第15話 ヒカル子は永遠の愛を信じ生きる 

文字数 18,419文字

 いつもより三十分早く勤務をおえた。
 メモってあった生活用品を買い込み、それらを車の後部スペースにいそぎ押し込む。
 右京区太秦から息子のいる烏丸紫明の病院に向かって車を走らせる。先日の早々に開花宣言は行われた。平日の水曜日だが、その桜を求めて訪れる車で西大路通りは朝から大渋滞だった。それに加え、外国人観光ツアーバスも多く渋滞に拍車をかけている。
 惑星(わくぼし)ヒカル子三十九歳、今どきのシングルマザーで離婚歴十四年になる。現在つきあっている彼氏はいない。

 四月上旬だというのに、この日の京都市内の最高気温は八度止まりであった。上空にある冷たい寒気が盆地独特の吹き降ろす風となり、今日は朝から冷えこんだままであった。昨日よりも十度も低い、それが息子の躰に負担を強いる。
(ったく! 夏は猛暑、冬は極寒……狂ってる)愚痴るヒカル子。
 彼女の子供の名前は流星(りゅうせい)十四歳、先天性の難病をかかえてこの世に顕れた。そう、生まれたのではなくて顕れたのだ。――ヒカル子はそう思う。

 彼女は掴んだハンドルを、強く何回か揺さぶり信号機を睨んだ。やがてサンバイザーに引っ掛けていたレイバンのサングラスを、右手で取り素早くかけた。
 すぐ強引に白色の軽自動車をUターンする。反対車線を五十メートルほど南に逆戻りすると、気の荒いダンプの大きなクラクションを無視して、ヒカル子は左横を走る車に巧みに割り込む。そしてフル・スロット音を残し、大通りから西陣路地の細い裏道へと入った。

 やがて八階立ての『北京都病院』に到着すると、彼女専用の駐車場に車を止めた。
 のろいエレベーターを降り、七階の病室に駆けつける。しかし個室ベッドで待っているはずの息子がそこにいなかった。
「いない、あの子がいないのです」
 ナース・ステーションに行き。奥村と言う看護師に訴えるように尋ねた。
 このナースは、息子が緊急入院したときからの担当であった。背丈はないがふくよかな体格の婦人である。十年前、ヒカル子は流星の発作で気が動転していたが、そんな彼女から痛みや恐怖を払いのけるような、今でも変わらない笑顔の持ち主である。 

「あら惑星さん、おかえりなさい。――リュウちゃんは待合室にいなかった? お母さんを待つからといって、たしか、二十分ぐらい前から」
 いつも流星はベッドの上で母親の帰りを待っていた。まして気温の不順なこんな日に、それは本来ありえない筈だった。
「今日はリュウちゃんの体調いいみたい。お食事も残さず、ええ、完食でしたわ」
 奥村は笑み笑窪を湛えてそういった。
 気がづくとまわりのナースも、そっと微笑みをヒカル子に注いでいるのが感じられた。それを知り、彼女はやっと平静になった。

 その流星は待合室の窓に向けたソファーに、まるで隠れるように身を沈ませていた。視線を窓外のどこかに向けたまま、ぼんやりとしている。
「リュウちゃん、ただいま」
 ヒカル子は驚かさないようにそっと後ろに立ち、大きな窓ガラスに写った流星の顔に優しく呼びかけた。息子も夜の(とばり)が下りた大きなガラス窓のなかで、母親が自分の背中に立っているのを認識したようだ。
「あっ、母さんお帰りなさい。……その、リュウちゃんって呼ぶの、やめてくんない」
 声を抑え、マジ顔で恥ずかし気に言った。
 ヒカル子の見る息子のその表情は、昨夜のヒカル子の記憶にあるものよりも随分と大人びて見えた。中三であるが躰つきはすっかり大人である。――健常者とかわらないが、彼の躰の成熟度が普通ではない。
「ごめん、ごめん。努力するね」
 ふと見るとヒカル子自身の笑顔が、大きなガラス窓に悲しげに満ちていた。それはヒカル子の、印象深い十六年前の記憶をも湛えていた――。

 ――十六年前の七月二十日は、ヒカル子二十三歳の誕生日の日だった――。

 彼女は室町の繊維商社に事務員として勤めていたが、会社を終えると五条烏丸に近いスポーツジム通いが日課であり、彼女が健康を保つ決まり事であった。そしてそこを出るのが午後九時と決めていた。 
 たまに河原町通りを北に歩き、賑やかな雑踏の中でウインドショッピング愉しんで御所の南側にあるマンションに帰りつくこともある。だが常は鴨川の夜風をうけ、ジムでほてった躰をクール・ダウンしながら二条橋まで歩く決まりだった。
 この日も彼女は坦々と一日のスケジュールをこなし、独り歩いて帰っていた。
 五条大橋の西詰めから十七段の石段を足早に下る。すぐに鴨川の伏流水が流れていて、そこに架かった短い石橋を軽やかに渡る。川の西岸の遊歩道はここから北へと始まるのだった。

 栗毛色で手入れされた艶のある長い髪は、ポニーテールで纏められていた。
 小顔で勝気な細い顎をしていて、両眉は左右対称に美しい角度で跳ね上がっている。大きくも小さくもない鼻柱は涼やかに存在し、輪郭のはっきりした唇は薔薇の花弁のように艶めいていた。細く長い首と小麦色の肌が強調されたシルエットである。彼女は日常的にそれらを鍛え上げて美しく保ってきた。筋肉はいつもしなやかに張り詰めているし、贅肉は微塵も存在しない。
 この日は薄い銀シルクのTシャツに白の綿パン、アシックスの白スニーカーのスタイルであった。顎を引きまっすぐ前方を見据え、パリコレのファッションモデルのように背筋をのばして、鴨川沿いに座るカップルの後ろを颯爽と通り抜ける。

 ――すると、一陣の風が彼女の髪を揺らせた。ヒカル子が三条橋を過ぎ二条橋が近くに見えたあたりだった。何とはなく立ち止まり上空を見上げた。
 常は都会の世俗的な明かりが星々をかき消していたが、この日の空はきれいに晴れ渡り、そこにはいくつかの特別な明るい星々が瞬き煌めいていた。それにその夜の満月は、信じられないほどに煌々と輝いて見えた。なに思わず彼女は、その見覚えのない球体をまじまじと見た。
 これまで見てきたいつもの月とはどこかが違って見える。
 それは恐ろしいほどに、はっきりと澄んだ気高い球体であった。まるでヒカル子と月までの距離が省略されてしまったかのように、美しい。その月は都会の照明にも、汚染された空気にも苦情ひとつ言わず健気(けなげ)に浮かんでいた。巨大なクレーターや砂地の波模様までも、その夜のヒカル子には認めることができるのだった。――すると何の脈絡もなく眼に涙が溢れでる。

(いったい、なんなの!)
 理由がわからず視線を落とすと、霞む眼の端に映った灯り。それに焦点をあわせると『京都湖畔ホテル』という、レトロな色調のネオンサインであった。すると、
『今日は特別な日だから』と、上空のどこかで声がした気がした。

(私は、……誰かに愛されている?)
 躰のなかで込み上げる不確定な感情の根源は、最近のものだ。ヒカル子がその感情を追いかけると、……数回この付近ですれ違った男が思い浮かんだ。もの静かで背の高い男であった。隙のないスーツにネクタイ姿。眼光鋭く彼女はその眼と交差した一瞬間に、目をそらし無視を決め込んだ。
 躰のどこかが、危険な未知の魅惑を感じ取ったのかも知れない。常々、ヒカル子に注がれる多くの誘惑の視線とは少し違う、取り返しのつかない未来を招きそうな視線だった。おそらく彼女の本能が深入りしてはいけないと思わせたのだろう。   

 それにしてもその夜。
 甘やかな風が流れる魅惑の月夜に、彼女は戸惑いを感じていだ。だがホテルで誕生日を越える運命を引き寄せてしまう考えなど、その時のヒカル子には皆無だったはずである。
 職場の同僚が愛やセックスについて語る内容が、ヒカル子の目と耳には幼く見えたし汚らわしく聞こえた。そんなものは自由では無いし、本当の愛は純粋性を伴っているべきだと。
 処女膜は一人の男のために捧げるための(あかし)であり、女の生命(いのち)の証でもあるのだ。それは野蛮な男どもには到底真似のできない、女だけが持ち合わせた気品、神聖な領域なのだとヒカル子は教えられて育った。――そのはじまりは前世からかも知れない。

 ――いきなり、ヒカル子の意識はシャットダウンした――。

 ……闇の世界で、ヒカル子を優しく抱きしめるその男に顔は存在しなかった。
 この濃厚な空気がゆるやかに漂う空間はきっと夢の世界に違いない。その甘く危険な領域に彼女は、きっと自ら迷い込んだのだろうと思った。そんな性癖が自分に備わっていることは、幼い頃から薄々と感じていた。夢の中でヒカル子は男の嵐のような熱い欲望を押し込まれ、何度も頂点にいきつめた。それは歓喜などと言う軽々しい世界ではなかったように思う。しかし所詮は夢でしかない……。

 ――ムーン・リバーのメロディーが聞こえてきた。
 スマホの目覚まし待ち受け用メロディーである。けっして寝起きにふさわしいメロディーではないのかも知れないが、朝の七時きっかりに鳴るこのメロディーが、ヒカル子の一日の始まりの決まり事であり、ごく自然に眼を覚ます。
 いつもは目覚めたあとに、スマホと同じ場所においてあるテレビのリモコンを手探りで取りあげ、テレビに向けて右手を横にしてスイッチをいれる。音声だけをしばらく聞いて数秒間、夢の余韻を味わいそれから上体を起こす。引き換えに夢の記憶、それは急激に去ってゆく。
 ヒカル子のそのいつもの目覚めとは、明かに違う朝であった。
 全裸でベッドの上、しかも大の字で横たわっていた。形のいい乳房の部分まで薄毛布の入ったシーツが掛かっているものの、下着をいっさい身につけていないのが皮膚の感覚でわかったし、同時に下半身がまるで静電気にふれた痛みを感知した。

「え、まさか!」
 思わず声を上げ、彼女は勢いよくシーツを両手で取り払った。
 ベッドを降りると、自分の下半身のあった部分に真っ白いバスタオルが敷かれていた。そこに信じられない赤いしるし(ゝゝゝ)が残っていた。もしかしてそれは、夢まぼろしの名残なのだろうか。わずかな焦りの中で、今自分がいる場所がホテルの一室であることをこの時に理解できた。
 たぶん『京都湖畔ホテル』だと記憶が甦る。すると連想ゲームのように、夜空に煌々と光る月の記憶が甦ってきた。そして男の動き、……その男には顔がなかった。そこまで思い出したが、そのあとが消えうせて思い浮かばない。

 ヒカル子はゆっくりと室内に目をくばった。
 まず目についたものは壁に飾られた絵画であった。薄いベージュ色の室内壁にレトロな木彫り枠の額が一枚。――そこには深夜であろう濃紺の海と白く低い波頭、天空には蒼白い月が描かれていた。その波の音しか存在しない海岸には、一匹のラブラドール・レトリーバーらしい犬のシルエットが描かれていて、後姿のその犬は月を見上げているようだった。A3サイズのキャンバスに油絵の具での色調である。

 セミダブルのベッド・サイドには懐かしいダイヤル式の電話機があり、その横にキリコ細工の水差しとコップが置かれていた。さらに首の長い一輪挿しの花瓶に、真赤な紅のバラが差し込まれ、それがレースのカーテン越しの朝陽で、キラキラと水面のように天井に反射していた。
 先ほどからの部屋の淡い香りが、そのたった一輪のバラのものであることに気づくと、ヒカル子は自分の両手で自分の両肩を抱きしめた。そしてバラの花にそっと鼻をよせる。

 気を取りなおしたヒカル子。思考をあとまわしにしてシャワーを浴びることから始めようと決めてユニット・バスに入った。
 ドライヤーで髪を乾かせてバスタオルを捲きでると、下着と衣服はきれいに畳まれてクローゼットの棚に置かれていた。それらを身につけて薄化粧をすまし、髪をポニーテールに整えた。そして靴を履き、鏡に写った自分の顔をもう一度見詰めなおした、ゆっくりまじまじと。
 付けまつ毛を寄せつけない彫りのある二重と大きい瞳は、簡単には妥協しない性格を誇示している。記憶の断片に間違いがなければ、今日は二十三歳の大人になった女の顔をしているはずだった。しかし仕掛けた男の記憶は微塵も存在していない。
 ヒカル子がデスクの右端に見つけた、水晶を加工したようなルームキーのナンバー。
 『709』であった。それとともに置かれていたチェクイン・カードの控えは『惑星ヒカル子』と間違いなく自分の筆跡で書かれていた。だがそのカードには、ヒカル子の記憶が少しも書きこまれてはいなかった。

(けれどもその男のサインは、私の躰の隅々までに書き込まれた)
 すごくピュアで透明な確信であった。
(躰の細胞は確かに男の皮膚が接触したことを記憶している。男の野生がヒカル子のデリケートな皮膚を押し広げて入って来た感触の激しさ、それが子宮の中に焼き付け残していったもの。この世の誰もが真似のできない魔法を繰って、誰もが経験できないだろう歓喜と絶叫を、優しく手で塞ぎ与えてくれた、きっと)

 ヒカル子は暫くベッドの上に腰をおろして、カードを見つめていたが、やがて椅子から立ち上がりカーテンを全開にした。
 すると陽とともに、東山連峰の山並みが眼に飛び込んできた。
 想像を絶する新鮮な朝の驚きだ。山並みの北側に大文字が見え、さらに北側には一段高い比叡山が窺えた。ホテルのすぐ真下には、左右南北に鴨川の水がたおやかに流れている。ヒカル子が昨夜に月を見上げた遊歩道も見下ろせた。
 京都で生まれ育ったヒカル子であったが、この高みから京都の風景を見るのは初めてのことだった。鴨川べりを散策する人びとは、彼女がその挙動を七階の窓から観察していることにまるで気づいてはいないようだ。人びとの多くは頭上にまで目線を上げて歩くことがないのだ。
 それはきっと人が遠い昔に(はね)を失い、飛ぶことを忘れて以来の習性だろう。その人びとはヒカル子の視線の先で、瞬間にもならない時間の交差で消えてしまう。いったん消えれば、おそらくこの世で再び会うことのない人びとであろう。
 昨夜にヒカル子を愛撫しただろう男、すでに時間の全てを使い果たしたのであろうか。

 ――その時、ふと母を思い出した。
(これって、親子に継がれる『宿命』なの?)
 ヒカル子の母は彼女が十二歳の時、晩秋の摩周湖で入水自殺であった。育ての母からその真実を訊いたのは、教団を離れる時だった。それまでの母は『真光(しんこう)幸せ教団本部』の生神(メシア)の従者となり、俗世間を離れ大山総裁とその妻キリコに尽くしぬく誉れある立場だった。だが事実はそうでなく、母は大山総裁との関係失意の中で死を選んだとその時に知った。
 育ての親は優しかったし、教会員も心優しい人びとばかりであった。だが大学卒業を機にヒカル子は引き止める義理の両親のもとを去り、教団から逃げるように去った――。

 そのとき虚ろなヒカル子の視線に、気になる若い女性が映りこむ。
 眼下のジョギング姿のその女性は、この窓を見上げていた。ヒカル子は反射的に身をかくした。白いキャップとサングラスで表情は分からなかったが、三十代ぐらいだろう。
(きっと思い違い……でも気になる)
 ゆっくりと窓際により、もう一度確かめた。
(いない!)
 左右をよく見たがどこにも見当たらない。
 ヒカル子は再びベッドに腰かけて、見るともなくルームキーを眺める。やがて自分の馬鹿さ加減に含み笑いした。きっと、処女喪失の動揺が招いた幻影なのだろうと。
 ヒカル子は不意に立ち上がり、ルームキーとバイキングの朝食券を持って部屋をでた。会社は十時出勤である。彼女の足で室町の会社には、近道をすれば三十分もあれば充分であろう。軽い朝食を済ましても余裕で間に合う時間だった。

 ――エレベーターを降り、まずゆっくりと右側から左側にむかって視線をめぐらせる。初めての空間ではないのは確かだが、その光景は曖昧だった。まるで何年かぶりにバスから降り立ち、いつか変わり果てた観光地を眺めるような心境であった。
 するとこのホテルの中に、川が流れていることを思い出した。冷房ではない涼風がそこかしこから吹き出し漂っている。ヒカル子の意識は、目の前に漂っている変形した空気との符号を求めた。
(部屋のものではないバスタオル、きっと、ホテルマンの誰かに違いない)
 フロントの中では四人がチェックアウトの客に対応していた。

 三名の男は濃紺の制服に小豆色のストライプ・ネクタイ、女子一名はシルクの白いスカーフで首を飾っていた。ほかにも頭に円筒形の帽子をのせたドア係、荷物を運ぶベル係、タクシーを手配する係り、なれた動線上で客を誘導し送り出している。
 フロントは込み合っていた。客の多くは事前支払い済で飲み物の清算が中心のようだ。訓練された丁寧語が飛び交う。
「お早うございます、お客様。冷蔵庫の中のお飲み物はお召し上がりでしょうか? ……はい左様でございますか、承知いたしました。こちらが領収書になります、有難う御座いました。お気を付けてどうぞ」

 ヒカル子はフロント内の三人の男に強い眼差しを注いだ。
 幼い頃からあかの他人に育てられたため、いつも人の顔色を見ながら生活を続けてきた。だから相手が自分に対してどう思い、どうすれば気に入ってもらえるのか、顔と眼を見るだけで考えが読み取れる。そしてそれはいつも完璧なヒカル子だった。
 一人目の男は一八〇センチ以上に見える長身で、髪型は七・三分けの刈上げであった。三十歳前後で精悍な顔つき高い鼻が目立つ、おそらくは独身であろう。思念を込めてしばらく男の顔を強く見つめたが、チラ見してきたが無反応であった。人の視線は饒舌である。強く見つめることで意思が伝達されることをヒカル子は知っている。
 二人目は一人目と同じくらいの身長で顔の長い男であった。長いうえにかなり顎骨がしゃくれていて、横をむくと三日月のように見えた。眉毛が濃くて睫毛(まつげ)もしっかりしゃくれていた。ヒカル子の視線を感じ、顔を起こして彼女を見返してきた。こちらの意思が読めないのか視線が戸惑っていた。そういった意味で三日月の彼は、彼女とは違う棲家の男である。
 三人目の男はあまり背の高くない好男子で、笑顔が絶えない男であった。おそらく人に頼まれたことを無視することのできない性格であろう。彼はヒカル子の視線を堂々と受けたが、どう反応すればよいのか分からない。視線を合わしたまま、首をかしげるジェスチャーで困惑を表現した。ヒカル子は(違う)と悟り、自分から視線をはずした。

 結局、朝食を取らずに三日月顔の男の列にならび、チェクアウトを受けた。
「――昨夜は飲みすぎちゃってご迷惑かけちゃったみたい。チェックインを受けていただいた方に謝りたいのだけど、どなただったのかしら?」
 何も飲んでもいないのに、入館時にまるで迷酔状態だったと思う。質問を受けた彼は、俊敏にパソコンのキーを何回か叩き、そして笑顔をつくろう。
「担当したのは、当方の『カツトビ』ですね。ええ、彼はナイト専門のスタッフでして、さきほど退社しました。なんでしたら彼に、ことづけを申し伝えましょうか?」
 胸に『龍神』のネームプレートをつけた男は、素直そうな笑みでそういった。ヒカル子は、その答えをどこかで予感していた。だが顔が浮かばない。
「いえ、いいです。いらっしゃればと思っただけですので」
 さりげなく、そう答えた。
 カツトビと言う男がいつか鴨川べりで見かけた男だと思ったが、何故だろう目の鋭さだけでその顔つきが浮かんでこない。もしかしたら別人かも知れない。
《カツトビなんて男、現実には存在しないのかも知れない)
 理屈抜きに、漠然とそう思い(この場所には自分はもうこない、たぶん)と、その予感も実に曖昧だった。

 ――その後のヒカル子は、処女喪失による茫漠とした感情に支配されていた。集中力を欠き、それまでの貞操感念が反動的に開放され、これまで(かたく)なに避けていたはずの言い寄る男たちに、簡単に抱かれる女になって行った。
(幼き日からの独りよがりだったのだろう貞操観念、それが、見知らぬ男によってもろくも崩れ去った。所詮、乙女チックなそれは、自己プライドの招いた妄想だったのか)

 全身から理想を失った彼女は言い知れぬ寂しさを、自虐的な行為で隠そうとしたのかも知れない。ヒカル子は三人目の男と同棲を始めて、半年後に息子である流星を出産した。その優しい男は懐妊を知ったうえで求婚し、入籍して流星を認知してくれたのだった。
 だがその息子は難病を抱えて生まれた。
「五体満足じゃないか」
 そう男は慰めもしてくれた。
 しかし彼女の性生活は満たされることはなかった。心底から夫を愛しようと努めたが、躰のどこかが無感動を決め込んでいる。結局、夫はヒカル子のそれを感じ取り、別の女と浮気し去っていった。――申し訳なく思ったが未練を感じることのないヒカル子だった。そして、もう再婚はしないと決めたのである。
 
 おりしも世の中の舵取りは、ひたすら不景気な方向に突き進んでいた。
 ヒカル子の会社も、急激な繊維不況にみまわれて倒産してしまった。彼女は離婚後も躰を鍛え上げることで精神を保っていたが、それだけでは生活はできない。ただ、強い精神と健康であることは有利だった。どんな仕事にも怯むことなく挑んでいくことができたのだから。

 息子の流星は先天性の『ミトコンドリア病』だった。――が、少し違う特異なタイプだと宣言された。彼女は二十数年間生きてきて、そんな聞き慣れない病気の存在など耳にしたことがなかった。
「一体、何故なんですか?」
 担当で恰幅の良い雛鳥(ひなどり)医師は無機質に答える。
「まず血液型が普通ではないのです。奥さまはRh+のB型です。お子様の血液型はそれでもなくRh-にもあてはまらない。それに型は、A・B・AB・Oすべての特性を含んでいます。複数の型をもつ場合『血液型キメラ』と呼ばれ、何十万人かに一人の割合だが、それは二種類までです。それ以上は、……現代医学ではありえない」
 担当医師は困惑を通り越し、みずからの言葉で混乱をきたしていた。

 流星の場合は二八〇〇グラムの体重で産まれ、一見ごく正常な乳幼児で泣き声も元気があり、貪欲に初乳を飲んだ。だが、産まれて三日目に突然危篤状態に陥ったのだ。検査のために血液採取が行なわれ、そのことが判明したのである。
 キメラとはギリシャ神話に登場する、『キマイラ』と言う伝説の生物が呼び名の由来だと言う。頭がライオンで胴体が山羊そして蛇の尻尾を持つという生物だという。それを聞き、ヒカル子はぞっとした。我が子が遺伝子操作の先にいそうな生物の姿に重なったからだ。
 実は流星の病名が確定したのは後のことであった。
 本来のミトコンドリア病は、真核生物の細胞小器官の一つであるミトコンドリアの異常が原因で発症する疾患である。それは全身の細胞の中にあってエネルギーを産生する働きを持っているが、その働きが低下することが原因でおこる病気だとされる。
 そんな彼は産まれてすぐに黄疸(おうだん)を発症し、全身の筋肉痙攣や髄膜炎などの合併症が認められたうえに、三十九度の高熱である。限りなく危篤状態であった。――その新生児が、わずか一晩の内に誰の手も借りずに症状が沈静化した。このことでヒカル子は複雑なショックを受けたが、担当医の雛鳥はそれどころではなかった。

「お子様の場合、異常はミトコンドリアDNAにまで及び、脳筋症の兆候も認められます。それに症状は多岐に渡っている。今回はそのことに起因する発作ですが、……それが一過性で終息するとは、まったくその理由が解からない」
 これは雛鳥が北都大のiPS(多能性幹細胞)研究における第一人者、九粒(くりゅう)教授と親しく、人のミトコンドリアについて共同研究をしていたことで分かった事実だと言った。
 雛鳥が九粒と顔を見合わせ、ヒカル子に告げた内容は多岐に渡った。なかでも特記すべきことは、心拍数が異常に少ないことだった。自然界の象は毎分三十回から四十回。逆に小動物は、一分間に三百回から四百回と驚異的な速さである。この脈拍数の違いは寿命の違いにも関係していると言われる。
 雛鳥は流星の心拍数が、
「まるで深い海の底で暮らしている、シーラカンスのようなデーターです」
 そう例えたあと、不適切表現だったとヒカル子に詫びた。
「追跡観察が必要ですが、おそらく細胞レベルの老化が、非常に緩やかである可能性が想定されます」
 そう言い、そこで言葉をきった。

 その雛鳥のためらいを補うように、先輩格の九粒が続ける。
「つまりまだ仮説の域ですが、通常の人間よりも寿命が長くなる可能性があります。それを阻害する病気が出ない限りにおいて。――通常ミトコンドリアDNAは、母親の卵細胞から受け継がれます。それで奥様のデーターも取らして戴いたのです。――結論的に言いますと、どうやらお子様の場合、父親から持ち込まれたミトコンドリアの情報が、色濃く作用しているようです。しかも母親からの遺伝子も損なわずに変化を遂げている。……不思議で特異なのです」
 九粒はそこまで告げて、人差し指で眼鏡を持ち上げた。
 再び雛鳥が言った。
「それに息子さんほどではないが、奥様にも特別な因子が存在します」とも。
 二人の医師は、治療と原因解明との名目で、惑星親子に接触を続けさせていただきたいと要望した。それにより、多くの難病患者を救うことになると付け加えて。
 やがて流星は退院し通学も許されたが、定期的検診を受ける条件付きであった。そして十歳時の軽い痙攣発作による再入院を機に、北京都総合病院のVIPな個室で生活を続けることとなった。それは病院側による柔軟な拘束を意味していたが、雛鳥らの誠意ある対応で、惑星親子はそれを拒絶する理由を思いつけなかった。
 それにシングルマザーにしてみたら、安心して仕事も出来るし、親子のためにと普通食までも用意されていた。何もかもが無償で賄われて経済的にも助かる。ヒカル子は、息子の躰の変調に怯えて過ごす日々からも開放されたのだった。   

 ――そして再入院から四年が過ぎた今年の七月十日の朝。ヒカル子は大事な話しがあると担当医に告げられた。
 彼女が通されたのは、一般患者の診療室ではなくその奥にある部屋であった。空調のよくきいた部屋で、半袖の彼女は少し肌寒く感じたが文句など言える立場ではない。笑顔を湛えて椅子に腰をかける。
 雛鳥医師はヒカル子が座るなり、すでにモニター画面に呼び出していた何枚かの画像を見せた。そして主語を(はぶ)いたように語り始めるのだった。
「これを見るかぎり脳や骨それに筋肉などの発達が、ほかのお子様と比べ別段劣ってはいません。ただ、……いぜんに申し上げたように躰の細胞成熟度が、その成長年齢に伴っていないのです。それに」
 言葉を止めて、担当医は改まり自分の椅子に座り直した。そして小さく咳払いをして、ヒカル子の表情を確かめるかのように見た。――ヒカル子は大きく瞳孔を開いて、張り出された我が子の内面をゆっくりと見ていた。なぜにか緊張が忍び寄る。
「それで、流星はどうなるのでしょう、この先」

 雛鳥医師はヒカル子の微細な苛立ちを知り、少しあわてて次の言葉を並べる。
「実はお子様と同じ症例が、最近全国的に報告されているのです。つまり普通ではない(・・・・・・)患者さんです。その調査データーを対話式AIで整理したところ、発病者のそれは、なぜか零歳児から十六歳児までの年齢内の子供に限られているのです。とても不思議な現象です」
 少し間をおいて、ヒカル子は雛鳥医師に詰め寄った。
「むずかしい話はよく分かりませんが、この先も発作が再発するものでしょうか? どうなのでしょう」
 ヒカル子は(データーなどなんの意味も感じない)と思っている。

「正直それは分かりません。ただ私どもは同心社大学の脳精神学のプロを巻き込み、三年ほど前から各地の主治医と連携をとり、全力で原因解明に取りくんでいます」
 雛鳥は、手元のA4の書類の内容を確認する。
「正確な情報でないものを含むと、……全国で少なくとも五千名以上の患者さんがいることが今日(こんにち)までに分かっています。……そのうち、この病気が原因で亡くなられたと思われる患者さんは二名です。決して悲観すべき病気ではありません。むしろ人類の未来にとって、大きな希望となるのではと、考えています」
 次に医師は顔を上げ、強い決意を含んだようにしてヒカル子に告げた。
「そこで失礼ですが惑星さまのご主人に対して、お子さまだけではなく、多くの同じ症状にいる子供たちを、正しく治療するためのご相談を――」
「それはできません」
 言葉を遮るように言ったあと、激しくヒカル子は答える。

「五千人もの同じ病気の方がいるのですから、その方々に協力して戴けるのではないでしょうか! それに、流星の父親は、……」
 
 話すほどに流星の父親の確証が、ますます不確かなものになっていく。雛鳥はいちいち頷いている。その応対ぶりが少し腹立たしく感じられる。
「ええ、ご事情があること、婦長からも伺ってもいます。しかし別のお子さまでは、病気の因子として関わったと思われるご主人が、一人もいらっしゃらないのです」
「なぜ? それでなぜ、流星の父親なのでしょう」
「ええ、ごもっともです。……」
 しばらくの間があった。
「お子さまには、他の患者さまとは明らかに違う特徴が存在するのです。……それはためらいをともなう内容なので、ですからお母様に告知できずに今日に至りました。まことに申し訳ありません」雛鳥は深々と頭を下げた。
「その特徴とは、なんなのでしょう?」
 ヒカル子は激情的であるが内面はいたって冷静ある。彼女には宗教実践者の両親の血が流れている。少々の不条理にたじろがないようにできているのだ。

 その時、ガチャガチャと金属の音がした。見ると、部屋の奥の片隅で若いナースが、診療用の器具をステンレスケースの上に並べていた。
「それが、お子さまには心臓が二つあるのです」
 一瞬、室内の空気の流れと金属音が止まった。
 そのナースが極瞬間、こちらに視線を注いだのを、ヒカル子は気づいていた。
「……それはなんのために?」
 どうしてと訊くよりも、ヒカル子の言葉はより結論を目指している。
「理由はよく分かっていません、が、現時点では異状ではないとしか言えません」
 そう言い雛鳥は、胸部写真をディスプレイに呼び出した。
 すると所定の位置に見慣れた心臓があり、医師が指し示す肺胞の下側部分に、隠れるように、もうひとつの心臓らしきものが覗いているようだった。
「この心臓は今のところ機能していません。ですが、壊死(えし)状態ではありません。すべての弁は開放されています。血液はこの中をも循環しているのです。……私たちには、信じられません。このものの存在理由が」
 フィルムを見る雛鳥医師の横顔をのぞき見ると、その太く濃い眉毛の下のつぶらな瞳が、少年のように潤み輝いているようにヒカル子には伺えた

 雛鳥医師の話によると、十年前の検診の時にそら豆大の袋状腫瘍を発見した。そこに何故(なにゆえ)腫瘍が必要であるのか、皆目検討がつかなかった。その後の追跡検診でその検体が、急速に『もうひとつの心臓』に変化していくのが確かめられたと言った。
「お子さまの生育は比較論的には緩やかですが、決して心臓疾患でもありません。しかし大きな謎を含んでいるため、対処治療することができないのです。お母さまにお聴きするデーターはもうありません。あとは何としてもご主人の協力が必要なのです」
 雛鳥は雨雲の切れ目に現れた眩しいほどの光にでも祈るような眼で、ヒカル子を見てそう言った。
 ヒカル子はしかしどうすることも叶わない。その父親であろうと思われる男とのあいだには、十六年間という絶望的な空白の時間が横たわっている。
(違う、顔すら記憶にない。記憶を消去され、逢ったことのない男なのだ)。
「父親が誰なのかはっきり分からないのです。……すみません」
 ヒカル子は小さな声で答えた。

 雛鳥はなんども頷きながら「複雑なご事情はよく分かります。しかし事は、多くの難病の解決につながっているのです。いえ、これは決して大げさな話ではありません」。
「先生、わたしの息子は、……人の子ではないのかも知れません」
 ヒカル子は沸き立つままに、思いを言葉として発した。
「……それは、たとえば『処女懐胎』だと言うことでしょうか?」
 雛鳥は医師として決して認めてはいけない言葉を発した。
「いえ、……交渉をもった痕跡はありました。でも、相手の顔すら思い出せないのです。その彼は、人ではないのかも知れません」
 ヒカル子は、さらに乾いた声でくり返した。
「その日の日時、場所はどうでしょう。記憶にありますか?」
「はい、それははっきりしています。ホテルでした、誕生日の夜です」
「うん、そうですか。であればその夜にそのホテルに出入りした客か、――そのホテル関係者のなかに、きっとご主人はいたのでしょうね」

 この日の雛鳥は、まるで一人の豪腕な精神科医のようであった。
「そうであれば少なくとも日本の人口の約半分という不特定な数字ではなくて、その特定された夜の、ホテルという器の中に存在した三,四百人ほどに絞れる訳だ」
 何としてもその彼と接触したい気持ちであるようだ。
「……その朝、記憶をとりもどすためにフロントで訊きました。チェックインの時、ようすを知っているだろう人の名前を」
「で、名前は分かったのですか?」
 雛鳥は、少し声をあげた。
「ええ、担当者のお名前が『カツトビさん』であると。でも結局お会いできませんでした。それに、お会いする気持ちにはなれませんでした」
「カツトビさんですか、分かりました」
 雛鳥は慈愛を含んだような笑顔に戻り、ヒカル子に言った。
「惑星さまのお気持ちは、わたしにも何となく分かる気がします。そこで、……まことに恐縮ですが、わたくしの勝手で、直接お声を掛けさせて頂いてもよろしいでしょうか」
 しばらくヒカル子は、それには答えなかった。
「……名前は訊きましたが、その人が本当に相手なのか、ご迷惑をお掛けするだけではないのかと今も心配です。できれば事実に触れたくありませんし、知りたくもありません」 
 彼女は冷たい両腕を交差して組んだ。
「惑星さまのお名前を出すようなことは致しません。わたしくしの古くからの友人で『おおじし』という、こういった案件の調査プロがいます。彼は決して誰も傷つけるようなことはしません。それに惑星さまの状況は話しません。安心しておまかせください」
 ヒカル子は先程までいた看護師が、並べていた器具の一つをしばらく見つめ、それから言った「それでいいです」と。

 ――ヒカル子は今年に転職し、病院から近い鞍馬口のスーパーでのレジ仕事ができていた。
 彼女の三十九歳の夏は、これまでに常態化した酷暑と豪雨が交差する夏だった。それに雪まで降った。学者や気象予報士に『すでに地球は狂っている』と言わしめるほどである。
「いちど河原町のユニクロで買い物がしたい。着る服がなくなった。それに靴も」
 ある日、流星が母親に言った。
 難病患者扱いであったが、普通に中学に通う育ちざかりの十四歳である。いつの間にか身長は成人を凌ぎ、アスリートのように立派であった。
(そう言えばしばらく衣服を買い与えていなかった。うかつだったわ)
 ヒカル子は流星に謝り、次のヒカル子の休みに一緒に出かけることに決まった。
 
 ――七月十七日の午後が、約束の日だった。
 初めて親子で、河原町まで買い物に出かけた。おりしも午前中に行われた祇園前祭、山鉾巡航の余韻で市内は県外の車で混み合っていた。しかしヒカル子は、久しぶりに自分の心が弾むのを知った。
 彼女は御池通り地下駐車場、河原町通りに近い場所を選んで車を止めた。地上にでると、午後四時をまわったというのに路面の照り返しが目を差した。
 黒の日傘をさして、河原町通りを三条通りに向かって歩いていく。青キャップの流星は歩幅が広く、ヒカル子の五メートルほど先を、母親が見失わない程度の歩調で進む。ショッピング・センターに着くと、流星はさっさと入口から中に入っていった。
 ヒカル子は流星のTシャツとズボンを見立て、お揃いに近い色のブラウスとジーンズ、それにお洒落な腕時計を自分用に買い求めた。そのあと二人は、蛸薬師(たこやくし)通りの店でスポーツ・シューズを買い揃えた。
 彼女は、流星と新京極通りを歩く。何年ぶりだろう、通りは大きくさま変わりしていた。それでも見覚えのある店舗もあり、どこか懐かしかった。だが懐かしさとともに奇妙な胸騒ぎが彼女の中で、ゆっくりと感知され徐々に大きくなってくる。

(なんだろう、幼い過去に見た夢の恐怖。今それを思い起こしながら歩いているような、妙な気持ちだわ)――ヒカル子の足取りが重くなってくる。
 やがて北の三条通りに行き当たる手前に、大きな二つのビル構えの映画館があり、その二棟のビルの空間にテレビ局の中継車が止まっていていた。
 そこではお笑い芸人らしい男たちと、二人の舞妓のやり取りを撮影していた。ヒカル子は京都に住んでいながら、舞妓を身近に見るのは初めてだった。流星は母親がしばらくそこにいるだろうと思ったのであろう、どこかを探索するためか消えた。

 ――どれくらい経ったであろうか、――短時間だったと思う。
 急に騒がしい声がしてまわりを見回したが、近くに流星が見当たらない。それで映画館脇から新京極通り上に出た。すると三条通りから、津波のうねりのように群集が押し寄せてくる。

(……この風景も、夢で見ていた? そんな気分だわ)
 よく見ると観光客を掻きのけ、若い作務衣(さむえ)姿の坊さんたちだ。悲鳴をあげて、何かから逃げているようだった。その狂気じみた群れに接触して倒れる観光客もいた。
 ヒカル子は目の前で展開されている狂乱を、まるで映画監督のようにクールに受け止めている自分が何とも不思議だった。急にその中から流星が飛び出てきて、母親を見つけると後ろに回り込むように隠れた。躰の風袋は大きいがまだ子供だ、それに世間慣れしていない。
 不意に悲鳴は遮断されたように、ヒカル子にはよく聞こえなくなった。
 空気ごとゆっくりと制御された群集が、顔を恐怖にゆがませて目の前を通り過ぎていく。すこし間をあけ、血刀を振りかざした男がやって来た。だがヒカル子は逃げない。
(彼を知っている!)
 過去に彼女のいた教団員だと、すぐに知った。
「シンジ、そうシンジ、えッなぜ!」
 同い年の異父母姉弟(いふぼしてい)だった。血は繋がっていないが、教団による法を無視した養子縁組により義理の両親に育てられた。彼も同じ境遇であった。ヒカル子が教団を去ってからは一度も会うことはなかった。
 そのシンジであろう男は、鬼のように凄まじい形相であった。
 ヒカル子の七メートルほど前で立ち止まった。そしてその場に座り込んでいた老婆を、ためらうことなく切りつけた。そのシンジと(おぼ)しき男の白いカッターシャツに、真っ赤な返り血が飛び散った。
 老婆は踏み潰されたカエルのように叫び飛び跳ねる。ヒカル子はその老婆は絶命して、まことに不思議だが、そのタマシイが躰からごく薄い陽炎のように、抜け出るのを目撃した。
 次に男は顔を起こして、正面に立っていたヒ彼女を見る。そして目を(みは)り明らかに驚きの表情を見せた。ヒカル子と認識したのだろう。
(これは、……宿命によって形作られた再会かも知れない)そうヒカル子は思った。
 男は固く握り締めていた血刀を、ふと気が抜けたように手元から落として、まるで助けを求めるような、そんな狂気に笑顔を刷り込んだような顔つきになり、二歩三歩とヒカル子に向かってくる。

『パン! パン! パン!』

 アーケード内いっぱいに、乾いた銃声が響き渡った。
 その若い狂人は立ち止まり自分の胸を見て、そこを撃ち抜いただろう警官を探し当てる。そして不快感を滲ませた顔になり、後ろに反り返りスローモーションで倒れ込んだ。
 その時ヒカル子の脳内に(発信源はそのシンジだろうが)、まるでメールのような理解できない手段によって、【七月二十日午後、京都駅】その際立ったメッセージが刻印された――。

 翌朝。ヒカル子は、シャワーを浴び急いで病院に向かった。
 病室に入ると、いつも通り二人分の朝食が用意されていた。今朝の流星は、ベッドの上に正座して窓の外をぼんやりと見ていた。
 彼女はまず流星の顔の表情をさぐったあと「リュウ大丈夫だった?」。
 すると意外な返事が返ってきた。
「俺ね、昨日の人が言っていたこと、きっと父さんからの伝言だと思う」
 流星は唐突に言った。俺と言う言葉に馴染めないヒカル子。
「え、なに? 誰からの伝言?」
 一瞬、流星の言っていることが理解できなかった。
「だって七月二十日午後、京都駅って、言っていたじゃないあの人」
「えッ、……それって、リュウ、流星にも聞こえたの?」 
 それは言葉ではなかったはずだった。(言葉だったのだろうか?)
「ボクの父さんは京都に住んでいるの?」
 彼女は流星に物心がついたころ、事情があって父親とは離婚したのだと話してあった。いずれは分かることである。そのご流星は母親が困るような追求をすることは一度も無かった。その流星が今朝初めて父親の消息を訊いた。
「お父さんは、……でも、たぶん会ってはくれない」
「でも、昨日の伝言はお父さんからの伝言でしょう?」
 さも怪訝な表情の流星だ。
「……そうじゃないと、母さんは思う」
「だってボクも一緒に行きたい、京都駅」
「だめ、……今回は母さん一人で確かめる。次どうするかは、それからね」
 いつもとは違う朝の会話の後、二人は無言で朝食をすませた。

 ――その夜、ヒカル子は不思議な夢を見た。
 深くどこまでも闇底に沈み込んでいく。二度と浮かび上がることができない不安がよぎる。そう思いながらも抗うことのできない、魔術でコーティングされた坩堝(るつぼ)を滑り落ちる感覚だった。――気が付くと、夢の底で母親ユリ子が待っていた。母親はアサギ色の着物姿であった。それは十二歳のヒカル子が見た記憶にある附下げだ。
 淡い地色に描かれた友禅模様は、ユリの花が描かれていた。その白ユリの可憐さを殺さない、何種類かの淡い小花と草の葉で纏められている。あの日、突然に我が子に会いたさからだろう、内密で教会を訪れた日の母親だった。
 会ったのはそれっきりだった。
 彼女は記憶を呼び起こす、この付下げは生前ヒカル子の殉職した父親が、教会の教主である大山劉光(おおやまりゅうこう)から授かった物であると言っていたのを。――母は何枚かの着物を持っていたが、一番のお気に入りはその附下げであった。
 母はその着物姿で、北国の摩周湖に入水したと聞いた。夢にその母親が現われなくなったのは、ヒカル子が十三歳の頃からであった。
 
 実の両親を思慕することは、教義的に良くないことだと教えられてもきた。その母親がおよそ二十六年ぶりに夢の中に現われた。それはいつもの夢とは違い、非常に実在感のある夢だと思う。いつかヒカル子が読んだことのある小説の、悲劇のヒロインが現れたようだ。二人とも立ってリアルに存在しているのに、周りは漆黒の闇である。
「お母さん。……」
 ヒカル子は、そのあと言葉がでない。
「大きくなったわね、それにとっても綺麗。子供はいるの? ヒカル子」
「うん」
 幼い子供のような返答、彼女の顔の表情が崩れていく。
「あぁーん、お母さん、さび、さびしかったよう」
 顔をくしゃくしゃにして、ヒカル子は母親の前まで行く。そして母親に触れたがそれは虚像であった。その虚像の母も涙を流し嗚咽している。
「ごめんなさい、ヒカル子。まさかあなたの人生までも、巻き込んでしまうとは思わなかった。……私たち親子が共有し、ほかの誰にも真似のできない種類の、これはきっと宿命なのでしょう」
「お父さまは、どこにいらっしゃるの、わたしお父さまは?」
「そうね、お父さんのことを、あなたに正しく伝えていなかったわね」
 ユリ子が空間の椅子に座ったのでヒカル子も真似て座ると、まるで見えない椅子がそこにあるよう座ることができた。
「一部の幹部は知っているようね。あなたの父親は殉教した男、切人(キリヒト)ではなくて大山劉光の隠し子だと」
「……!」
 初めて知る母親の過去。これまでヒカル子は、自分を捨てて去った母を恨んで育った。教団を離れた頑なな理由を、この先に失ってしまうかも知れない。
「そう、そうなの母さんは大山劉光を愛していたし、いまでも愛している」
「だったらなぜ、なぜお父さんはお母さんと一緒に、……」
「そうね。最初は理解できなかった。なぜ、わたしでなく品獣(しなけもの)キリコなのと」
 母は胸の奥から搾り出すようにして言った。
「……でもね、実は違うかも。――もしかしてあなたの誕生は、人間界の未来にとって、とても複雑で大事な意味を含んでいるのかも知れない。だから、……」
 ユリ子は静かにそう言った。意味深なフレーズである。
「えッ、なにが、違うの?」
 思わず彼女は腰をあげて、母親の表情を探った。するとユリ子も立ち上がった。まるで親子は双子のようだった。そして母親が語り始めようとした時、遠い漆黒の果てで稲妻のように鋭く光るものがあった。その轟音が波の振幅となり、二人の場所に伝わってきた。
「この夢世界は獣人によって支配されているの。許された場所にいない私に気ついたのかも知れない。見つかれば大変。――ううん、ヒカル子は心配しなくてもいいわ、けれどもアマイエスという女には気をつけて――」
 不思議を言い残して夢の母親は突然消えた。
 するとヒカル子の意識も、疑問を抱え込んだまま霧のように薄れてゆく。
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登場人物紹介

生更木慶治《きさらぎけいじ》・四十歳



1990年生まれ2002年12歳に光体験。



ホテル警備夜勤勤務・高知県梼原町の出身。京都上賀茂に住む。坂本龍馬の信奉者右手で右耳の上の髪を掻く癖あり。名字由来は春に向けて草木が更に生えてくるとの意味。名前は小学生で亡くなった弟の忘れ形見(改名)。



極端な猫舌。基本黒Tシャツに上着。ブルージーンズ。夢の世界の宇宙と現世をつなぐ『夢の門番』で主人公。

下弦野登人(かげんのとひと)・四十歳 



エレベーター保守会社夜勤勤務。高知県羽山町出身須崎の工業高校の同級生190㎝の長身猫背。穏やかな性格だが剛毅。真剣に考える際に鉤鼻を親指と人差し指で挟みこする癖。ダンガリーシャツと薄ピンクのジーパン。

九條蓮華(くじょうれんか)・二十八歳 



『北京都病院』と北都大病院勤務の看護師。献身的看護で慶治の恋人となる。京都出身だが実家を離れ紅ハイツに住む。

五十嵐時雨(いがらししぐれ)・三十歳 



下弦野登人の通いの恋人。四条の電気器具販売店勤務。新潟の五泉市出身。色白美人。ぽっちゃり丸顔で色気あり。

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