第17話 大獅子小五郎の憂鬱な記憶と謎――(2)
文字数 4,196文字
翌朝は、――真っ青な空に真っ白な入道雲だった。
白い車の赤いドライバーズシートに乗り込み、大獅子はまずラッキーストライクを口に銜えて火を点けた。そして煙を肺いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐きだした。その儀式を三口ほど繰り返すと、すぐにタバコをもみ消す。
『赤珠』に寄り佐竹との会話は挨拶程度で、珈琲を飲み干すとすぐに店を出た。車を上堀川から北山通りを東に向かって走らせ、白川通りから北に進み、右折して八瀬遊園を目指す。久しぶりの遠出だった。
大原の三千院近くを過ぎるとスマホに電話が掛かってきた。運転時用のイヤホーンのスイッチを入れると勝飛からであった。
『おはよう大獅子さま、……今しがた三千院を過ぎたようですね。クックック、これからはわたくしがサポートしますので、運転はなさらなくても大丈夫です。ただしこの電話は切らないでいて下さい。いいですね』
(なに、云ってんだ?)
バックミラーに映る車がない。どこから見ているのか、なにを企んでいるのかさっぱり理解できない。それが薄気味悪く感じた。
折しも車が急カーブに指しかかったので、大獅子は軽くブレーキを踏み、素早くミッションを一段落としてハンドルをコントロールしょうとしたが、(!)――ステアリングの自由が利かない。彼は反射的にフットブレーキを思い切り踏んだ。
しかしペダルを奥まで踏み込むことができない。太古からそこにいる岩盤のように、いくら踏み込んでもダメだった。故障だろうとハンドルを操作するが、ところがハンドルは自分の意思で動きカーブをやり過ごした。減速なしだ。対向車がなくて幸いだったが、今度はふざけるように左右にローリングする。今どきの自動制御された最先端の車に乗っている気分だ。躰が予想外の車の動きに振り回される。大獅子は心中焦った。
谷は深くはないが左側が崖の道である。クラクションを鳴らす対向車に対して、ポルシェは攻撃的に加速して擦れ違う。ミラーを確認すると、対向車は崖に接触したらしくストップランプが赤かった。
(ありえない!)
『もうお分かりいただけたと思います――ですから、大獅子さまはこの電話に集中していただければ、それでいいのです。クックック』
抑揚の少ない声で電話の勝飛は喋る。いまさら超マジックの種を考えても仕方がない。この先どうすべきなのかが問題である。
(殺す気ならとっくに殺せている、が、彼は明らかにもてあそんでいる)
大獅子は出来る限りゆっくりとタバコを咥え、ゆっくりと火をつけそれを吸った。そして苦々しく揉み消した。そしてあらためて思った。
(俺が奴に見えている? ……まさに悪魔だ)
『それでは運転を大獅子さまにお返し致します』
急に車の制御がとれ、彼は慌ててハンドルにしがみついた。
『これから琵琶湖大橋を目指し、橋の頂上あたりで車を止めて下さい』
遊び飽きた子供のように、そう言い残し電話は切れた。
大獅子は『途中トンネル』を越えてから、今の状況とこれから起ころうとしている事を推理した。勝飛は普通ではない。この人生で何度か出会った殺戮者とも、まったく違う種類の相手だ。
(もしかして公衆の面前で、公開処刑か?)
そうとしか思えない。
しかし大獅子は逃げ出す気持ちを持ち合わせていない。夢で雛鳥の言った『使命』は、その場所にあるのかもとも思った。
琵琶湖大橋の手前の国道をこえると、トイレ休憩で道の駅『びわ湖大橋米プラザ』に寄り道した。平日だというのに道の駅は朝から混んでいた。トイレを済まし自販機のコーヒーを片手に、建物内を通り抜けて湖畔にでた。両足がシビレ不安定だ。
湖からのさわやかな風、背景の美しい山々のロケーションは素晴らしかった。彼はそこから、目の前のアーチ型大橋を望んだ。
(人が通れる側道ありだが、車の停車は禁止だ。奴は車だろうか……)
車で行こうと決めて、自販機のコーヒーを飲み終え車にむかう。
――その大獅子の視線の先に気になる男の姿が目に入った。黒いハンチング帽姿の男がサングラス越しにこちらを見ていた。
大獅子が気付くと視線をそらした。カジュアルな服装でビジネスリュックを背負っている。男はさも偶然であったかのように、プラザの中に消えて行った。気持ちが引っかかったが、『ホテルりょうぜん館』の男と背格好が違う。
(あの勝飛が待っている)
彼は車に乗り込み拳銃を取り出し、点検したのち安全装置を外すとゆっくり橋に向かった。
大橋下り車線橋の長さは一三五〇メートル、中間部は橋桁の下を船舶が航行できるようにアーチ状になっている。だから最高部に向けてゆるやかな傾斜を車は進むことになる。
(ん、どうした!)
最高部の手前で、車のエンジンが前兆なしで止まってしまった。フットブレーキを思い切り踏みこみ、スターターボタンを押すがセルが無反応をきめこんでしまったようだ。
(又しても奴のマジックか? まったく、鬱陶しい)
バックミラーを見ると自分の車だけではない、後続車も同じようだ。
大獅子より前を走っていた車は、そのまま進んで行ってしまう。後続車で年配者だろうか、ブレーキを踏めずに後退し後続車に追突するのがバックミラーに映った。すし詰め連結するように車は停滞していく。
大獅子があらためて前を見ると、八メートルほど先に黒いセダンが一台止まっていた。
やがて、その中から背の高いスーツ姿の男が現れた。
(勝飛だ、化け物め!)
その彼は車道を歩き、こちらを目指してゆっくりと歩み寄ってくる。
大獅子も車を降り、車道の中央で仁王立ちのようにして待つ。
「正直、おまえがここまで来るとは思わなかった。ビビッてね、クククッ」
勝飛はホテルマンらしくない口ぶりで言った。
大獅子は躊躇なく胸ホルダーから拳銃を取り出し、両腕で勝飛に向けた。
「お前は、一体何ものだ。マジシャンか、それとも悪魔か」
未体験の相手に大獅子は戸惑いながらも問いかける。
「クククッ私は、愚かな人類を神のもとへと、送り返す使命ある身」
「……それは、人間ではないという意味か、それとも馬鹿か」
大獅子は相手を煽 る。後部の人びとは動けないのか車の中から見守っているようだ。
「われらは 近々、人類になり変わってこの星を治める」
「馬鹿な! 両手を挙げろ、逮捕する」
大獅子は本気で声を放った。
「バカはお前だ、やれるものならやってごらん、クククッ」
大獅子は銃を勝飛の右太ももに向け躊躇なく放った。
しかし彼の意思に反して訓練された弾は大きく外れ、見当違いの場所で弾けた。
大獅子が驚く暇もなく、目に見えぬ大きな力で躰ごと弾かれ橋の側面に打ち付けられた。
(――即死だ!)
彼は飛ばされた瞬間に観念していた。それほどに強力な力だった。だが想像通りの強打であったが、強い痛みを感じない。その場に座り込む。
(なんだ、これは! 俺はどうなった)
驚きは、まるで他人事のようであった。
勝飛も驚いたようで「お前は何者だ!」そう言いながら、両手をひろげ軽々とポルシェを空中に浮かせると大獅子目掛けて投げ付けた。
(今度こそ、死ぬ!)
意識のすみで覚悟を決めた。そして強く念じていた。【止まれ!】と。
すると不思議が訪れた。
彼に当たる極寸前でポルシェは停止して、――すぐさまフィルムの逆回転のようにして元の位置に着地した。その衝撃で車は大きく弾み揺れている。
(俺は死なない?)
ゆらゆらと大獅子は立ち上がり勝飛を見た。
しばらく勝飛は憮然とした面持ちで大獅子を睨んでいたが、やがて何かに気付き視線を大獅子の後方に移した。
それで大獅子が後方を振り返ると、一人の人物が立っていた。歩道を歩いてきたのかその場に現れたのか認識できないが、それは間違いなく先程に見かけた長身ハンチング帽の男だった。
(もしかして彼はソウル・ジャパン? 赤松が言っていた男の特徴と少し違うが。……これは俺だけのものではなくて、彼のフォローか、それが自然で納得だ。彼の特別な能力は証明済みだ。力を合わせれば勝飛に引けを取らないかも知れない)
いつしか大獅子は、彼らしくなく感動していた。
そのハンチング帽にサングラスの男は、さらに二人の近くまでやってきて立ち止まった。
そして大獅子の負傷の具合を見るようにして、すぐに勝飛に視線を合わせた。
その勝飛は両手のひらをその男に向けて差しだすと、口を動かし呪文めいた何かを念じ始めた。まるで平安時代の陰陽師 、安倍晴明 の祈祷まがいだ。するとハンチング帽の男の動きが封じられたように、大獅子には感じられた。
ハンチング帽の男は、辛うじてその場で両膝をおり両手を胸の前で合わせると、祈るような不思議な姿勢をとった。まるで勝飛を敬うかのような奇妙な動作だった。
すると微妙に勝飛は表情を変え言った。
「お前は、……」しばらく間があった。
「フッ、我らの儀式のあとに会おう」
意味深な言葉のあと、躰を蹂躙したまま空中に浮かせると勢いよく両手で押すそぶり。
その男は弾かれてコンクリート壁に打ち付けられる寸前で、両足から美しく反転しロールオーバーの要領で壁を飛び越え消えた。
大獅子が駆け寄り壁越しに見下ろすと、ソウル・ジャパンらしき男が飛び込んだあたりが波紋を広げていた。しかし浮いてくる気配は全くなかったし、彼が湖底に帰っていったように思えるのだった。
次に大獅子が我に帰ると勝飛はその場を去っていて、素早く黒セダンに乗り込むと急発進で走り去った。
するとそれまで停止していた車の、セルの回る音があちこちで鳴り始めた。
呆然と立ち尽くす大獅子に対して、動き始めた自動車群が警笛を発した。どうやら混乱してはいるものの、その誰もが目の前でおきた事象を理解していないようだ。催促された彼は、横を通り過ぎる車に注意して愛車に飛び乗り移動を始める。
(嗚呼、俺は生きている。この世は恐怖と謎に満ちている。だが一つ理解できたことがある。この世に悪魔はいて、それは人の生き死につきまとうものだと。だが正義の存在もいるようだ。表現が正しいのかはさておいて、根源的な悪魔との闘いこそが、俺の生涯の使命なのかもしれぬ)
車を走らせながら、これまでの人生を重ねて大獅子はそう思った。
熱波はあいかわらずだが、窓を開けると自分に空と空気が干渉して、琵琶湖の風がさわやかに感じられるのだった。
白い車の赤いドライバーズシートに乗り込み、大獅子はまずラッキーストライクを口に銜えて火を点けた。そして煙を肺いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐きだした。その儀式を三口ほど繰り返すと、すぐにタバコをもみ消す。
『赤珠』に寄り佐竹との会話は挨拶程度で、珈琲を飲み干すとすぐに店を出た。車を上堀川から北山通りを東に向かって走らせ、白川通りから北に進み、右折して八瀬遊園を目指す。久しぶりの遠出だった。
大原の三千院近くを過ぎるとスマホに電話が掛かってきた。運転時用のイヤホーンのスイッチを入れると勝飛からであった。
『おはよう大獅子さま、……今しがた三千院を過ぎたようですね。クックック、これからはわたくしがサポートしますので、運転はなさらなくても大丈夫です。ただしこの電話は切らないでいて下さい。いいですね』
(なに、云ってんだ?)
バックミラーに映る車がない。どこから見ているのか、なにを企んでいるのかさっぱり理解できない。それが薄気味悪く感じた。
折しも車が急カーブに指しかかったので、大獅子は軽くブレーキを踏み、素早くミッションを一段落としてハンドルをコントロールしょうとしたが、(!)――ステアリングの自由が利かない。彼は反射的にフットブレーキを思い切り踏んだ。
しかしペダルを奥まで踏み込むことができない。太古からそこにいる岩盤のように、いくら踏み込んでもダメだった。故障だろうとハンドルを操作するが、ところがハンドルは自分の意思で動きカーブをやり過ごした。減速なしだ。対向車がなくて幸いだったが、今度はふざけるように左右にローリングする。今どきの自動制御された最先端の車に乗っている気分だ。躰が予想外の車の動きに振り回される。大獅子は心中焦った。
谷は深くはないが左側が崖の道である。クラクションを鳴らす対向車に対して、ポルシェは攻撃的に加速して擦れ違う。ミラーを確認すると、対向車は崖に接触したらしくストップランプが赤かった。
(ありえない!)
『もうお分かりいただけたと思います――ですから、大獅子さまはこの電話に集中していただければ、それでいいのです。クックック』
抑揚の少ない声で電話の勝飛は喋る。いまさら超マジックの種を考えても仕方がない。この先どうすべきなのかが問題である。
(殺す気ならとっくに殺せている、が、彼は明らかにもてあそんでいる)
大獅子は出来る限りゆっくりとタバコを咥え、ゆっくりと火をつけそれを吸った。そして苦々しく揉み消した。そしてあらためて思った。
(俺が奴に見えている? ……まさに悪魔だ)
『それでは運転を大獅子さまにお返し致します』
急に車の制御がとれ、彼は慌ててハンドルにしがみついた。
『これから琵琶湖大橋を目指し、橋の頂上あたりで車を止めて下さい』
遊び飽きた子供のように、そう言い残し電話は切れた。
大獅子は『途中トンネル』を越えてから、今の状況とこれから起ころうとしている事を推理した。勝飛は普通ではない。この人生で何度か出会った殺戮者とも、まったく違う種類の相手だ。
(もしかして公衆の面前で、公開処刑か?)
そうとしか思えない。
しかし大獅子は逃げ出す気持ちを持ち合わせていない。夢で雛鳥の言った『使命』は、その場所にあるのかもとも思った。
琵琶湖大橋の手前の国道をこえると、トイレ休憩で道の駅『びわ湖大橋米プラザ』に寄り道した。平日だというのに道の駅は朝から混んでいた。トイレを済まし自販機のコーヒーを片手に、建物内を通り抜けて湖畔にでた。両足がシビレ不安定だ。
湖からのさわやかな風、背景の美しい山々のロケーションは素晴らしかった。彼はそこから、目の前のアーチ型大橋を望んだ。
(人が通れる側道ありだが、車の停車は禁止だ。奴は車だろうか……)
車で行こうと決めて、自販機のコーヒーを飲み終え車にむかう。
――その大獅子の視線の先に気になる男の姿が目に入った。黒いハンチング帽姿の男がサングラス越しにこちらを見ていた。
大獅子が気付くと視線をそらした。カジュアルな服装でビジネスリュックを背負っている。男はさも偶然であったかのように、プラザの中に消えて行った。気持ちが引っかかったが、『ホテルりょうぜん館』の男と背格好が違う。
(あの勝飛が待っている)
彼は車に乗り込み拳銃を取り出し、点検したのち安全装置を外すとゆっくり橋に向かった。
大橋下り車線橋の長さは一三五〇メートル、中間部は橋桁の下を船舶が航行できるようにアーチ状になっている。だから最高部に向けてゆるやかな傾斜を車は進むことになる。
(ん、どうした!)
最高部の手前で、車のエンジンが前兆なしで止まってしまった。フットブレーキを思い切り踏みこみ、スターターボタンを押すがセルが無反応をきめこんでしまったようだ。
(又しても奴のマジックか? まったく、鬱陶しい)
バックミラーを見ると自分の車だけではない、後続車も同じようだ。
大獅子より前を走っていた車は、そのまま進んで行ってしまう。後続車で年配者だろうか、ブレーキを踏めずに後退し後続車に追突するのがバックミラーに映った。すし詰め連結するように車は停滞していく。
大獅子があらためて前を見ると、八メートルほど先に黒いセダンが一台止まっていた。
やがて、その中から背の高いスーツ姿の男が現れた。
(勝飛だ、化け物め!)
その彼は車道を歩き、こちらを目指してゆっくりと歩み寄ってくる。
大獅子も車を降り、車道の中央で仁王立ちのようにして待つ。
「正直、おまえがここまで来るとは思わなかった。ビビッてね、クククッ」
勝飛はホテルマンらしくない口ぶりで言った。
大獅子は躊躇なく胸ホルダーから拳銃を取り出し、両腕で勝飛に向けた。
「お前は、一体何ものだ。マジシャンか、それとも悪魔か」
未体験の相手に大獅子は戸惑いながらも問いかける。
「クククッ私は、愚かな人類を神のもとへと、送り返す使命ある身」
「……それは、人間ではないという意味か、それとも馬鹿か」
大獅子は相手を
「
「馬鹿な! 両手を挙げろ、逮捕する」
大獅子は本気で声を放った。
「バカはお前だ、やれるものならやってごらん、クククッ」
大獅子は銃を勝飛の右太ももに向け躊躇なく放った。
しかし彼の意思に反して訓練された弾は大きく外れ、見当違いの場所で弾けた。
大獅子が驚く暇もなく、目に見えぬ大きな力で躰ごと弾かれ橋の側面に打ち付けられた。
(――即死だ!)
彼は飛ばされた瞬間に観念していた。それほどに強力な力だった。だが想像通りの強打であったが、強い痛みを感じない。その場に座り込む。
(なんだ、これは! 俺はどうなった)
驚きは、まるで他人事のようであった。
勝飛も驚いたようで「お前は何者だ!」そう言いながら、両手をひろげ軽々とポルシェを空中に浮かせると大獅子目掛けて投げ付けた。
(今度こそ、死ぬ!)
意識のすみで覚悟を決めた。そして強く念じていた。【止まれ!】と。
すると不思議が訪れた。
彼に当たる極寸前でポルシェは停止して、――すぐさまフィルムの逆回転のようにして元の位置に着地した。その衝撃で車は大きく弾み揺れている。
(俺は死なない?)
ゆらゆらと大獅子は立ち上がり勝飛を見た。
しばらく勝飛は憮然とした面持ちで大獅子を睨んでいたが、やがて何かに気付き視線を大獅子の後方に移した。
それで大獅子が後方を振り返ると、一人の人物が立っていた。歩道を歩いてきたのかその場に現れたのか認識できないが、それは間違いなく先程に見かけた長身ハンチング帽の男だった。
(もしかして彼はソウル・ジャパン? 赤松が言っていた男の特徴と少し違うが。……これは俺だけのものではなくて、彼のフォローか、それが自然で納得だ。彼の特別な能力は証明済みだ。力を合わせれば勝飛に引けを取らないかも知れない)
いつしか大獅子は、彼らしくなく感動していた。
そのハンチング帽にサングラスの男は、さらに二人の近くまでやってきて立ち止まった。
そして大獅子の負傷の具合を見るようにして、すぐに勝飛に視線を合わせた。
その勝飛は両手のひらをその男に向けて差しだすと、口を動かし呪文めいた何かを念じ始めた。まるで平安時代の
ハンチング帽の男は、辛うじてその場で両膝をおり両手を胸の前で合わせると、祈るような不思議な姿勢をとった。まるで勝飛を敬うかのような奇妙な動作だった。
すると微妙に勝飛は表情を変え言った。
「お前は、……」しばらく間があった。
「フッ、我らの儀式のあとに会おう」
意味深な言葉のあと、躰を蹂躙したまま空中に浮かせると勢いよく両手で押すそぶり。
その男は弾かれてコンクリート壁に打ち付けられる寸前で、両足から美しく反転しロールオーバーの要領で壁を飛び越え消えた。
大獅子が駆け寄り壁越しに見下ろすと、ソウル・ジャパンらしき男が飛び込んだあたりが波紋を広げていた。しかし浮いてくる気配は全くなかったし、彼が湖底に帰っていったように思えるのだった。
次に大獅子が我に帰ると勝飛はその場を去っていて、素早く黒セダンに乗り込むと急発進で走り去った。
するとそれまで停止していた車の、セルの回る音があちこちで鳴り始めた。
呆然と立ち尽くす大獅子に対して、動き始めた自動車群が警笛を発した。どうやら混乱してはいるものの、その誰もが目の前でおきた事象を理解していないようだ。催促された彼は、横を通り過ぎる車に注意して愛車に飛び乗り移動を始める。
(嗚呼、俺は生きている。この世は恐怖と謎に満ちている。だが一つ理解できたことがある。この世に悪魔はいて、それは人の生き死につきまとうものだと。だが正義の存在もいるようだ。表現が正しいのかはさておいて、根源的な悪魔との闘いこそが、俺の生涯の使命なのかもしれぬ)
車を走らせながら、これまでの人生を重ねて大獅子はそう思った。
熱波はあいかわらずだが、窓を開けると自分に空と空気が干渉して、琵琶湖の風がさわやかに感じられるのだった。