送ります」
「いえ、ありがとうございます。大丈夫ですので」
ペコリと頭を下げたあと、すぐにエンジンを切りさっさと歩き始めた。
(――あの靴で大丈夫だろうか)
無言で見送る慶治がそう思った矢先、見事にまことに見事に九條は宙に浮き腰から落下した。まるで漫画の一コマのようなスリップ転倒であった。――九條はしばらくその場に座り込み、呆然自失状態のようだ。むしろ慶治が慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか!」
「ええ……大丈夫です」
さすがに若いから両手でサポートし、泥汚れは下半身だけで上半身は倒れずにすんだようだ。ゆっくり立ち上がるとハンカチを取り出しスカートを
「やっぱ、俺、送るから、……九條さん着替えてきたら?」
「いえ……」
「ほんと遠慮しなくていいです。俺、車あっためます。……靴は変えたほうが無難かも」
「……」
九條は顔も向けずにしばらく考えている風であった。
「すみません、お願いします」小声でそう言い部屋に戻っていった。
(ラッキー!)
おもわず小躍りしたいほどだった。慶治はさっそく自分の車のエンジンを点け、雪下ろしにかかった。彼は自分の心臓がバクバク高鳴っているのを、まるで他人事のように感じていた。
この雪、さぞかしバス会社も慌てたことだろう。
緊急出勤して冬用タイヤに履き替えるのに手間取ったようだ。路線バスはまだ走っていなかった。融雪剤も撒かれてはいなかった。それでも雪走行経験のないノーマルで走る迷惑普通車も混じっていて、案の定スリップし道路は渋滞気味だった。慶治は裏道に迂回して走る。
「しかし、おかしな天気が続きますね」
野暮ったいセリフしか思いつかない。
「……」九條は無言の笑みだ。
タバコは吸わない慶治だが、念のために用意してあったフレグランス・オイルを初めて使用していた。それだけに、匂いが強すぎないかと心穏やかでない。
「ええ、たしかにそうですね」
九條は時差のある返事で、硬くバリアを張った表情を緩めることはなかった。
「あのう……ハイツにはもう何年ですか」
そう訊くのが精いっぱいだった。
「……もう、かれこれ七年です」
「へぇ、ながいですね。――あっと、失礼」
べつに歳を詮索したわけではないが。
「フフッ、もう古株だわね。だって生更木さんが引っ越して来られたの、知っていますから」
初めて九條に笑顔が浮かんだ。しかしその笑顔は正面向きのままであった。
意外にも自分の入居が彼女に認識されていたことを知り、しかも通常は必ず聞かれる名字の読みまで知っていることで、慶治は少しどころでなく天まで駆け上る気持ちであった。だがそれ以上の会話は続かなかった。
――頃合いで、加茂街道を南下してやがて紫明通りを右折すると、あっという間に彼女の勤務地だという『北京都病院』に到着した。
「ありがとうございます」
それだけ言って、九條は小走りで院内に消えていった。
(うしろ姿までチャーミングだ)
どこからか美しいメロディーが聞こえる気がする。慶治は未練がましく彼女が消えた入口ドアをしばらく眺めていたが、出勤者が不振顔で慶治の車に注目しながら入っていくのに気づくと、慌ててそこを離れた。