第4話 とても深い夢へと君いざなうか 

文字数 6,536文字

 『赤紅(あかべに)ハイツ』は、京都市内の頂上にある。
 悪夢を自覚したのは一ヶ月ほど前からだった。これは四十年間生きた中で初めての経験だ。これまで慶治の見る夢は無意識な呼吸のように曖昧模糊(あいまいもこ)だった。目覚めれば急速に忘れ去るし、あまりにも素っ気ない。そのほとんどが荒唐無稽な内容である。確かめなどしてはいないが、誰だって同じだろう思っていた。
 それが、まったく異質な夢へとした。
 そのシチュエーションの境目はハッキリとしていた。そう――とてもリアル――現実と並行した別の世界にスッと移行、そんな軽い感覚である。
 ベッドに横たわったまま宇宙空間を際限なく落ちていく。――やがて『四角い箱屋根』をすり抜けると、ベッドは床にフワリと着地する。その時点で自分のベッドではなかった。真っ白でシンプルなベッドだ。その厚さ三十センチほどのベッドを降り立つ自分は、紺の短パンにTシャツの寝姿のまま、見えないが素足の感覚だった。

(……なんだ!)

 自分の躰が透けて見えるし影がない。――しかし焦りはない、あくまで夢の感覚だから。そのジュラルミン風の部屋は上下左右が壁で覆われていて、ベッド以外に何もない。いや、壁の一面が開いていて先を見通せない通路だった。その通路空間を、まるで誰かに誘導されるように歩き続ける彼だった。
 通路壁はガラスのように透明で、外は距離感のつかめない闇の世界である。
 照明らしきものは見当たらないのに通路自体は(ほの)かに明るくて、両側のガラス面に慶治自身の姿が映らない不思議な通路だった。最初のうちは際限なく歩き続けるだけの夢で終わっていた。
 くり返す何度目かの同じ夢で、意を決しガラス面に(ひたい)をつけて目を凝らし詳しく見た。すると遠くに、幾つもの漁火(いさりび)に似た輝きが認められた。その闇には奥域があり蛍の光のような輝線が、ゆるやかに(うごめ)いているように見える。歩き続けてもいつまでも漁火との距離感は変わらない。簡素な万華鏡によるだまし絵にも思える夢だった。
 ある日、不意にその漁火を(さえぎ)るように怪しげな(かたまり)が、慶治に向かって遠くから押し寄せてきた。その塊は勢いを持ち躊躇なく、ついには彼のいる通路壁に激突した。――それは砕け、重く鈍い音を発した。彼が思わず身を仰け反りながら見ると、張り付いた血だらけの肉片らしきもの――それは蝙蝠(こうもり)に似たグロテスクな顔をしていた。その衝撃的な光景を目にした慶治は、自分の叫び声で目を覚ます。
 だが覚めると驚きはすぐに漠然とした記憶に置き換えられて、恐怖はどこにも残留していない。そしてそれは、まるで車の慣らし運転のように二、三日に一度の周期で訪れる不思議な夢だった。回数を重ねるうちに恐怖感は薄れていった。

 その摩訶不思議な夢、またしても極端に変異した。それはとても偶然には思えない、そうだ確かにあの異質な客、星国亮馬の事故発生の日からであった。
 もともと慶治は寝つきがよい。その日もすぐに寝息を立てたはずだった。経過時間は分からないが、突然ドアをノックする音がした。彼が返事する間もなくその存在は、断りなしで扉を開け勝手に部屋に入って来た。
(――えッ、内ロック掛けたのに)
 小心者の慶治は、いつもドアの施錠をする癖がある。それに昨今の世間は荒れていて、強引に他人宅に侵入して、理不尽で残虐な事件を簡単にひき起こす。そんな事件ニュースが絶えない時代である。
 彼はベッドから立ち上がろうと――ところが仰向けのままで躰を動かせない。目はハッキリと開いていて、天井と周辺のクーラーの限られた一部が見える。しかし顔も躰もまったく動かせないのだった。
「!」
 叫び声も出ない。彼はパニックくった。それが『金縛り』だと認識できたのは、数秒後のことである。これは未体験だし、聞いていた話では胸の上に誰かが立っている展開だ。それとは状況がずいぶんと違う。

(ッたく、これじゃ金縛りじゃなく口縛りじゃ)
 かなり混乱した突っ込みである。
『……』
 そいつは無言で立っている。
 どうやら頭の真上に立っている。――だが慶治はベッドに寝ているわけで頭と部屋壁の隙間はわずかだ――人など立てるスペースはない。しかし人らしい気配を感じる。しかも気配は、彼の顔を頭越しに覗こうとしているようだ。
 たいがい慶治は後頭部で両手を組み、それを枕代わりに睡眠に入ることが多い。彼はわずかに動くと分かった両手の指先を、強く弱く加減しながら這わせて組み手を外していく。――と、自分が驚くほどに、突然に組み手が勢いよく外れ、指先がアイツ(ゝゝゝ)の足に触れた。その感触は爬虫類の皮膚のように冷たく、ヌルっと感じられた。だがそれは恐怖心ゆえの錯覚で、実際は接触でなくすり抜けたのかも知れない。
「おまえはだれだ!」
 突然に口縛りがとけ、その自分の絶叫で眼を覚ました。実はこれがアイツとの初めての遭遇で、信じられない世界への本番開始であったのだ。

 次の日から、アイツという人格(?)が実体化して夢に現れるようになった。向かい合わせで慶治の目のまえ四、五メートル先にいて、もう金縛りはない。
 そのアイツは、汚れたTシャツと野球帽に半ズボン姿の小学生らしい体格だった。夏の陽でチョコレート色に日焼けしたような皮膚と、野球帽から刈り上げの髪が覗いている。体格のわりに両耳が大きい。ところが耳以外の顔表面は、つきたての餅のように目鼻と口がなかった。まるで野箆坊(のぺらぼう)だ。だから恐怖心は湧かなかったが、感情が読めない苛立ちを伴った。
そのアイツとの接見場所は四角い部屋だが、以前とは違っていた。窓や通路は無く、調度品もない白壁のモダンな洋室内の雰囲気だった。アイツの姿には影がない。慶治自身の(からだ)はと言えば、相変わらず実体が薄くて目ではっきりと見えないし、依然として影がなかった。――アイツは百年間も探していた友人に再会でもしたかのように、妙になれなれしい雰囲気だ。
「おいおい、一体、おまえは」
 話しかけても口がないから終始無言だ。それがうっとうしい。
 何かを伝えたいのだろう雰囲気を感じる。しかし夢の主導権はアイツにあるようで、いつも夢のお見合いは不意に終わる。慶治はその身勝手さも腹立たしい。

 線状降水帯が激しく北日本を襲った日、夢の展開が変わった。いや、解放されたというほうが的確かもしれない。
 彼は行楽客で賑う京都の繁華街にいた。しかも『新京極通り』の上空にいた。なんなく理屈を超え浮いている。これまでの隔離された世界ではなくて、目の前に実際に街そのものが超リアルに存在していた。現実としか思えないとても鮮明でピュアな夢である。
 アイツはいない。
 ごく自然に慶治は三条通りの角から新京極通りを俯瞰する位置に浮上している。しかも視覚位置は制限されないで、彼が意識するとズームアップのように人込みの中まで躰が移動した。
(快い驚きだ)
 やがて二棟に分かれた映画館の前にゆっくり降り立った。通行客には慶治が見えていないようだ――とても愉快な気分である。

 ――が、彼を待っていたのだろうか――。

 目の前を作務衣(さむえ)姿の若い坊さんたちが、十人程の集団で新京極の通りを北から南の方角に向かって必死の形相で駆け抜けて行く。その坊さんの一人が彼の上半身に勢いよく接触した。透き通り実体で存在していないと思っていたが、彼は弾き飛ばされ倒れてしまった。
(新たな驚きだ!)
 その集団はフットボール選手よろしく行楽客を弾き飛ばし、パタパタとサンダルを鳴らし駆け抜けて行く。行楽客から悲鳴が沸きあがり、なかには般若のような形相で泣き出す女性年配者もいた。泣き声は、アーケード内で幾重にも反響し増幅する。どこかで祇園囃子(ぎおんばやし)が流れ、囃し立てるように耳に届いてくる。
 しかし――恐怖はそれからだった。

 群衆のすぐあとに一人の青年が現われたのだ。その青年は二十歳(はたち)前後の男で頬骨の張った四角い顔つきだった。まるで古い無声映画の歌舞伎侍のように、ザンバラ髪を逆立てていた。
『★■▼!』
 血走った目をつり上げ青年は何かを叫ぶ。
 いや叫びと言うより、猛獣の咆哮(ほうこう)と呼ぶのがふさわしい。そう、人間以外の叫び声に聞こえた。その青年の白カッターシャツは、真っ赤な鮮血で濡れていた。握り締めた日本刀からは、粘度の高い赤黒い血がしたたり落ちている。
 どうやら坊さん集団を追ってきたようだが、見失ったのか大きく肩をゆらせて聞こえるほどの呼吸音を繰り返す。まるで飢えたハイエナのように(よだれ)を垂らし、恐怖で動けない人々を見つけては切りつける。醜いかな我先にと逃げ惑う人びとは、他人を押し倒しエゴ丸出しである。

 慶治は思う。
(残酷な狩場(かりば)のような光景。――小杉の言うダンテの地獄界とは目の前にあるこの事であろう。きっと阿鼻叫喚(あびきょうかん)とはこのことか。どうして神々はいとも簡単に、こんな心塞ぐ場所を作り出すのであろう。人間の住む世界が隅々まで美しくあらねばいけないとまでは言わないが、しかしここまで血生臭く醜くなくてもいいのではないか!)
 この時の彼、神や仏に対して憤りさえ抱いてしまった。

――しかし慶治は知っている。いつの頃からだろうか、この世に神や仏が存在しているだろうことを――それは多分一歳違いの弟が亡くなった時からだと思う。

私の小学生の四年生の夏休み。
長屋のような造りの住宅に住んでいて、家と家の間に子供が遊び集える共有家屋があった。人付き合いの苦手な私、幸輝(こうき)(慶治)であったが、弟の慶治(のちに名前が入れ替わる)が大好きで、つねに彼のそばを離れることはなかった。弟に異常レベルの愛情を感じていたし、色白の可愛い『男前』であった。暗い性格の私に対して慶治は明るく天真爛漫な性格だった。父親はそんな慶治が自慢だし賢い子であった。私は勉強嫌いで漫画ばかり読んでいた。
ある日、「まず、皆で夏休みの宿題をやりなさい」との親たちの取り決めで、全員しぶしぶ勉強をしていた。子供十人ほどが正座で座れる長机で、皆しおらしく勉強に励んでいた。いつも親は同席しない自由主義な民間の共同スペースであった。この日は、下は小二から上は中三の男女八人であった。
私、幸輝も初めは真面目に宿題に取り組んでいたが、途中で「頭が痛い」と告げて部屋の片隅で横になっていた。多少の罪悪感はあったが、そんな私を知る皆は何も言わずに決められた時間まで勉強に集中していた。決められた時間は午後四時だった。
ベルが鳴ると皆はいっせいに宿題をやめたが、弟の慶治はやめずに彼の納得の箇所まで続ける気のようだった。そういった点も父親から好かれる要因の一つなのだろう。でも私にやっかみは微塵もない。むしろ誇りの持てる弟だった。エリートコースを外れないでほしいし、一緒に遊んでも欲しい。
ほかの六人はトランプ遊びに興じ、弟は追いやられるように長机の角に座り集中していた。幸輝は好きな漫画本に集中である。――途中から夕立というより凄い雨が降り始めた。皆はそんなことお構いなしだった。やがて騒がしさが増したと思い顔を上げると、ゲームが原因なのか喧嘩まがいのふざけ合いになり、座布団が飛び(はた)き合いになった。この程度のことはたまにある騒動である。

実はこの中に中三のユタカ君がいた。
彼は普段は優しい性格だが少し知能が遅れた子だった。興奮すると見境がなくなる怖さを内にもっていた。――始まりは誰かが遊びへの誘い込みで、弟にちょっかいを出しふざけて背中に覆いかぶさった。すると、次から次へと皆が覆いかぶさった。最後に興奮したユタカが、加減なしで飛び乗った。彼は体格が大きく。たぶん七十キロは下らない重さだったろう。
「ムギュウ」
的確に表現できないが、弟が発したカエルが潰れるような声が今も耳に残っている。
私は声に異常を感じ、信じられない速さで立ち上がると両手でユタカを弾き飛ばし、次々と皆を引き離した。ユタカは思考が働かないのか、大袈裟だろうといった感じでヘラヘラと笑っていた。弟の慶治は、机の角で胸を圧迫したらしく、胸を両手で押さえたまま声を出さずに涙を出していた。もともと我慢強い弟だった。
私の両親は働きに出ていて不在だったので、優菜(ゆな)ちゃん(小六)がお母さんを呼びに走った。優菜ちゃんのお母さんはすぐにやってきた。
「大丈夫? ねえ、慶ちゃん大丈夫?」
弟の背中を擦りながらしばらく繰り返し、「いったい、どうしたの」と私に尋ねてきたが言葉が出なかった。皆からも出なかった。
優菜の母親は「救急車、呼ぼうか?」と慶治に尋ねる。
「ううん……もう、大丈夫」
弟は明るく言った。
もう押さえていた胸から両手を離して、気丈にふるまっている。それが見慣れた弟の笑顔だったので、私は良かったと安堵した。優菜のお母さんも安堵顔だった。

夜に二人で母親に状況報告をした。
母親は驚き慶治の上半身を点検したが、腫れもなく異常も認められなかったので安心顔になったが、念のために病院に行こうかと迷っていたようだ。だが、帰ってきた父親が再点検しても慶治は、痛みは全然ないと答えた。――結局、少しでも痛みが出れば病院に行くという判断になった。打撲などは、たいがい翌日以降に痛みが出るパターンが多いからだ。結局、騒動は知らない間に終息した。

――運命のいたずらは誰にも分からないように訪れるものだ――三学期が始まり、ある日の帰り道、天気予報は外れ大雨になった。二人はずぶ濡れで帰宅。シャワーを浴びて衣服を着替えた。そして両親が帰り、いつもの楽しい夕食を終えたのだった。
なんでもない夜だったが、夜中に慶治はうなされた。隣に寝ていた私が気づき、手で額を触ると高熱だった。それで慌てて両親を起こした。
「風邪のようだな」
父親がそう言ったので、私はずぶ濡れの一件を話した。すると――理由なく叱られた。
翌朝、母親は仕事を休み慶治をかかりつけの病院に連れて行った。母親は夏休みの胸圧迫の件も話したが、院長は単なる風邪だとの所見で、注射と薬が処方された。しかし慶治の熱は下がらず、母親の感であろう、翌朝に自ら車を飛ばして須崎(すさき)の市立病院に慶治を連れ出した。私は車中、氷枕で慶治の頭を冷やしていた。

――次に私が慶治に会ったのは、一ヶ月後で彼は帰らぬ人であった。
のちに聞いた話だが、レントゲンの時点で両肺とも真っ黒だったと言われた。原因は夏の日に受けた肺圧迫によるものだと断定された。鎖骨の一部が肺に刺さっていたとも。それでも一時は快方に向かっていると聞いていたし、一ヶ月もすれば全快だと母は喜び言っていた。
この世に『死』が存在することなど、私は知らなかった。
まして最愛の弟がいなくなるなんて、考えたことなどなかった。――冷たくなって帰ってきた弟、私はなぜか涙は出なかった。ただ理不尽な思いだけ存在した。そっと横たわった弟の布団に手を差し入れ、弟の足に触れた。――この世でもっとも冷たいその感触を今でも覚えている。
父親の悲しみは、私の幸輝の名を慶治に変えることで彼を生かしたのであった。私に依存はなかった。そのことで本当に弟が生まれ変わる気がした。

――ふと過去の思いが流れ去った。圧縮されたデーターのように一瞬だった。慶治はすぐに我に帰った。目の前の新京極に修羅場が存在した――。

 やがて青年は五十メートルほど先から引き返してきた。そしてその血走った眼が慶治を捉えると、狂気の顔に『ニタリ』と笑みを浮かべる。
(えッ、俺が見えるのか!)
 慶治の躰の筋肉が強張(こわば)り鳥肌が立った。同時に心臓が一、二拍分スキップした。突然に『死』という生々しい気配が襲い来る。――例のアイツは、いつの間にか慶治の真横に(たたず)んでいた。なぜか冷静沈着な雰囲気をして。
「おい、おまえ、逃げんと殺されるよ!」
 言った慶治自身も動けない。――緩いコマ送りのように制御された男の刃――それは慶治ではなくアイツの首を目掛けて横なぐりに振りまわされた。
「えッ」
 無防備なアイツの首から上が簡単に飛び跳ねて転がり、その首の切り口からは赤黒い血が『ブッ、ブッ』と音を立てて噴き出る。
「ギャアァァーッ」
 慶治――夢が醒め我にかえる。(ひる)のように張り付いた下着は、永遠に日のあたることのないアマゾン奥地の泥濘(ぬかるみ)のようだった。
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登場人物紹介

生更木慶治《きさらぎけいじ》・四十歳



1990年生まれ2002年12歳に光体験。



ホテル警備夜勤勤務・高知県梼原町の出身。京都上賀茂に住む。坂本龍馬の信奉者右手で右耳の上の髪を掻く癖あり。名字由来は春に向けて草木が更に生えてくるとの意味。名前は小学生で亡くなった弟の忘れ形見(改名)。



極端な猫舌。基本黒Tシャツに上着。ブルージーンズ。夢の世界の宇宙と現世をつなぐ『夢の門番』で主人公。

下弦野登人(かげんのとひと)・四十歳 



エレベーター保守会社夜勤勤務。高知県羽山町出身須崎の工業高校の同級生190㎝の長身猫背。穏やかな性格だが剛毅。真剣に考える際に鉤鼻を親指と人差し指で挟みこする癖。ダンガリーシャツと薄ピンクのジーパン。

九條蓮華(くじょうれんか)・二十八歳 



『北京都病院』と北都大病院勤務の看護師。献身的看護で慶治の恋人となる。京都出身だが実家を離れ紅ハイツに住む。

五十嵐時雨(いがらししぐれ)・三十歳 



下弦野登人の通いの恋人。四条の電気器具販売店勤務。新潟の五泉市出身。色白美人。ぽっちゃり丸顔で色気あり。

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