第3話 語らいは深夜がふさわしいかも

文字数 8,803文字

 車は『東山安井(ひがしやまやすい)』を通り越して次の信号を左折した。
 ここからの坂はゆるい勾配に見えるが歩くとキツイ。『高台寺』横の二つ目の鳥居をくぐり抜ける辺りから坂道は表情を変えるのだ。以前に車の故障でバス通勤した折に慶治は体験済みだった。この坂の正面の木々の繁る高台には、明治維新のヒーロー坂本龍馬の墓がある。

 彼は何度か墓参に訪れている。実は慶治――部屋壁に龍馬の立ち姿ポスターを貼っているほどの龍馬の信奉者である――そう自分をマニアだとは思っていない、別格の信奉者なのだ。
 彼の実家は高知県西部の山間部にある梼原(ゆすはら)町だが、愛媛県との県境に坂本龍馬の脱藩道として有名な韮ヶ峠(にらがとうげ)が近い町だ。幼い日に龍馬に関する書籍を読み漁り、その人間力と実行力にすっかり魅せられてしまった。
 そんな慶治、京都に就職し転職をかさねるなかで、ごく自然な成り行きで東山山麓の今のホテルに勤務した。そのホテルのすぐ隣と言っていい距離の神社内に、龍馬の墓が存在する。それを知ったのは後日のことだった。その偶然が重なり彼の龍馬信奉度は、いや増して高まった。

「この世に偶然など存在しない」彼の人生ポリシーである。

 勤務先の『ホテルりょうぜん館』は、坂を登り詰めた小高い場所にある。L字型の鉄筋コンクリート造り三階建てホテルで、慶治は一階フロアかフロント裏の事務所内にいることの多い警備員である。
 二十一時に出勤すると、まず建物の内外を巡回して不用な部屋のチェックや施錠を済ませる。事務所に戻る頃には、日勤フロントメンバーは退社している。それからは慶治がフロント入口に立って、出入り客に応対しているのだった。

「今朝の地震、それに雪。すこしビックリだね」
 巡回から帰りフロント裏の事務所の席で日報の用意をしていると、小杉が天然水ボトルを片手に話しかけてきた。今夜の挨拶でもある。
「ああ、厨房内たいしたことなくて良かったね」
 そう応え、更に、
「雪も昼過ぎには溶けたしね」と応じた。
 それから事務所内の水屋で自分用の珈琲を用意する。
 小杉広雪は三十五歳で独身。フロントの業務スタッフだが、もっぱら夜勤専門である。彼とのペア勤務が多くて、もう四年程の付き合いになる。年下だが先輩格だ。
「どうやら三峠(みとげ)断層帯が震源地らしいね」
「そうだね」
「福知山と丹波町の家屋損壊は、ひどいようだね。……大昔はともかく、京都で震度五以上はめずらしい」そう言って慶治、珈琲を加減しながら口に含んだ。
「日本中が台風や豪雨災害に襲われても、京都は比較的被害は少ない。さすがに昔の人は(みやこ)の選定場所を誤らなかった。――そう言われたけど、この先、そうはいかないかもね」
 言って小杉は黒縁メガネ調整し、残っていた天然水を飲み干した。

 小高い場所のこのホテルは、治安のために門限を設けている。外国客のなかには門限無視の団体客もいるが、零時の門限を守る常連客が多い。その帰館客がひと段落着くと、慶治は事務所裏にある従業員専用の自販機に向かった。コーラ缶を取り出すと、お決まりの場所に移動する。その時、余震と思われる揺れがあった。――彼は特段動じず、コーラを口に含み夜空を見上げる。雲一つもない澄んだ星空がそこにあった。
(今夜も星がきれいだ)

 もう何度そう思ったことだろう。見る都度に輝きが違って見える。小さくても星空は遠くではない、自分と同じ空間に存在している隣人だと思う。ここは東山山麓の少し高台だから、観られる星の数も多い。それにここからは、ライトアップされた優雅な京都タワーも望める。この展望チェックも彼にとっては仕事ルーティンである。
【悪魔がやってくる】
 不意に言葉を伴わない幻聴が彼を襲う。
 このごろ頻繁に訪れるその幻聴――とは呼べない程度だが――たぶん最近見る悪夢が由来だと思う。自分の脳内が発信源だとそう自覚している。一度、小杉に尋ねてみようかと今夜の慶治は思っている。

 ホテルは冷泉ではあるが市内では珍しい天然温泉の展望風呂がある。
 巡回の一環でその大浴場の整理を簡単に済ませ慶治が事務所に帰り着くのは、たいがい午前一時前である。その頃までに相棒小杉は、コンビニ弁当で夜食を済ませているパターンだった。
今夜の慶治は牛乳と二ブロックのカロリーメイトを頬張った。
「……今日はベストショットが撮れたのと違う?」
 フロント照明を落とし、カメラ愛好家である小杉に尋ねた。
「ああ、朝なら人も少ないだろうと雪の金閣寺ねらったら、すでに外国人で溢れかえっていたわ。あまかった」
 更に「今朝の雪と地震も、地球温暖化のせいか? そうだろうね」彼は言って自分に突っ込んだ。そしてニヒルに小さく笑う。
「ぼかぁ、……それだけではない気がする。もしかしたら宇宙の創造主、あるいは悪魔発かも」
「悪魔発?」怪訝な小杉。
 漠然とではあるが、自然界の挑発的な異変だと慶治は感じている。たしかに地球温暖化は人類の欲望の副産物だが、天変地異は宇宙発の異変ではないかと―そう考えているのだ。
「……そう、頻繁な地震。人類淘汰目的かも知れないね」
 なんと反論でなく、小杉は肯定的にそういった。 
 
 神戸出身の彼は、幼い頃に大震災を経験している。その震災で両親を失ったと聞いた。両親は熱心なクリスチャンだったとも。
「……創造主ゼウスは破壊者ではない。破壊はサタンの仕業だと思う」と小杉。
 唐突的に会話が飛躍するのは、二人のいつもパターンである。
(今夜も彼、幼き日の傷を引きずっている?)
 そう慶治は感じ、
「サタンって、悪魔のことだよね」そう尋ねた。
「いや、サタンは、ユダヤ教やキリスト教では神の敵対者。イスラム教では人間の敵対者だし『堕天使』とも呼ばれている。――悪魔は東洋人の概念で、仏道者を邪魔する悪神を意味している。少しニュアンスが違う。だから僕は思う、ここ最近の自然界の不条理はサタンの仕業。きっと、この世は神とサタンの闘いでなりたっている、とね」
 最近二人の会話はシリアスな話題が多い。
 発端がどちらからだったか、今では明確でない。多分深夜勤務が、孤独な魂同士を饒舌にさせるのかもしれない。

(今夜の小杉、いつもより雄弁だ。しかも神とサタンの闘いだなんて……おそらく両親の影響だろうな)慶治はそう納得する。
「――ところで先日の、核弾頭爆発は驚いたね」
 なにげに話題を変える小杉。
「え、核爆発?」驚く慶治。
「あれ、知らないの、十日程前にテレビやネットで大騒ぎだったよ」
「そうなの、知らなかった」
「太平洋上で、アメリカ潜水艦が誤発して、遠隔爆破した話だよ。核弾頭を誤発だなんて、本来、ありえない話だ。――普段どこにいるか分からない潜水艦の恐怖が、いっきに浮上した話だ」
 最後の『浮上』はジョークだろう。
 そこまで聞いて慶治、何とはなしにネットで聴いた気がしたが、日々のニュース内容を真剣に受け止めてはいなかった。見ると少し小杉は呆れ顔である。

「それ、それもサタンの仕業ではないの? 創造主キリストに言わせれば」
「んん、違うね、キリストは創造主じゃない、救世主で単に神だよ。それに核爆発はサタンでなくて人間によるミス。もしくは陰謀だね」
 人差し指を立て左右に振りながらさも軽蔑気味な小杉に慶治は少し悔しかった。それで言い返す。
「そのゼウスも日本のアマテラスも、あくまで神話上の存在だよね」
「……まあ、そうだね」
「キリストは救世主である前に、人間だよね」
「ああ、そうだよ」
 小杉はいたって余裕顔だ。
「じゃあ、キリストの母、聖母マリアの『処女懐胎』も、人による創作神話だろう。その人間キリストが神だなんて――なんか飛躍と矛盾を感じるね」
 言い返し、慶治は内心ほくそ笑む。

「それは、……たしかに神話だけど。そもそも英雄や王の誕生神話は世界共通だ。日本でも聖徳太子の母、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)救世観音(ぐぜかんのん)が胎内に入り、皇子を身籠もったとの伝説がある。(うまや)の前で出産したので、厩戸皇子(うまやどのおうじ)とも呼ばれてね。なんでかキリスト生誕によく似た話だ。――おもしろい符号だね」
「え―、そうなんだ。詳しいね」
 小杉の博識に驚いた。
「あれ、これぐらいのこと知らなかったの?」
 慶治学んではいたが、小杉は相当に詳しいようだ。
「いや、……仏教とキリスト教の共通性なんて」
 言いかけふっと見ると、小杉の眼の光が鋭く慶治には感じられた。それは誘いのシグナルでもあることを、これまでの経験値で理解している。
(この話、この辺りにまでにしよう、形勢不利だ)
 慶治は、スルリと話題を変えた。

「ところで龍馬(ゝゝ)さんお泊りのようだね。久しぶりだね、星国さん」
 慶治、来客名簿で『星国亮馬(ほしくにりょうま)』の名前を見つけていた。
「……ああ、二ヶ月ぶりだね。龍馬の参拝」
 小杉は、欠伸を噛み殺しながら答えた。
 六十年配の顧客である星国は、十年来の客であると聞いている。宿泊目的は他の客と違い天然温泉がメインではないことも。その顧客は、ホテルに隣接する神社内の墓苑、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓参りだと、今ではホテル内の誰もが承知している。
 
 物静かで淡々として穏やかな客で、不定期な来館客である。宿泊カードの現住所は新潟県東区臨港町。たいがい二、三日前の電話申し込みで、今どき珍しい現金振り込み払いである。毎回、食事は個室指定で入浴は零時前が多い。それにきまってレンタカーでの独り来館で、常時ハンチング帽を着用している。館内備え付けの浴衣は着用しない主義で、いつも持参のトレパン姿であった。
 それに帽子を着用していないと特異な頭髪である。
 作家風の長髪であるが、それはまるで(かつら)のように、頭の中央で右が白で左が黒に分けられていてハッキリと色違いである。髪の一部が白毛交じりとか部分的に白髪とかではない。
(ブラック・ジャックのイメージに近い)
 そう思う慶治。判別は難しいがおそらく地毛だろう。とても印象的だ。
 過去に慶治は星国が参拝に出かけるタイミングに、笑顔を湛え尋ねたことがあった。
「坂本龍馬にゆかりがおありなのですか?」と。
「……そうではない。それ以上の(えん)ある墓参りだ」
 なんとも重みのある、謎めいた答えが返ってきた。龍馬がらみで興味ありだが、その時の慶治はそれ以上を追求できなかった。だがいずれかに機会が訪れたら、ぜひとも詳しく聞いてみたい気持ちである。

 今夜は全客の帰館が早かった。
 カウンター裏の事務所内で、二人は再び会話を始めた。慶治には魂胆がある。
「小杉さんは、夢の中の悪魔の存在を、……信じています?」
 気になっていることを切り出した。
 小杉は神学系の同心社大学出身だから、悪魔にも詳しいかと思ったからだ。
「ん、夢の中の悪魔? なんです、それ」
「いや、夢の世界の話。夢に悪魔が住んでいるかってこと」
「……言わんとしている事が今一つ理解できないね。で、それがどうしたの?」
 突然に何を言い出すのだ。そんな表情だ。
「俺の夢には悪魔がいる。マジな話」
 慶治は真剣である。
「……悪い夢でしょう、それって。いや、恐怖体験の夢の話は聞いたことあるけど、悪魔やサタンが出る話はないよね。邪神、悪神の勘違いじゃないの、僕は見ないね」
 少し心配顔の表情。
「いや、俺の実際の体験だ。……べつにいいけどね」
(どうやらだめだ。これ以上はやめよう)
 後悔していた。こんな話を相手にすることじたい無理な話ではある。やはり親友である下弦野登人でないとだめだと思った。

「……悪魔と聞くと、ダンテ作の神曲を連想するね」
 角度が微妙だが、まだ小杉の話はこちらを向いている。
「面白いことに聖書が基本だが、話の展開がまるで仏教的だと僕は思う」
 それから延々と、ダンテが孤独に流浪していた時期に書かれたという『神曲』の話は続いた。慶治、その手の話は嫌いではない。だが気になる質問を再び挟んだ。
「小杉さんの夢に、亡くなったご両親は出て来るかい」
「……ん、両親の夢は見ないな」
「その、仮にだけど、小杉さんの夢の中に両親の魂が宿っている。いや隠れていると言ったらどうだろう。信じるかい」
 言いながら、我ながら胡散臭い(うさんくさい)話だろうなと思う。
「それはないね。それに魂の存在自体、科学で証明された話ではないからね」
「え、それって、……小杉さんは生命(せいめい)の永続性を信じていないわけ?」
「ああ、人生は一度きりだと、僕は思っている。……どうせ死ぬのだから、好きなことやって、今を幸せに生きるべきだと思うね」
「ほ―お、僕は生命も一種のエネルギーだと思っている。だから物理学でいう所の、いわゆるエネルギー保存則から見て――」
「いや、僕の両親だって、天災で突然命をうばわれた。だから、死ぬ前に我慢しないで、人に迷惑さえかけなければ、なんだってやるべきだ」
 確信あふれた小杉の言葉だ。
「その考えわかるけれど、……来世を意識しなければ意味なく、とんでもないことをしでかすのが人間だと思う。日々のニュース、刹那的なものばかりだ。だから、僕はニュースを真剣に見ない」
 そこで小杉の顔を見ると、とても迷惑気味だった。それで慶治は、また話題を切り替えた。

「ネット世界も荒れている。フェイクなものが――昔からだけどね、多くなった気がする。巧みに人を誘導して、だましが巧妙化している。小杉さんは、ネット何かやってる?」
「いや、生更木(きさらぎ)さんほどじゃない。たまにスマホで覗く程度だね」
 実際、小杉が終業時にスマホを開くのを見たことがない。真面目人間だ。
だが、彼は言った。
「ハービュってグループ知ってる?」
「ああ、知ってる。世界的なグループ集団で――確か日本発じゃなかったかな」
 慶治は呼び名ハービュが『ハート・ビューティフル』の和式造語だと聴いている。だが最近に『SAGI/サギ』という名称を使い始めた。ゴロが『詐欺』を連想させミスマッチだが、それはジョークがらみの青年感覚だと評価されているようだ。荒れた世界風潮の中で、ハッピーな慈善行動を行い、代償を求めない集団のようで、古くはTikTokとかYouTubeメディアにその行動模様が投稿され、世界中に共感者がでていつしか組織化され広まった集団のようだ。ほとんど青年男女メンバーで構成され、多種多様な人種が活動している。しかしプライベート主義で、組織の中心部については謎が多く、肝心のリーダーが明らかになっていない。

 SNSでの内容は、弱い立場の女性や老齢者それに身障者たちに対する慈善的なもの。――たとえばバスや電車の公共車両で、他人無視でスマホに集中している若者に声をかけ、弱者に席を譲るように催促している模様。元カレのつきまといに悩んでいる女性を、複数の人員で保護し問題解決する模様。そのメンバーの中には警察官までいて、実に用意周到で爽快な解決へと導く。そしてそれは映像で記録されていて、再発防止の目的か、モザイクをかけないで公開のケースもある。
「痛快だよね」
「ああ、役人や忖度漬けの警察官でも解決できないことを、いともたやすくやってのける。爽快だね。正規メンバーには、組織からメンバー・バッジが与えられていて、最近ではそのバッジを見せられると、それだけでトラブル解決になるケースもあるようだ」
 そう慶治が語ると、
「カッコイイですよね」
 と応じる小杉。この話題で盛り上がったが、今夜は疲れているのか小杉は早々に宿直室に移動していった。
 業務内容は、なんでも屋の慶治だが、本来警備要員だ。夜中の事務所番も兼ねているので、所内の片隅のボンボンベッドが仮眠ツールである。しかし慶治は、大抵は持ち込みのパソコンでの好きな執筆作業で過ごす。――だがこの夜は疲労感があり仮眠と決めた。

 ――慶治は四時半までには目覚めている。
 毎朝五時前後に、顧客がエレベーターから現れるからだ。鐘が響く。ホテル近くの清水寺がこの界隈では一番早くに開門する。それを知る参拝客が多く、今朝は洒落た服装で品の良い年配夫婦だった。
「おはようございます!」
 彼は素早く玄関ドアの厚手のカーテンを拡げる。次に内ドアと入口のドアロックを解錠して手動でドアを押し開け、「朝食は七時からでございますので」と出かける二人の背中に告げる。それからロビーのアコーデオン・カーテンを開け終わると、テレビをつけ朝刊をファイルして玄関自動ドアのスイッチを入れる。そのあと水屋に向かい、自分用のモーニングコーヒーを淹れると、ひと段落だ。
 七時近くになると使用したシーツ一式を抱えて、小杉が仮眠室から出てくる。
 その間にも何組かが出かけるので、慶治は臨時のフロント業務に専念していて、明るく挨拶してルームキーを預かる。

(えッ!)驚いた。

 見ると、星国が外出着姿でエレベーター・ホールに出てきた。想定外の慶治は弾かれるようにして、その大事な客へと歩み寄る。
「おはようございます。お出かけですか? 参拝には早すぎますよね」
 心からの微笑みを忘れないで、ルームキーを預かりながら声を掛けた。こんなケースは初めてだ。ホテル下の『京都霊山護国神社(りょうぜんごこくじんじゃ)』は原則九時開門である。それを星国が知らない訳がない。
「今朝は神社で、特別な行事でもおありですか?」
 星国は少し笑い「いや、そうではない。早くに目が覚めたので、この界隈を散歩してみる気分になった」と笑みで語る。慶治は、その笑顔にすかさず反応した。
「失礼ですが星国さま、よほどの龍馬ファンなのですね」
 お客様と言わずに、個人名でストレートに質問をしてしまった。
「……君は、日本の歴史に詳しいかね」
 星国は慶治の目を覗き言った。
「あ、いえ、それほど詳しくはありません」
「訊くけれど、聖徳太子をどこまで知っているかね」
「え、はい、……十七条憲法や冠位十二階の制定、それに遣隋使の派遣程度です。あ、あと女帝、推古天皇(すいこてんのう)摂政(せっしょう)として活躍した話は学びました」
「その聖徳太子、厩戸皇子が宮内庁記録として否定される動きがあることを、君は知っているかい?」
 包み込まれそうな眼差しだった。

 ――慶治は知らない。
「ふふ、どの国でも時の為政者によって、歴史は塗変えられるものだよ」
(星国さん、昨夜の小杉との会話を知っている?)
 まさか――慶治は、顧客対応の仕組みを忘れたかのように次の言葉がでない。
「ところで君の名は、――キサラギさんか、いい名だね」
「はい、有難うございます。名は慶治といいます」
「ほう、ヨロコビ・オサメルかい」
(当たっている! なんで?)
「はい、そうです」
 星国は名字名のプレートから目を外すと、再度、慶治の目の奥を覗く素振りをした。
「……いい顔しているね。この先、どこかで会えそうだ」意味深な言葉を発し「ところで、君は生まれ変わりを信じているのかい」と矢継ぎ早だ。
「はい、信じています」

(……なん、なんだ。この話の展開は? やはり昨夜の会話を知っている?)

「私は坂本龍馬を、聖徳太子の生まれ変わりではないかと思っています」
 そう言い残すと、(きびす)を返し足早に出かけて行った。
 まるでその姿が、これから異世界にでも出かけるかのように慶治には映った。本革だろう肩掛けのポシェットと黒のLACOSTEハンチング帽姿で、もう後ろを振り返ることはなかった。
「はぁ……」
 気が抜けたように見送る慶治。いつの間にか横に並んだ小杉と共に、ホテルマンの習性でその後姿が駐車スペースから出ていくまで二人は目で追い「いってらしゃいませ」と一礼した。
 それから小杉が、慶治に「おはよう」と声かけてきた。

 異変は、その星国が帰館した折に勃発した。
 七時前に駐車スペースに帰り着いた星国。その彼を追うように黒い外車セダンが入ってきて、彼の前に回り込み遮るように停車した。車はりょうぜん館の客ではない。四人連れのようだが、そのうちの一人が素早く車から降り立ち、星国に向かい合わせた。そして何かを話しかける。
 それまで玄関ドア内に立って見ていた慶治は、玄関先の階段上まで出た。そして両腕を背中で組み胸を張り、大事な顧客の様子を見守った。
 よくよく見ると黒いセダンのナンバープレートは、ブルー色の82(ハチニ)ナンバーであった。
(もしか、領事館の車?)
 慶治が心もち睨むように見ていると、その星国は話しかける相手を無視するように動いた。門の入り口近くに止めてあった自身のレンタカーに素早く乗り込んだのだ。そして急発進して、ガレージ出口で一旦停止することなく、フル・スロットで右折し出て行った。
「えッ!」驚きだ。

 背広男は慌てた様子で、逆向きの黒セダンに乗り込む。運転者は何度かハンドルを切り換えし、そのトルクの大きい勢いで一旦停車することなしで飛び出した。と、――まったくそれにタイミングを合わせたように、急いでいたのか白セダンがノーブレーキでその黒外車の鼻先に凄い轟音を発して衝突した。静かだった空間がこだました程である。
 ――慌てて慶治は駆け寄る。
 黒外車のドアが開き、四人のスーツ姿の男たちがゆっくりと降り立った。白外車セダンから五十年配の品の良い服装の女性が降り立ち、衝突部分を確認し始める。――星国と話していた男は、スマホで誰かとやり取りを始めた。

「大丈夫ですか、お怪我はありませんか?」
 慶治が声を掛けたが、どちらも完全無視の状態で返事がない。対処にこまり振り返ると、小杉がニヤケ顔で片手にレンタカーのキーを(かざ)しながらやって来た。
「星国さん、どないして車の運転?」
 慶治の顔色をさぐるように小杉が呟く。
「予測してスペアを用意していた? バカな」
 慶治は唖然として事故車に振り返る。
 後方では何人かの客たちがスマホを手にして(ざわ)めいていた。
 目の前の映像の意味が読み取れず、慶治のどこかの器官が訳も分からずに焦っている。彼は星国という存在がこのまま消えて、二度と自分の前に現れないかも知れない、そんな思いであった。

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登場人物紹介

生更木慶治《きさらぎけいじ》・四十歳



1990年生まれ2002年12歳に光体験。



ホテル警備夜勤勤務・高知県梼原町の出身。京都上賀茂に住む。坂本龍馬の信奉者右手で右耳の上の髪を掻く癖あり。名字由来は春に向けて草木が更に生えてくるとの意味。名前は小学生で亡くなった弟の忘れ形見(改名)。



極端な猫舌。基本黒Tシャツに上着。ブルージーンズ。夢の世界の宇宙と現世をつなぐ『夢の門番』で主人公。

下弦野登人(かげんのとひと)・四十歳 



エレベーター保守会社夜勤勤務。高知県羽山町出身須崎の工業高校の同級生190㎝の長身猫背。穏やかな性格だが剛毅。真剣に考える際に鉤鼻を親指と人差し指で挟みこする癖。ダンガリーシャツと薄ピンクのジーパン。

九條蓮華(くじょうれんか)・二十八歳 



『北京都病院』と北都大病院勤務の看護師。献身的看護で慶治の恋人となる。京都出身だが実家を離れ紅ハイツに住む。

五十嵐時雨(いがらししぐれ)・三十歳 



下弦野登人の通いの恋人。四条の電気器具販売店勤務。新潟の五泉市出身。色白美人。ぽっちゃり丸顔で色気あり。

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