第5話 赤珠と赤紅ハイツは前世紀もの
文字数 6,539文字
昭和という昔に、京都で小石を投げたら喫茶店に当たると言われた程の時代があったようだ。『純喫茶』や『ジャズ喫茶』という、少しばかりメンタルで心豊かな空間が存在したという。
この喫茶店『赤珠 』は、いかにもその昭和のなごり名であろう。
「ゆっくりとモーニングを食べ、出発をする人が減ったね」
挽きたてのコーヒー豆をサイホンで点てながら、カウンター席の客を相手にマスター佐竹はボヤいた。しゃべりながらもまるで呪いでも掛けるようなそのマスターの箆扱 は軽妙で、豊潤な香りが広すぎない店内にゆっくりと拡散してゆく。
マスターは南国系の黒く濃い頭髪と、それにみあったゲジゲジ眉毛。深い笑い皺の顔の六十七歳である。ストライプ柄の白ワイシャツに黒皮のチョッキ姿それに蝶ネクタイのオーソドックスな昭和スタイルそのものだ。その見た目を裏切らないジャズ大好き人間で、今朝も古い六十年代トリオによる演奏が、小気味よく店内をコーヒーの香りと共に漂っている。
今ではほとんど見掛ることがなく知る人の少ない、前世紀の縦置きオープンリール・デッキ『AKAI』が店のシンボル・アイテムだ。過去にマスター自ら買い揃えたものらしい。手入れがよく、とても古さを感じさせない美品である。そのデッキ構造が醸し出すアナログで重厚な音の新鮮味と存在感、そんなマスターのこだわりが好ましく、いつしか慶治たちはジャズに魅せられた。
「その時代の音楽ソースは、その時代のアイテムで聞くべきだ」
マスターの持論であり、それを頑なに守り続けているようだ。
そのこだわりの音質はデジタルのように押し付けがましくなく、深く想像力を膨らませてくれるように慶治には感じられるのだった。
(疲れた心を、癒してくれる)そう思う。
接客が少ない時など、壁面にはめこんだ数多いレコード・コレクションの中から、マスターお気に入りのLPレコードを選び『VICTOR』のレコードプレーヤーで聞かせてくれる。ジャケットから取り出したレコードを、まずビロード製クリーナーを使い赤ん坊を扱うような手つきで軽くふき取り、プレーヤーの上に載せる。やがてトーンアームが滑らかな動きでレコード盤の縁に移動する。そしてまるで妖精が舞い降りるようにゆっくりと針は降りる。その針先が拾い上げる豊潤で微細な音源は、これも古い『ONKYO』製のパワーアンプで増幅され、カウンター席の両側に設置された重厚な『Pioneer』のスピーカーで生々しく再生されるのだった。
マスター佐竹の好みは、オスカー・ピーターソンとハービーハンコックが多めのようだ。今朝は、バッド・パウエルの『クレオパトラの夢』が流れていた。
慶治は野登人の誘いでこの喫茶店に通うようになった。
もっぱら二人の利用タイムは、早朝七時からのモーニング狙いである。今朝は久しぶりだった。
この店のモーニングはオーソドックなバタートースト、もしくはジャムトーストと固ゆで卵のシンプルなセットである。十時までのモーニングのあとは、これもシンプルなカレーライスとミートスパゲティである。開店した四十年前から変わらないメニューだと時々に訪れる古参の客が言っていた。
二人は今朝も七人掛けのカウンター席に座り、決められた合言葉『モーニング』を注文したのであった。
カウンター席の一番奥には、マスターと同年代に見える品の良い紳士が今日も独り静かに新聞に目を通している。その彼には左眉上から頭部にかけて、直線的な傷跡が認められる。そのせいかいっけん厳めしい顔つきだ。名前も少しばかり厳めしく大獅子小五郎 という。ちょっと古風で個性的な名だけに覚えやすい。川むかいの御薗橋 通りの北裏に、探偵事務所を構えているらしい。
マスターを苦虫でも噛み潰したような渋い男と表現するならば、大獅子はさしずめ悪役がよく似合うチョイ悪 おやじ(死語)といった感じだろうか。二人とも奥さんを五,六年ほど前に癌で亡くしているようだ。どちらも沈黙時の顔と、時々に垣間見せる満面の笑顔とのギャップが大きい。慶治たちはそう思う。
やがて入口のカウベルが鳴って、背広姿の男が入って来た。
角刈りの頭で一重瞼の厳つい四十年配の見慣れない男だ。男はドア入口で立ち止まり店内を見回して、すぐに片手を挙げた大獅子に近づいていく。それで大獅子は立ち上がり、四人掛けのテーブルに移動する。どうやら待ち合わせのようだ。
二人が座るテーブルにマスターはお冷 とメニューを持参する。あとは軽く笑顔の会釈のみで、二人の会話に入ってはいかない。背広姿の来訪者が大獅子とよほど関係性の深い大事な人物だろうと察したのであろう。――そういえば今は探偵業をやっているが、大獅子は元SAT・J のOBメンバーだとマスターから聞いていた。引退して五年以上とのことだった。
若い来訪者は、恐らくその警視庁特殊部隊の元部下なのだろう。――慶治の直感である。大獅子は男から手渡されたファイルを見た後で、小声で言った。
「俺はとっくに引退、そっちは御免だ」
若い男に目を合わすことなく呟く。
「大 さん、そこをなんとか。やっかいなヤマなんで……」
男も無表情な横顔で話す。
(……なんだろう、気になってしかたない)そんな慶治。
やがてカウベルが鳴り、日傘をたたみ二人の若い女性が店に入って来た。
「おお、いらっしゃい。今朝は千客万来だわ。――七夕 のせいかね」
マスターは顔を和ませ満足げに言った。
確かに七夕だが、ここ数年間は雨か曇り空が多い。今朝も酷暑で晴天であるが、天の川は期待などすべきではない。天気予報なんて当たらない時代なのだから。
「どう、いい物件は見つかったかい」
お絞りと冷水を用意しながらマスターが二人に話しかける。
すでに馴染み客のようだ。空きのあるカウンター席に進みながら、二人は大獅子と視線を交わし無言で挨拶をした。若いスーツの男には、視線を注いだだけで自然に外した。
「は―い、七夕の出会いのような、いい物件が見つかりました。名前が町名にミスマッチだけど……ネッ」
ロングヘアの女が愉快そうな顔をして、ショートヘアの女に同意を求めた。そのショートヘアが先にカウンター席に腰かける。そして「そうね」と答えた。
「……それって、もしかしたら『赤紅 ハイツ』だったり、して」
マスターが破顔して二人に問うた。
「ピンポーン。朝露ケ原町の赤紅ハイツ。ここと同じ、絶対ミスマッチ」
「おい、おい言ってくれるねぇ」
笑うマスター。
女二人も大声で快活に笑った。その声は妙にハモった笑いだった。
慶治と野登人は顔を見合わせる。そして賑やかな女たちの顔をあらためて見直した。
「それじゃ、この人たちが、先輩住人だよ」
マスターは慶治たちに顔を捻って紹介した。その遠慮のない紹介に慶治は少し驚いた。だが美人に紹介されて悪い気などしない。
「あ、先輩、よろしくお願いします」
声を揃えて女二人。
その急でためらいのない返事に臆して、慶治たちは無言で頭を下げるのが精いっぱいだった。
「しかし、学生でもない二人が、どうして街中 でなく、こんな地に」
マスターはこの地の古い住人。ここはもともと歴史ある『すぐき』と『賀茂ナス』の生産農家が多い土地柄だった。この店の開店当時には、対岸の西賀茂の地に住宅はほとんどなくて、野菜畑で占められていたらしい。
「それが不思議な夢のお告げなの、それに、素敵な町名に魅かれたの」
二人は顔を見合わせ、またしても愉快げに笑う。
「あんたがお姉さんの美宙 さんだったっけ。そして髪の長い方が美光 さん、見分けがつけやすくていいね」大袈裟にマスター。
それで二人が双子であることを慶治たちは認識した。
「そう、さすがは接客のプロ、覚えていただいて嬉しいわ」
ピンク系で衣装コディネートした、姉の美宙が感嘆の声を上げる。
「うっふん、そう。まだボケちゃあいない」
姉妹は反応していちいち笑う。その圧倒的な快活さが慶治には愉快だった。
「彼女たち、彼氏とかいるの?」
ごく自然に話しかける野登人、女性を扱いなれている。
「失礼ね、七夕に二人。いるわけないでしょ」
茶目っ気で応える美光「素敵な人いたら、紹介してくださいね、姉に」と、両笑窪 で笑う。
「あまり美人過ぎるのも、考えもんだね。俺……仲良くなりたい」
なんと野登人、冗談だろうが積極的だ。
「ん~、いいわよ、彼女いなければ」
「おい、おい、野登人。時雨さん忘れるなよ」
小さい声で慶治、彼女の名を出した。
カウンター内でマスターは笑いながら、大獅子らに視線を送った。するとそれを機と見たのか単なる偶然か、大獅子たちが立ち上がった。どうやらここでは話が終わらないようだ。大獅子が若い男の分もコーヒ・チケット支払を済ますと、二人は店を出て行った。
慶治は気になっていて、大きなガラス窓越しに表の駐車スペースを見る。
入店時に見たレトロな白いポルシェ991カレラが大獅子の持ち物だと知り驚いた。いつも散歩がてらにこの店に来る、そんな大獅子だと認識していた。そう言えばいつもはラフな格好だが、背広姿の彼を見るのは今朝が初めてである。――慶治の知っている大獅子の素性は、その人生のほんの一部分であり、修羅場をいくつも潜り抜け波乱万丈な軌道を歩んできた人々の一人なのだろうと、そう想った。
横並びの姉妹は、野登人相手にスマホを操作しながらよく喋りよく笑う。
慶治はそんな人の話を聞くだけで愉快になれるが、まったく話しかけようとは思わない。それに頭の片隅に、野登人に大事な相談をしなければという思いがある。
やがて慶治たちは、古い時代の西洋花柄装飾が施されたカップのコーヒーを飲み終えると、読み終えた新聞を置いて店を出た。出る間際に帽子着用は必須アイテムだ。当世の男女とも日中に日傘無し帽子無しで歩く人間は、よほどの変わり者ぐらいでほとんどいない。
二人は、御薗橋から上流の西賀茂橋を見当に散策することが多い。
その遊歩道では、完全日焼け防止スタイルにサングラス装着で真っ黒に日焼けしたマラソン・ランナーやジョギングをする人びとが、二人を追い越し走り過ぎて行く。賀茂川遊歩道が犬猫にとってパラダイスの環境であった時代は過去の話。明けやらぬ早朝か太陽の沈む夕暮れ時に移行して久しい。この時間に犬を散歩させる人びともいるにはいるが、犬にも帽子とサングラスである。
「けんど、さっきの二人、可愛い二人やったねえ 」
野登人は慶治に恋人がいないことを知っているから、おそらく魂胆 絡みの言葉だろう。
「……そうかなぁ、……ただのOLじゃあないねえ」
なん呼吸かのあと、慶治はあえてぶっきらぼうに答えた。
「おまん 、興味なさげやけんど 、しっかり観察してるね」
ひやかしと知り慶治は言い返す。
「あほいえ、俺は普通じゃないとゆうただけや」
「確かにこの界隈 では、あんまり見かけん種類じゃねえ」
二人はそれだけ言って、しばらく話は途切れた。
先日の雪景色は自然界の狂言だったようで今日の空はまばゆい。純白の入道雲と太陽の光が競い合い、川沿いの熱気は行き場を失っているようだった。鴨川源流の山奥地がすぐ近くで賀茂川と表記されるこの地は、市内よりも幾分涼しいはずなのだが、水の流れは重くいかにも気 だるく流れる。北国へ帰りそびれた鴨鳥が、何度もひっくり返りお尻を上げ水浴びしている。
やがて慶治は決心を固めて、悪夢の内容を野登人に打ち明けた。
「げッ、おまん、どうしたが」
爪楊枝で歯間を掃除する手を止めて、野登人は慶治をマジマジ見る。二人きりの会話では土佐なまりが多く混じってしまう。自然と湧いて出るから不思議だ。
「いや、だから、気色悪い夢」
うわの空で聞いていたのだろう野登人に、慶治は夢の話を繰り返す。
「ふむ。それって、明晰夢 かもしれんねえ 」
友人のいたってさりげない反応で、慶治は安心のため息をつく。
がっちり体格の野登人、長く顎の出た顔に垂れ目と鉤鼻がうまい具合に収まっている。それに茫漠 とした眼つきだから、愛嬌と安心感のある顔である。
彼は一九〇センチ近くあり少々猫背気味で前かがみになって歩く。慶治は常々その癖を直してやりたいと思っていて、何度か助言したが無理だった。彼は一七五センチの慶治よりも、少しゆっくりした環境で生活しているようだ。吸っている空気の密度が違うようにも思う。
「めいせきむ? なに、それ」
顔をかしげて慶治は尋ねた。
「金縛りにおうて、筋書をおぼえちゅう。医学的には睡眠麻痺というやつや」
無煙タバコを咥えると野登人は言った。
彼は佛教系大学出身で、悪魔や神学にも長けている。フロイトやユングなどの心理学にも堪能でそれらを語らせたら、すぐに夜が明けてしまうほどである。
「げに 、きしょく悪い。どうにかならんか」
「そうやねえ、おまん、ひいとい 賀茂の水で清めたらどうや。カッカッカ」
野登人は健康そうな歯をむきだし、漫画のセリフのように笑った。
「がいな こというなぁ。……どうしたらいい」
ひ弱な子兎 のように慶治は嘆く。
「けんど、おまんの夢に現われる子供については……興味があるなぁ」
ふいに野登人は立ち止まり、
「うむ、逢えるものなら一度度おうてみたい」からかい気味だ。
「ほんまじゃき、なんとかしてくれ、頼む」
冗談にとられ、慶治は顔をしかめて訴えた。
「……しかし、おまんの夢、ちょっとおかしい」
「どんな風にじゃ?」
「ふつう夢ゆうたら、おまんの言う理路整然としたストーリーとは違う。たいてい人は記憶の底の潜在意識で夢を見る。夢の内容はつじつまの合わないのが当りまえで、それがまともな夢じゃ」
「夢に、まともな夢があるがかねえ」
「そう、無意識層からのイメージで夢はなりたっている」
「無意識層?」
「そう、人が経験したことがベースじゃ。その印象が記憶の底から湧き上がって、勝手に膨らみ変化した夢を見る。だから支離滅裂 な内容が普通ぜよ」
野登人は理路整然と語るが、今の慶治には合点がいかない。彼は右手で右耳の上の髪の毛を掻き始めた。気分のおちつかない時の癖だと自分でも理解している。
「もうちょっと、丁寧に説明してくれんかねえ」
もはや哀願の慶治である。
「おまんみたいに、続きもんの夢なんて聞いたことがない。登場人物までが決まッちゅう。まるでNHKの朝ドラじゃねえ」
そう言われ慶治は、
「ほんまじゃ、続いている感じ。……しかし夢じゃ、夢以外のなんでもない」
確信しているしもどかしい。このまま野登人に否定されると精神科に通わねばならない。(俺は狂ってなんかいない)と自覚している。
「……とにかく俺が言うことを意識して、そのアイツとやらに聞いてごらん」
野登人はそう言ったあと、大きく口を開け遠慮のない欠伸をした。無理もない話だとも思う。いくら大親友だといっても逆の立場であれば、自分も疑うだろう。そして精神科を受診させるだろう、きっと。
「何を聴いたらえい」
(ここで引き下がらずに本気で何とかしたい)慶治。
野登人から質問すべき内容を聞き出しそれをメモした。
(この夢、証明はむずかしい。だが――なんとかせねば)
ハイツに帰り着くまでに、自分の部屋で過去に忌まわしい事件がなかったかと考えた。野登人と別れると、家賃を払いがてら老齢で独り暮らしの大家にそれとなく聞いてみようと決めた。
一階入口の部屋に住んでいる今年八十八歳だという大家は、元気で気丈夫である。いつも和服着物姿で、割烹着を身に着け品のいい身なりである。若いころはさぞかし美人だったろうと想像できる。十年ほど前に主人を亡くしていて独り暮らしだという。近くに長男夫婦が住んでいるが、独り暮らしが気楽だとも言っていた。
慶治はつとめて優しく問いかけた。
「築四十年以上になるけど、今までそんなん、言われた事ありまへん。けったいなこと言わんといておくれやす」
小さな躰だが、声は大きく背筋をシャンとしてそう言った。度のきつい蜻蛉メガネの奥にある、いかにも京都人らしい本心を読めない目で一喝されてしまったのだ。
「本当に、ごめんなさい!」
ここは慶治、ひたすら謝るしかなかった。
この喫茶店『
「ゆっくりとモーニングを食べ、出発をする人が減ったね」
挽きたてのコーヒー豆をサイホンで点てながら、カウンター席の客を相手にマスター佐竹はボヤいた。しゃべりながらもまるで呪いでも掛けるようなそのマスターの
マスターは南国系の黒く濃い頭髪と、それにみあったゲジゲジ眉毛。深い笑い皺の顔の六十七歳である。ストライプ柄の白ワイシャツに黒皮のチョッキ姿それに蝶ネクタイのオーソドックスな昭和スタイルそのものだ。その見た目を裏切らないジャズ大好き人間で、今朝も古い六十年代トリオによる演奏が、小気味よく店内をコーヒーの香りと共に漂っている。
今ではほとんど見掛ることがなく知る人の少ない、前世紀の縦置きオープンリール・デッキ『AKAI』が店のシンボル・アイテムだ。過去にマスター自ら買い揃えたものらしい。手入れがよく、とても古さを感じさせない美品である。そのデッキ構造が醸し出すアナログで重厚な音の新鮮味と存在感、そんなマスターのこだわりが好ましく、いつしか慶治たちはジャズに魅せられた。
「その時代の音楽ソースは、その時代のアイテムで聞くべきだ」
マスターの持論であり、それを頑なに守り続けているようだ。
そのこだわりの音質はデジタルのように押し付けがましくなく、深く想像力を膨らませてくれるように慶治には感じられるのだった。
(疲れた心を、癒してくれる)そう思う。
接客が少ない時など、壁面にはめこんだ数多いレコード・コレクションの中から、マスターお気に入りのLPレコードを選び『VICTOR』のレコードプレーヤーで聞かせてくれる。ジャケットから取り出したレコードを、まずビロード製クリーナーを使い赤ん坊を扱うような手つきで軽くふき取り、プレーヤーの上に載せる。やがてトーンアームが滑らかな動きでレコード盤の縁に移動する。そしてまるで妖精が舞い降りるようにゆっくりと針は降りる。その針先が拾い上げる豊潤で微細な音源は、これも古い『ONKYO』製のパワーアンプで増幅され、カウンター席の両側に設置された重厚な『Pioneer』のスピーカーで生々しく再生されるのだった。
マスター佐竹の好みは、オスカー・ピーターソンとハービーハンコックが多めのようだ。今朝は、バッド・パウエルの『クレオパトラの夢』が流れていた。
慶治は野登人の誘いでこの喫茶店に通うようになった。
もっぱら二人の利用タイムは、早朝七時からのモーニング狙いである。今朝は久しぶりだった。
この店のモーニングはオーソドックなバタートースト、もしくはジャムトーストと固ゆで卵のシンプルなセットである。十時までのモーニングのあとは、これもシンプルなカレーライスとミートスパゲティである。開店した四十年前から変わらないメニューだと時々に訪れる古参の客が言っていた。
二人は今朝も七人掛けのカウンター席に座り、決められた合言葉『モーニング』を注文したのであった。
カウンター席の一番奥には、マスターと同年代に見える品の良い紳士が今日も独り静かに新聞に目を通している。その彼には左眉上から頭部にかけて、直線的な傷跡が認められる。そのせいかいっけん厳めしい顔つきだ。名前も少しばかり厳めしく
マスターを苦虫でも噛み潰したような渋い男と表現するならば、大獅子はさしずめ悪役がよく似合うチョイ
やがて入口のカウベルが鳴って、背広姿の男が入って来た。
角刈りの頭で一重瞼の厳つい四十年配の見慣れない男だ。男はドア入口で立ち止まり店内を見回して、すぐに片手を挙げた大獅子に近づいていく。それで大獅子は立ち上がり、四人掛けのテーブルに移動する。どうやら待ち合わせのようだ。
二人が座るテーブルにマスターはお
若い来訪者は、恐らくその警視庁特殊部隊の元部下なのだろう。――慶治の直感である。大獅子は男から手渡されたファイルを見た後で、小声で言った。
「俺はとっくに引退、そっちは御免だ」
若い男に目を合わすことなく呟く。
「
男も無表情な横顔で話す。
(……なんだろう、気になってしかたない)そんな慶治。
やがてカウベルが鳴り、日傘をたたみ二人の若い女性が店に入って来た。
「おお、いらっしゃい。今朝は千客万来だわ。――
マスターは顔を和ませ満足げに言った。
確かに七夕だが、ここ数年間は雨か曇り空が多い。今朝も酷暑で晴天であるが、天の川は期待などすべきではない。天気予報なんて当たらない時代なのだから。
「どう、いい物件は見つかったかい」
お絞りと冷水を用意しながらマスターが二人に話しかける。
すでに馴染み客のようだ。空きのあるカウンター席に進みながら、二人は大獅子と視線を交わし無言で挨拶をした。若いスーツの男には、視線を注いだだけで自然に外した。
「は―い、七夕の出会いのような、いい物件が見つかりました。名前が町名にミスマッチだけど……ネッ」
ロングヘアの女が愉快そうな顔をして、ショートヘアの女に同意を求めた。そのショートヘアが先にカウンター席に腰かける。そして「そうね」と答えた。
「……それって、もしかしたら『
マスターが破顔して二人に問うた。
「ピンポーン。朝露ケ原町の赤紅ハイツ。ここと同じ、絶対ミスマッチ」
「おい、おい言ってくれるねぇ」
笑うマスター。
女二人も大声で快活に笑った。その声は妙にハモった笑いだった。
慶治と野登人は顔を見合わせる。そして賑やかな女たちの顔をあらためて見直した。
「それじゃ、この人たちが、先輩住人だよ」
マスターは慶治たちに顔を捻って紹介した。その遠慮のない紹介に慶治は少し驚いた。だが美人に紹介されて悪い気などしない。
「あ、先輩、よろしくお願いします」
声を揃えて女二人。
その急でためらいのない返事に臆して、慶治たちは無言で頭を下げるのが精いっぱいだった。
「しかし、学生でもない二人が、どうして
マスターはこの地の古い住人。ここはもともと歴史ある『すぐき』と『賀茂ナス』の生産農家が多い土地柄だった。この店の開店当時には、対岸の西賀茂の地に住宅はほとんどなくて、野菜畑で占められていたらしい。
「それが不思議な夢のお告げなの、それに、素敵な町名に魅かれたの」
二人は顔を見合わせ、またしても愉快げに笑う。
「あんたがお姉さんの
それで二人が双子であることを慶治たちは認識した。
「そう、さすがは接客のプロ、覚えていただいて嬉しいわ」
ピンク系で衣装コディネートした、姉の美宙が感嘆の声を上げる。
「うっふん、そう。まだボケちゃあいない」
姉妹は反応していちいち笑う。その圧倒的な快活さが慶治には愉快だった。
「彼女たち、彼氏とかいるの?」
ごく自然に話しかける野登人、女性を扱いなれている。
「失礼ね、七夕に二人。いるわけないでしょ」
茶目っ気で応える美光「素敵な人いたら、紹介してくださいね、姉に」と、両
「あまり美人過ぎるのも、考えもんだね。俺……仲良くなりたい」
なんと野登人、冗談だろうが積極的だ。
「ん~、いいわよ、彼女いなければ」
「おい、おい、野登人。時雨さん忘れるなよ」
小さい声で慶治、彼女の名を出した。
カウンター内でマスターは笑いながら、大獅子らに視線を送った。するとそれを機と見たのか単なる偶然か、大獅子たちが立ち上がった。どうやらここでは話が終わらないようだ。大獅子が若い男の分もコーヒ・チケット支払を済ますと、二人は店を出て行った。
慶治は気になっていて、大きなガラス窓越しに表の駐車スペースを見る。
入店時に見たレトロな白いポルシェ991カレラが大獅子の持ち物だと知り驚いた。いつも散歩がてらにこの店に来る、そんな大獅子だと認識していた。そう言えばいつもはラフな格好だが、背広姿の彼を見るのは今朝が初めてである。――慶治の知っている大獅子の素性は、その人生のほんの一部分であり、修羅場をいくつも潜り抜け波乱万丈な軌道を歩んできた人々の一人なのだろうと、そう想った。
横並びの姉妹は、野登人相手にスマホを操作しながらよく喋りよく笑う。
慶治はそんな人の話を聞くだけで愉快になれるが、まったく話しかけようとは思わない。それに頭の片隅に、野登人に大事な相談をしなければという思いがある。
やがて慶治たちは、古い時代の西洋花柄装飾が施されたカップのコーヒーを飲み終えると、読み終えた新聞を置いて店を出た。出る間際に帽子着用は必須アイテムだ。当世の男女とも日中に日傘無し帽子無しで歩く人間は、よほどの変わり者ぐらいでほとんどいない。
二人は、御薗橋から上流の西賀茂橋を見当に散策することが多い。
その遊歩道では、完全日焼け防止スタイルにサングラス装着で真っ黒に日焼けしたマラソン・ランナーやジョギングをする人びとが、二人を追い越し走り過ぎて行く。賀茂川遊歩道が犬猫にとってパラダイスの環境であった時代は過去の話。明けやらぬ早朝か太陽の沈む夕暮れ時に移行して久しい。この時間に犬を散歩させる人びともいるにはいるが、犬にも帽子とサングラスである。
「けんど、さっきの二人、可愛い二人
野登人は慶治に恋人がいないことを知っているから、おそらく
「……そうかなぁ、……ただのOLじゃあないねえ」
なん呼吸かのあと、慶治はあえてぶっきらぼうに答えた。
「
ひやかしと知り慶治は言い返す。
「あほいえ、俺は普通じゃないとゆうただけや」
「確かにこの
二人はそれだけ言って、しばらく話は途切れた。
先日の雪景色は自然界の狂言だったようで今日の空はまばゆい。純白の入道雲と太陽の光が競い合い、川沿いの熱気は行き場を失っているようだった。鴨川源流の山奥地がすぐ近くで賀茂川と表記されるこの地は、市内よりも幾分涼しいはずなのだが、水の流れは重くいかにも
やがて慶治は決心を固めて、悪夢の内容を野登人に打ち明けた。
「げッ、おまん、どうしたが」
爪楊枝で歯間を掃除する手を止めて、野登人は慶治をマジマジ見る。二人きりの会話では土佐なまりが多く混じってしまう。自然と湧いて出るから不思議だ。
「いや、だから、気色悪い夢」
うわの空で聞いていたのだろう野登人に、慶治は夢の話を繰り返す。
「ふむ。それって、
友人のいたってさりげない反応で、慶治は安心のため息をつく。
がっちり体格の野登人、長く顎の出た顔に垂れ目と鉤鼻がうまい具合に収まっている。それに
彼は一九〇センチ近くあり少々猫背気味で前かがみになって歩く。慶治は常々その癖を直してやりたいと思っていて、何度か助言したが無理だった。彼は一七五センチの慶治よりも、少しゆっくりした環境で生活しているようだ。吸っている空気の密度が違うようにも思う。
「めいせきむ? なに、それ」
顔をかしげて慶治は尋ねた。
「金縛りにおうて、筋書をおぼえちゅう。医学的には睡眠麻痺というやつや」
無煙タバコを咥えると野登人は言った。
彼は佛教系大学出身で、悪魔や神学にも長けている。フロイトやユングなどの心理学にも堪能でそれらを語らせたら、すぐに夜が明けてしまうほどである。
「
「そうやねえ、おまん、
野登人は健康そうな歯をむきだし、漫画のセリフのように笑った。
「
ひ弱な
「けんど、おまんの夢に現われる子供については……興味があるなぁ」
ふいに野登人は立ち止まり、
「うむ、逢えるものなら一度度おうてみたい」からかい気味だ。
「ほんまじゃき、なんとかしてくれ、頼む」
冗談にとられ、慶治は顔をしかめて訴えた。
「……しかし、おまんの夢、ちょっとおかしい」
「どんな風にじゃ?」
「ふつう夢ゆうたら、おまんの言う理路整然としたストーリーとは違う。たいてい人は記憶の底の潜在意識で夢を見る。夢の内容はつじつまの合わないのが当りまえで、それがまともな夢じゃ」
「夢に、まともな夢があるがかねえ」
「そう、無意識層からのイメージで夢はなりたっている」
「無意識層?」
「そう、人が経験したことがベースじゃ。その印象が記憶の底から湧き上がって、勝手に膨らみ変化した夢を見る。だから
野登人は理路整然と語るが、今の慶治には合点がいかない。彼は右手で右耳の上の髪の毛を掻き始めた。気分のおちつかない時の癖だと自分でも理解している。
「もうちょっと、丁寧に説明してくれんかねえ」
もはや哀願の慶治である。
「おまんみたいに、続きもんの夢なんて聞いたことがない。登場人物までが決まッちゅう。まるでNHKの朝ドラじゃねえ」
そう言われ慶治は、
「ほんまじゃ、続いている感じ。……しかし夢じゃ、夢以外のなんでもない」
確信しているしもどかしい。このまま野登人に否定されると精神科に通わねばならない。(俺は狂ってなんかいない)と自覚している。
「……とにかく俺が言うことを意識して、そのアイツとやらに聞いてごらん」
野登人はそう言ったあと、大きく口を開け遠慮のない欠伸をした。無理もない話だとも思う。いくら大親友だといっても逆の立場であれば、自分も疑うだろう。そして精神科を受診させるだろう、きっと。
「何を聴いたらえい」
(ここで引き下がらずに本気で何とかしたい)慶治。
野登人から質問すべき内容を聞き出しそれをメモした。
(この夢、証明はむずかしい。だが――なんとかせねば)
ハイツに帰り着くまでに、自分の部屋で過去に忌まわしい事件がなかったかと考えた。野登人と別れると、家賃を払いがてら老齢で独り暮らしの大家にそれとなく聞いてみようと決めた。
一階入口の部屋に住んでいる今年八十八歳だという大家は、元気で気丈夫である。いつも和服着物姿で、割烹着を身に着け品のいい身なりである。若いころはさぞかし美人だったろうと想像できる。十年ほど前に主人を亡くしていて独り暮らしだという。近くに長男夫婦が住んでいるが、独り暮らしが気楽だとも言っていた。
慶治はつとめて優しく問いかけた。
「築四十年以上になるけど、今までそんなん、言われた事ありまへん。けったいなこと言わんといておくれやす」
小さな躰だが、声は大きく背筋をシャンとしてそう言った。度のきつい蜻蛉メガネの奥にある、いかにも京都人らしい本心を読めない目で一喝されてしまったのだ。
「本当に、ごめんなさい!」
ここは慶治、ひたすら謝るしかなかった。