第14話 その男は神をも恐れぬ血統なり
文字数 10,078文字
(私の人生は特別なのか)
その勝飛哲嗚 の自意識はこの世に生まれ出 でた時から。
普通の人間には残らないものを哲嗚は鮮明に記憶していたのだった。
初乳を飲んだ時点で、すでに彼の意識の中にその『ぬし 』は居座っていた。
それは夢の中――ぬしの躰は朽ちた化石色の殻に覆われていた。殻からはみだし反り返るように伸びたぬしの皮膚は、象のように乾いた黒褐色の深い皺で覆われていた。
幼児哲嗚の五感は、夢の闇ですでに覚醒していたのだ。――その夢のどこかしこに漂う顰蹙 をかうだろう異臭をも感じ取るぐらいに。
大人一人が丸く蹲 ったほどに大きいぬしは『カタツムリ』だった。ねっとり体液をにじみ出し鷹揚 、かつ滑らかに移動する。その闇を探るかのように伸び縮みする触角には、油断ならない眼が光を宿し光っていた。
いつの頃か――哲嗚が言葉を理解した頃。芝居がかったぬしの『お告げ』が密やかに始まった。これは誰もが経験するものだと思ったが、やがてそうではないことを彼は知った。
そのお告げは真意の分からない恐怖だった。
最初は無視を決め込んだが、どこにも逃げ場のない夢の世界である。断ると、全身を八つ裂きにされる痛みを粛々 と味わなければならなかった――哲嗚はこのカタツムリから初めて恐怖という感情を教わったのだ。
『黒猫の首を切り落とすのだ!』最初の『お告げ』内容だった。
「いやだ!」
子ども心だが善悪の判断はついていて、受け入れがたい内容をどこまでも拒み続けた。
目覚めればなぜにか苦痛を忘れさり、恐怖だが優しさを伴ったお告げだと感じていた。
資産家である両親は、夜になると魘 される我が子哲嗚を心配して、母親が添い寝をする習慣はいつまでも続いた。しかしそれは一向に収まる気配を見せない。あらゆる名医を探し治療を試みた。しかしその湯水のごとく支払った金銭は、すべてが虚しい徒労へと換金されるばかりであった。
そのうちきっと悪霊か何かに取り憑かれていると両親は考えた。そこで思いつく限りの神社仏閣を参拝して、祈祷や悪霊祓いを試みた。後に問題化する『キリスト系教会』にも、言われるままに億を超える金額をつぎ込み、高価な壺を買い先祖供養にと献金もおこなった。
そもそも勝飛家に限らず世間は神や仏という宗教に疎 くできている。それに寺や神社を司る 者がよく理解していないのか、それとも神や仏の名を騙 った商 い宗教が多いのか、ご利益は宝くじのようにそうそう現れなかった。
やがて母親は神経を病み、病院通いの日々が続くようになった。
――哲嗚は十一歳頃になると、自分の肉体的成長が同学年の友人と違うことを知る。きっかけは修学旅行の風呂場であった。そのとき自分に陰毛が無いことを指摘された。大人になる証として陰毛が生えることは、父親を見なくても本能的に知っていた。人間には病気もあるし個人差もあると考えたが、その気配はいつまでも訪れなかった。
それに友だちが彼女を作り始めても、彼に異性への欲望は微塵も湧くことなく、陰部は無垢な赤ん坊の肌色のままであった。それで悩んだわけではないが、両親の悲哀が重なり十五歳の誕生日を機に、夢のカタツムリに相談を決意する。『お告げ』との引き換えは覚悟のうえであった。
RPGゲームは娯楽ではある。人間の誰もが生まれ持つ野生の本能、戦闘心を助長するものも含まれる。それに大人さえも気づかない一種の麻薬性がある。哲嗚も夢中だった。知らず精神は恐怖に対して免疫をもっていた。それに恐怖は現実の世の中にあふれかえっている。実際、毎日のように同年代の殺傷事件がニュースになる。
『神戸連続児童殺傷事件』――古い過去には、当時中学三年生の酒鬼薔薇聖斗 を名乗る男子生徒が、九歳から十二歳の小学生五名を襲い残忍な殺傷事件を起こしている。その際、生徒の首を切り落とし校門前に放置した事件である。
(たかが、猫ではないか)
その夜、夢の底からゆっくりとカタツムリは現われた。それは漆黒だが、オーロラがそうであるように、未知からの啓示を受けたカタツムリは発光していた。
【我が息子よ、よく聞くが良い】
哲嗚の脳内に、野太い大音声 が響き渡る。異形のカタツムリから息子と呼ばれ、それを深く認識するまでに随分と時間を要した。やがて彼は、カタツムリを睨みつけ両拳を固く握り締めていた。
【我が息子よ、疑うことなかれ】
再び窘 める言葉が放射され哲嗚を襲う。
【お前は我がドアーム種と、ヒト種をつなぐ『VARIANT (変異体)である』お前は生まれながらに数種の能力をそなえているのだ。そもそも成長リズムがヒト種とは異なるし、ヒト種に比べ約三倍近い寿命。よってお前の成熟期は、ヒト種換算で三十五歳前後である】
「? ……」
【ドアーム種とヒト種の生体染色は、あまりにも違う。だが無に近いが、奇跡の確率での発生理論があった。そんな中でお前が誕生した。ヒト種世界に、お前を含め二名の我が子が誕生した】
――それからしばらくなんの音も、この空間では響かなかった。互いに息をひそめ時間を止めていたのかも知れない。やがて――。
【……わが息子よ、眼 を開け。見えるものが実態とはかぎらない。信じるものが真実とはかぎらない。耳を澄まし内なる声を聞け】
カタツムリの皮膚内面は、赤く黒く濃い色素が律動している。
【お前は自ら知る。自己能力がヒト種と違う真実を。お前には我 の血が色濃く流れている。フフッ、――新しい血族の始まりなるぞ!】
「なにを根拠に。……俺の母親を侮辱するのか」
【……そう、考えれば我は夢界 の住人、お前の母は人間界の住人】
「……」
【お前の母親は夢見る永遠の少女であった。この夢の世界で二人は出会うべくして出会い、恋に堕ちた。我がその強い意志に気づくと、奇跡は突如訪れた】
「……」
【お前の次元の満潮と夢次元の満潮がぴったりと重なるとき、お前の母は自分の肉体とともに夢界に侵入してきたのだ――そして二人は結ばれた。本来お前の母のおこなった奇跡は、彼女の死を意味している。だが凄まじい彼女の執念は、再び人間界への壁を乗り越え帰ったのだ。それは、お前を何としても産むという、純粋な母性の力にほかならない。いや、宿命か】
そのとき哲嗚は、予言のような母の言葉を思い出していた。
「――お前はユメから生まれたのよ。ヒトとは違うの、ヒトとは同じじゃないの」
いつのことであるのか、幼すぎてそれはハッキリしない。だが彼は間違いなくその言葉を母から聞いた。耳元でそっと熱を含み、聞き逃しそうな音量で。
その夜は雷鳴がとどろき渡る、激しい雨の夜であったと記憶に残っている。屋根に打ち付ける雨の音と、暗雲からの怒りに似た雷鳴が続いていた。その雷鳴とともに母の言葉は、幼い日の彼の記憶に強く撃ち込まれた。それが哲嗚の心の奥底に当たると、赤くて緩やかな鮮血をともなった。その夜の布団の中の、温かい母の皮膚感触が艶 めかしく今も残っている。
哲嗚には死を理解する自分がいて、もう恐れは湧かなかった。
【クリーニング屋の金属ハンガーを用意して、黒猫を殺してみせろ】という指令。
(きっと、生きていく上での深い意味があるのだろう)そう思うようにした。
彼は近所の公園に何匹かの野良猫が、老婆に餌付けされていることを知っていた。その中に、確か黒い猫もいたはずだ。
ある夜、ハンガーとパン屑を用意して独り公園に出かけた。
手で触れれば崩れそうな黄ばんだ街路灯、人影の消えた深夜の公園だった。
【お前は自然にできる。迷わず行なえる、それを信じろ】
夢の厳父の声がどこからか聞こえ、その言葉に押されるように彼は少しだけパン屑を地面に置くと、その場に屈み込み時を待った。右手にU字に曲げたハンガーを持って静かにしていると、空気がゆっくりと流れる。
やがてどこからともなく、甘える鳴き声と共に三匹が現われた。その中に小さい黒猫もいた。その三匹は早々に地面のパン屑を食べてしまった。そして『グルルル』と喉を鳴らしながら、パン屑をねだって擦り寄ってくる。一番用心深い黒猫に慎重に的を絞り、哲嗚は左腕をハンガーに通しパン屑で誘導する。
――ついにその時が、甘く緩やかな夜風とともに訪れたのだった――。
パンに夢中の黒猫の首にハンガーを静かにスライドする。彼は針金の閉まる感覚を軽く意識、すると針金は自然に意志を持ち絞まった。音を発することなく休むことなく絞まり続け、黒猫の頭と胴体が切り離されると作業は止まった。
(原始人類の初めての狩猟は、こうだったのだろう)
哲嗚は頭脳の片隅で夢想していた。
(今も世界のどこかで、牛や羊の首を切り落とし、人類は屠畜 を続けているのだ)
あっけなく黒猫は死に果て、あとの二匹は慌ててどこかに逃げた。
哲嗚の目の前にころがるその黒猫の目は、彼を見つめるかのように見開いていた。
その目には、何かとんでもない不思議なものをこの世の最後に目にした、そんな純粋な驚きが残留しているようだった。黒猫は『死』というものの存在すら、生まれてよりこのかた一度も考えたことなどなかったろう。
哲嗚は今でも、一つの命が生から死に到る瞬間のその微妙な感触を憶えている。それは罪悪感などではなく、生きてゆくための手段に繋がるものだと知ったのである。
(これは、俺の持つ過去からの宿命なのか)
実際その夜から、彼は深く熟眠できるようになったのだから――。
その後も厳父であるカタツムリは、不定期に現れ、哲嗚のメンタルを鍛えるかのような指示を行った。もはや不快感などなく、彼はそれを成し遂げるたびに不思議な力と能力が躰に反映されるのに気が付いた。そのうち精神の力を意のままに繰り相手に死を与える術 を身につけていく。証拠も残すことなく、この現実世界にて。
――やがて母親はノイローゼから、錯乱の状態に移行してしまった。
施設に預けられ投薬療法を受けることになった。彼は現世の父とつれだって、何度か面会に訪れた。挙動は落ち着いていたものの二人を見ず、無表情であらぬ方向を見つめたままであった。とても会話などできる状況ではない。
【息子よ、お前が苦しみを抜いて楽にしてあげなさい。我 がお前の母を待ちうけよう】
その言葉に素直に従い、哲嗚は母の呼吸を止めたのであった。ゆっくりと優しく意識を繰って。少しも悲しくないと言えば嘘になるが、哲嗚は夢で待つという厳父を信じていたのだった。
それからの彼は大阪の大学を卒業して、家電販売会社の営業マンとして三十三歳まで勤めた。そんな彼、自ら女体を欲し始めたのはこの頃からである。しかし厳父の指示によって、特殊な能力の乱用は制御されていた。
哲嗚は現世の亡父から、広大な屋敷と財産を受け継いでいた。神戸芦屋の邸宅は、彼の都合に応じて通いの家政婦が面倒を見ていた。彼にとって営業職は、単なる経歴づくりであったのだ。
巷 の女たちは、彼に気付くと自ら媚びて接近してきた。そして彼の躰の魅力に憑 かれ、痴人のように狂喜して果てるのだった。だが彼の感情は、いつも氷のように冷ややであった。その欲望解消には微塵も執着心は存在せず、同じ女を避け決して二度と会うことはなかった。生命と呼ばれるスクリーンに映し出されては消える、ノアールなビデオフィルム程度の感覚だった。
これは遠大な計画に基づく、『予行練習』のようなもの。
勝飛哲嗚が京都の老舗観光ホテル『京都湖畔ホテル』に応募したのは、三十四歳の誕生日から数えて七日目の朝であった。面接して即決採用した熊沢宿泊部門長は、その異例の即決理由を八条総支配人から訊かれた。
彼は不可解な面持ちで話し始める。
「この男はホテル業務の経験歴はありません。ただ営業職歴が長く成績優秀で、社内表彰の常連だったようです。たしかに人当たりが、天分的才能といってもよいくらいに魅力的です。それに生年月日を聞くと、私はその年齢ギャップのある若々しさに眼を疑ってしまった。気が付くと、考える余地もなく即決採用を決めていた。……初めての経験です」
その報告に八条総支配人は少なからず驚いた。
熊沢は京大卒で、ホテル業界を四十年余り渡り歩いてきた男だ。その海千山千を相手にしてきた男の心を、いきなり鷲掴みにした男に対してである。
「それに、まるで水泳選手のような肩幅の男は、幼い頃から不思議な夢を見ると言った。とても信じられないが真面目顔で、その夢に大きなカタツムリが現れる時があると言った。それは日本固有種『ミスジマイマイ』の特徴に似ていて、それを人間大にした大きさだといった。いつしか彼は『神使いのカタツムリ』と呼ぶようになったらしい。だから生活にも困らないとも」
「ふむ」と八条は言い、
「その生活に困らないと言う男が、なぜ当ホテルに応募したのかね」
八条は怪訝な表情で、男の応募動機を訊いた。なんとも合点がいかない。
「彼は、今回も『神使いのカタツムリ』のお告げですと、眉一つ動かさずに答え。ですから、御社は私を採用すべきなのです。そうすれば御社の業績を上げることになります。少なくとも私がいるかぎり……そこまで言ったのです」
八条は声を失い、その自信に満ちた写真付きの履歴書を睨むようにして見た。
勝飛哲嗚が歴史ある『京都河畔ホテル』のホテルマンとなって翌年の誕生日。彼の作戦は開始された。このときの彼は、すでにフロント部署をまかされ課長職であった。
このホテルの常客は、別棟のステーキハウスからホテル内のフロントにかけて流れる幅四メートルほどの人工川と、その庭園の特異な趣 きが好みであった。南北の人口川の流れの全長は八十メートル近くある。ホテル下を流れる『鴨川』と並行した流れだ。
その川はフロント正面から見て、北奥のレストラン中二階に相当する高さから始まっていた。そこから約二十メートル間隔で三段のフロアがフロントまで続いているのだが、川は各フロアに隣接するレストランなど飲食店の前を流れ、ラウンジからフロントへかけて草原の中のせせらぎのように続く。
その深い青の水の流れは、三段に区切られた鴨川の堰 のように流れ落ちている。それはフロントの手前にいたると、落差のある地下のバーやスナックの滝壺に、優雅に流れ落ちるのだった。あくまで人工川ではあるが、四十年の歳月が作り上げた見事な苔のある景観は見る人に、かの奥入瀬の川の流れを連想させた。そこかしこに演出された光がさしこみ、木立や花が絶妙な間隔で植えられている。どこかで小鳥のさえずりのような、インテリジェンスな音楽が微かに流れ消えていく。この地上八階建てのホテルはダブルベッドを主体に二百室あり、ほかに日本趣味で調度した会議室や広間が備わっている。
勝飛は入社して一年ほどで、すでに八条総支配人から全幅の信頼を得ていた。彼は進言している。
「このホテルの場合、客層と品位を変えるべきではない。通常観光客は、他のホテルにまかせておけばよい。外国人客は要人層にしぼるべきだ」と。
実際訪れる観光客は、そのほとんどがリピーターであり、親の代からの裕福な層の客が多かった。それに政府関係者などの外国要人も多く、昔から財界人、映画のトップスターなどが隠れ宿としてこのホテルを利用していた。なかには極秘に愛人と訪れる客も多かった。
それゆえフロントやドアボーイ、ベルガールの教育は徹底されていた。顔なじみの有名人でも同伴者の素性を詮索することなく、むしろ他の客やマスコミからガードする役目をも担っていたのだった。
この頃――神使いのカタツムリは姿を変化 して、勝飛の夢に登場することが多くなっていた。変化は仮の姿であり夢での魂でしかない――勝飛はそう理解している。
ある時、半裸身に白いガウンを羽織って出現した父は、三メートル近い長身の人間の姿であった。まるでアメリカ先住民のような褐色の肌、彫刻のように均整のとれた骨格で、太く力強い首に支えられた頭部には頭髪と眉毛がない。異常に大きな両耳で前頭骨の下、大きく窪んだ眼孔には鋭い鳶色 の瞳が収まっていた。
全身には浮き出た血管のように、呪文に似た赤黒い刺青模様 が認められた。躰に纏った白い衣装は今にも天空を飛翔しそうな軽さに思え、じっさい夢の漆黒を背景にして、哲嗚を見おろす位置に軽々と浮いて漂う。
【わが息子よく聞くがよい。夢 の世界は夢 の世界である。すなわち無であり有 でもある。まず、このことをよくよく理解せよ】
ソクラテスからか伝言めいた大音声は闇で発生し、地震ツナミのように轟いた。
「……」
【頭ではない。心でもない。生まれ持った魂 に訊け】
「魂?」
【そう、見えないものに訊け。眼の前のものに惑わされるな。タマシイは決して無ではない、我が身のことだ。存在して存在していない。それを理解せよ】
「……?」
【真理を知れ。――それに映るものを見よ】
いつの間にか勝飛は、卑弥呼の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡 を手にしていた。それは一点の曇りもなくよく磨かれた金属鏡であった。彼それを自分の顔にかざした、だがそこに映るべき自分はいなかった。どこまでも果てしない、漆黒の闇のみが映っている。
「どういうことだ、これは」
【それで我を映してみよ】
勝飛は金属をあやつり父の姿を鏡に映したが、そこに父の姿を捉えることができなかった。
【眼の前のものを信じてはいけない。そのことは理解したであろう】
「じゃ、おれの眼の前にいるお前は誰だ」
【誰でもない、お前の父だ。夢の世界はお前の世界とは異なる次元。だがこの夢宇宙こそが、お前のいる次元を創り出した根源である。そして堕落した人間どもの魂が、辿り着く場所でもある、死をもって――この先の人類に未来はない。お前も歴史で知ったであろう。非力な人類に自浄能力など存在しないことを、そして破壊を。この先は我らドアームによって、しかも新生バリアントの力によって人類を救済するのだ】
「……」
【我は夢宇宙、『ムウ』を本地とする誇り高きドアーム種である。我こそヒト種の夢を管理する立場にある。実名は『オーム・アカンターレ』。お前の父であるまえに数十億の同胞を率いる長 である。わが息子よ、我らドアームは今や無を脱し、現世次元で不死の存在であろうと思う。その鍵を握っている者こそ――お前なのだ】
そのあと厳父は、勝飛がこれから行わなければならない幾つかの課題を告げたあと、後ろ向きに飛翔して闇に同化するようにして消えた。
すでに勝飛はこれまでの訓練と、魂のもつ資質でそれを知り実行していた。外国高官や政府要人を『睡眠誘導』して、『潜在意識』に強くマインドコントロールを与えるのである。それは自国に帰り行うべき、現人類破壊のための実行指令であった。
しかし、人生は暗号パズルの組み合わせのようにできている。
思いの裏腹はつきものかも知れない。人の出会いの持つ意味合いで、人の人生は大きく変動するもののようだ。それに運や不運もまた絡んでいるようで、成功、挫折、喜び、悲しみ、笑いと涙とうとう――いわゆる喜怒哀楽と呼ばれるもの。挙げればきりがないほどの感情変化が、人生に無限のパズル合わせで存在している。それら全ては偶然なのか必然なのか、人の頭脳では解明されないから厄介な問題なのである。仏と神とそれに悪魔、それぞれは悟り――抽象的だが――その境地を持ち合わせているのであろうか。人間と悪魔の間に生まれた人獣 たる勝飛哲嗚も、そのやっかいなパズルの一枚であると自分を意識している。
――ホテルは究極のサービス業である。
客が玄関口に到着した瞬間から優秀な執事として、満足な空間と贅沢な食事と時間を与えなければいけない。期待する食事メニューや、欲望、失意、疲れ、それらすべてを引き連れ来館しても、夢から目覚めるまでに全てクリーニングして、真っ白で清潔なシーツにくるみ笑顔で送り出す。そこにどんな小さなシミも許されない。
そのうえホテルマン勝飛は、絶対的な厳父から言いつかった『特別な任務』を果たさなければならない。任務遂行ゆえの慢性的な睡眠不足の日々だが、躰は充実感で満ちていた。
ふり返れば三十五歳を越えた頃から勝飛の肉体は大きく変化を始めた。容貌は二十代の頃から緩やかでしか変化していないが、その肌艶や眼光は深く熟成して香り立っている。その香りはかって人類の雄が、これに似た香りをもつ時代があった。だが何千年も前に失われてしまったものである。しかも厳密には、その勝飛の放つ香りは人間の雄のものとも違っていた。その媚薬の原液に近い香りは、限られた雌にしか判らない。それは勝飛の遺伝的素性が直接作用し体内でつくられ、彼が捕らえた眼光の先の獲物に対して満遍なく降り注がれる。
連れの男がチェックインをする際に離れて待つ女は、勝飛の眼に惹かれると、自ら眼をそむけることができずに放心状態に襲われる女もいた。そして恋人や妻や愛人は無意識の領域で、彼に対する性欲とともに生殖の欲求をもってしまう。
彼はそんな女たちの中から慎重に排卵の匂いを嗅ぎだし、健康で利発な相手を選ぶのだった。
女が独りであれば、あらかじめ用意しておいたメモをルームキーとともに手渡した。
『深夜にサービスで、美味しいお水をお届けします』
受け取った女は零時前のシンデレラの妄想をいだき、ドアの開く瞬間を夢みる少女になり果てる。
二人連れの場合は相手の男が資産家であるか、政治家やある種の利権をもつ人物であるのか充分に吟味して掛かる。決めると意識を繰り、大胆にもベッドの中の男女もろとも催眠状態にして犯すのであった。
どのケースでも勝飛は、女を確実に妊娠させなければいけない。今の勝飛は相手の女が失神するほどの勢いで、子宮の最深部に多量の精液を放つことができた。その女たちは確実に妊娠してしまう。女たちは勝飛に泣きつくことはなかった。なぜなら彼との一度の交わりでいきつめたあと、失神して前後の記憶をすっかりなくしてしまうからだった。
それは馬小屋で懐妊したという、そう聖人の母のように。そして夫婦は、自分たちの予定外の子供だと信じて疑わずに育てるのだった。
また独身の女は、知ってしまった躰の深部に記憶された欲望に突き動かされて、自ら多くの男を求めるのであった。そしててっきりその中の男の子供だと信じきって、子供を産み育てるのである。まるで自然界の、不可思議なホトトギスの托卵 のように。
そんな日常を過ごす勝飛に、ある日――異変が訪れた。
ホテルの東側は鴨川に接していて遊歩道があるのだが、彼は時として館外巡回の折にその遊歩道を歩く中から女を物色することがあった。これは決められた無機質な日常の中での、気分転換であり楽しい狩猟ゲームでもある。
三日月の夕暮れ、鴨川からの涼風に身を委ね、ふと すれ違った女。
その毅然とした歩み。まるで女は砂漠の中の神秘なオアシスのように感じられた。黒い瞳は勝飛の乾いた瞳をすり抜け、心にまで沁み通る水色の潤いを持ち合わせていた。
黒猫や、人の死に逝く時にも抱かなかった未知への衝撃と恐怖を、勝飛は全身に受けていた。彼はまったく理解不能に陥り、知らないどこかに潜んでいのだろうその感受性に戸惑った。
単に容姿端麗のみでない女。幾多の情欲に惹かれたこれまでの女ではなかった。運命と言う暗号の先に見つけた、偶然をも飛び越えた心の高まりであった。彼は燃え立つ熱を孕んだ『純粋な求愛』に初めて目覚め、『純粋な欲望』が躰の芯に湧きだすのを知った。
だが彼はなぜか声を掛けられないし、心を操ることさえためらった。声をかければ、この世から完全に消えてしまいそうだ――葛藤は数週間続いた。
(これは母親から受け継いだDNAの企みであろうか。厳父に対し母は『恋心』と呼んだ記憶。その恋心のもつ意味が分からない)
この感情の由縁を厳父は知っているのであろうかと思い、ある夜に勝飛はそれを打ち明けた。かえってきたのは、意外な答えだった。
【うむ、そうか。そうだったのか。……その女が、タマシイの受け皿である子を産むのだろう。我がタマシイを。その子の成長が……そう、十四歳に至るまで会うことはならぬ。また、決してその女に未練など持つことはならぬ。持てば己の破壊につながると知れ!】
勝飛はその厳命から逸脱できる身ではない。
厳父への反抗心は、いきり立つ獣性本能からの性欲に任せて、ただ女を犯し冷淡な感情のままに目的をこなすのだった。そこには優しさもなければ、愛も必要ではなかった。
だがその一人の不可思議な彼女に対し、計画から逸脱した愛 おしさを、容易に消せないでいた。(この世で俺に恋心? 混乱の感情を抱かせた、きっと最初で最後の女に違いない。はたしてこの感情は、母からの呪いなのか。理解できない……)
戸惑う心の底で、彼は自分の魂の由来そのものを考えあぐねて過ごすのだった。
そしてついに、ある夜、心を定めた。
その
普通の人間には残らないものを哲嗚は鮮明に記憶していたのだった。
初乳を飲んだ時点で、すでに彼の意識の中にその『
それは夢の中――ぬしの躰は朽ちた化石色の殻に覆われていた。殻からはみだし反り返るように伸びたぬしの皮膚は、象のように乾いた黒褐色の深い皺で覆われていた。
幼児哲嗚の五感は、夢の闇ですでに覚醒していたのだ。――その夢のどこかしこに漂う
大人一人が丸く
いつの頃か――哲嗚が言葉を理解した頃。芝居がかったぬしの『お告げ』が密やかに始まった。これは誰もが経験するものだと思ったが、やがてそうではないことを彼は知った。
そのお告げは真意の分からない恐怖だった。
最初は無視を決め込んだが、どこにも逃げ場のない夢の世界である。断ると、全身を八つ裂きにされる痛みを
『黒猫の首を切り落とすのだ!』最初の『お告げ』内容だった。
「いやだ!」
子ども心だが善悪の判断はついていて、受け入れがたい内容をどこまでも拒み続けた。
目覚めればなぜにか苦痛を忘れさり、恐怖だが優しさを伴ったお告げだと感じていた。
資産家である両親は、夜になると
そのうちきっと悪霊か何かに取り憑かれていると両親は考えた。そこで思いつく限りの神社仏閣を参拝して、祈祷や悪霊祓いを試みた。後に問題化する『キリスト系教会』にも、言われるままに億を超える金額をつぎ込み、高価な壺を買い先祖供養にと献金もおこなった。
そもそも勝飛家に限らず世間は神や仏という宗教に
やがて母親は神経を病み、病院通いの日々が続くようになった。
――哲嗚は十一歳頃になると、自分の肉体的成長が同学年の友人と違うことを知る。きっかけは修学旅行の風呂場であった。そのとき自分に陰毛が無いことを指摘された。大人になる証として陰毛が生えることは、父親を見なくても本能的に知っていた。人間には病気もあるし個人差もあると考えたが、その気配はいつまでも訪れなかった。
それに友だちが彼女を作り始めても、彼に異性への欲望は微塵も湧くことなく、陰部は無垢な赤ん坊の肌色のままであった。それで悩んだわけではないが、両親の悲哀が重なり十五歳の誕生日を機に、夢のカタツムリに相談を決意する。『お告げ』との引き換えは覚悟のうえであった。
RPGゲームは娯楽ではある。人間の誰もが生まれ持つ野生の本能、戦闘心を助長するものも含まれる。それに大人さえも気づかない一種の麻薬性がある。哲嗚も夢中だった。知らず精神は恐怖に対して免疫をもっていた。それに恐怖は現実の世の中にあふれかえっている。実際、毎日のように同年代の殺傷事件がニュースになる。
『神戸連続児童殺傷事件』――古い過去には、当時中学三年生の
(たかが、猫ではないか)
その夜、夢の底からゆっくりとカタツムリは現われた。それは漆黒だが、オーロラがそうであるように、未知からの啓示を受けたカタツムリは発光していた。
【我が息子よ、よく聞くが良い】
哲嗚の脳内に、野太い
【我が息子よ、疑うことなかれ】
再び
【お前は我がドアーム種と、ヒト種をつなぐ『
「? ……」
【ドアーム種とヒト種の生体染色は、あまりにも違う。だが無に近いが、奇跡の確率での発生理論があった。そんな中でお前が誕生した。ヒト種世界に、お前を含め二名の我が子が誕生した】
――それからしばらくなんの音も、この空間では響かなかった。互いに息をひそめ時間を止めていたのかも知れない。やがて――。
【……わが息子よ、
カタツムリの皮膚内面は、赤く黒く濃い色素が律動している。
【お前は自ら知る。自己能力がヒト種と違う真実を。お前には
「なにを根拠に。……俺の母親を侮辱するのか」
【……そう、考えれば我は
「……」
【お前の母親は夢見る永遠の少女であった。この夢の世界で二人は出会うべくして出会い、恋に堕ちた。我がその強い意志に気づくと、奇跡は突如訪れた】
「……」
【お前の次元の満潮と夢次元の満潮がぴったりと重なるとき、お前の母は自分の肉体とともに夢界に侵入してきたのだ――そして二人は結ばれた。本来お前の母のおこなった奇跡は、彼女の死を意味している。だが凄まじい彼女の執念は、再び人間界への壁を乗り越え帰ったのだ。それは、お前を何としても産むという、純粋な母性の力にほかならない。いや、宿命か】
そのとき哲嗚は、予言のような母の言葉を思い出していた。
「――お前はユメから生まれたのよ。ヒトとは違うの、ヒトとは同じじゃないの」
いつのことであるのか、幼すぎてそれはハッキリしない。だが彼は間違いなくその言葉を母から聞いた。耳元でそっと熱を含み、聞き逃しそうな音量で。
その夜は雷鳴がとどろき渡る、激しい雨の夜であったと記憶に残っている。屋根に打ち付ける雨の音と、暗雲からの怒りに似た雷鳴が続いていた。その雷鳴とともに母の言葉は、幼い日の彼の記憶に強く撃ち込まれた。それが哲嗚の心の奥底に当たると、赤くて緩やかな鮮血をともなった。その夜の布団の中の、温かい母の皮膚感触が
哲嗚には死を理解する自分がいて、もう恐れは湧かなかった。
【クリーニング屋の金属ハンガーを用意して、黒猫を殺してみせろ】という指令。
(きっと、生きていく上での深い意味があるのだろう)そう思うようにした。
彼は近所の公園に何匹かの野良猫が、老婆に餌付けされていることを知っていた。その中に、確か黒い猫もいたはずだ。
ある夜、ハンガーとパン屑を用意して独り公園に出かけた。
手で触れれば崩れそうな黄ばんだ街路灯、人影の消えた深夜の公園だった。
【お前は自然にできる。迷わず行なえる、それを信じろ】
夢の厳父の声がどこからか聞こえ、その言葉に押されるように彼は少しだけパン屑を地面に置くと、その場に屈み込み時を待った。右手にU字に曲げたハンガーを持って静かにしていると、空気がゆっくりと流れる。
やがてどこからともなく、甘える鳴き声と共に三匹が現われた。その中に小さい黒猫もいた。その三匹は早々に地面のパン屑を食べてしまった。そして『グルルル』と喉を鳴らしながら、パン屑をねだって擦り寄ってくる。一番用心深い黒猫に慎重に的を絞り、哲嗚は左腕をハンガーに通しパン屑で誘導する。
――ついにその時が、甘く緩やかな夜風とともに訪れたのだった――。
パンに夢中の黒猫の首にハンガーを静かにスライドする。彼は針金の閉まる感覚を軽く意識、すると針金は自然に意志を持ち絞まった。音を発することなく休むことなく絞まり続け、黒猫の頭と胴体が切り離されると作業は止まった。
(原始人類の初めての狩猟は、こうだったのだろう)
哲嗚は頭脳の片隅で夢想していた。
(今も世界のどこかで、牛や羊の首を切り落とし、人類は
あっけなく黒猫は死に果て、あとの二匹は慌ててどこかに逃げた。
哲嗚の目の前にころがるその黒猫の目は、彼を見つめるかのように見開いていた。
その目には、何かとんでもない不思議なものをこの世の最後に目にした、そんな純粋な驚きが残留しているようだった。黒猫は『死』というものの存在すら、生まれてよりこのかた一度も考えたことなどなかったろう。
哲嗚は今でも、一つの命が生から死に到る瞬間のその微妙な感触を憶えている。それは罪悪感などではなく、生きてゆくための手段に繋がるものだと知ったのである。
(これは、俺の持つ過去からの宿命なのか)
実際その夜から、彼は深く熟眠できるようになったのだから――。
その後も厳父であるカタツムリは、不定期に現れ、哲嗚のメンタルを鍛えるかのような指示を行った。もはや不快感などなく、彼はそれを成し遂げるたびに不思議な力と能力が躰に反映されるのに気が付いた。そのうち精神の力を意のままに繰り相手に死を与える
――やがて母親はノイローゼから、錯乱の状態に移行してしまった。
施設に預けられ投薬療法を受けることになった。彼は現世の父とつれだって、何度か面会に訪れた。挙動は落ち着いていたものの二人を見ず、無表情であらぬ方向を見つめたままであった。とても会話などできる状況ではない。
【息子よ、お前が苦しみを抜いて楽にしてあげなさい。
その言葉に素直に従い、哲嗚は母の呼吸を止めたのであった。ゆっくりと優しく意識を繰って。少しも悲しくないと言えば嘘になるが、哲嗚は夢で待つという厳父を信じていたのだった。
それからの彼は大阪の大学を卒業して、家電販売会社の営業マンとして三十三歳まで勤めた。そんな彼、自ら女体を欲し始めたのはこの頃からである。しかし厳父の指示によって、特殊な能力の乱用は制御されていた。
哲嗚は現世の亡父から、広大な屋敷と財産を受け継いでいた。神戸芦屋の邸宅は、彼の都合に応じて通いの家政婦が面倒を見ていた。彼にとって営業職は、単なる経歴づくりであったのだ。
これは遠大な計画に基づく、『予行練習』のようなもの。
勝飛哲嗚が京都の老舗観光ホテル『京都湖畔ホテル』に応募したのは、三十四歳の誕生日から数えて七日目の朝であった。面接して即決採用した熊沢宿泊部門長は、その異例の即決理由を八条総支配人から訊かれた。
彼は不可解な面持ちで話し始める。
「この男はホテル業務の経験歴はありません。ただ営業職歴が長く成績優秀で、社内表彰の常連だったようです。たしかに人当たりが、天分的才能といってもよいくらいに魅力的です。それに生年月日を聞くと、私はその年齢ギャップのある若々しさに眼を疑ってしまった。気が付くと、考える余地もなく即決採用を決めていた。……初めての経験です」
その報告に八条総支配人は少なからず驚いた。
熊沢は京大卒で、ホテル業界を四十年余り渡り歩いてきた男だ。その海千山千を相手にしてきた男の心を、いきなり鷲掴みにした男に対してである。
「それに、まるで水泳選手のような肩幅の男は、幼い頃から不思議な夢を見ると言った。とても信じられないが真面目顔で、その夢に大きなカタツムリが現れる時があると言った。それは日本固有種『ミスジマイマイ』の特徴に似ていて、それを人間大にした大きさだといった。いつしか彼は『神使いのカタツムリ』と呼ぶようになったらしい。だから生活にも困らないとも」
「ふむ」と八条は言い、
「その生活に困らないと言う男が、なぜ当ホテルに応募したのかね」
八条は怪訝な表情で、男の応募動機を訊いた。なんとも合点がいかない。
「彼は、今回も『神使いのカタツムリ』のお告げですと、眉一つ動かさずに答え。ですから、御社は私を採用すべきなのです。そうすれば御社の業績を上げることになります。少なくとも私がいるかぎり……そこまで言ったのです」
八条は声を失い、その自信に満ちた写真付きの履歴書を睨むようにして見た。
勝飛哲嗚が歴史ある『京都河畔ホテル』のホテルマンとなって翌年の誕生日。彼の作戦は開始された。このときの彼は、すでにフロント部署をまかされ課長職であった。
このホテルの常客は、別棟のステーキハウスからホテル内のフロントにかけて流れる幅四メートルほどの人工川と、その庭園の特異な
その川はフロント正面から見て、北奥のレストラン中二階に相当する高さから始まっていた。そこから約二十メートル間隔で三段のフロアがフロントまで続いているのだが、川は各フロアに隣接するレストランなど飲食店の前を流れ、ラウンジからフロントへかけて草原の中のせせらぎのように続く。
その深い青の水の流れは、三段に区切られた鴨川の
勝飛は入社して一年ほどで、すでに八条総支配人から全幅の信頼を得ていた。彼は進言している。
「このホテルの場合、客層と品位を変えるべきではない。通常観光客は、他のホテルにまかせておけばよい。外国人客は要人層にしぼるべきだ」と。
実際訪れる観光客は、そのほとんどがリピーターであり、親の代からの裕福な層の客が多かった。それに政府関係者などの外国要人も多く、昔から財界人、映画のトップスターなどが隠れ宿としてこのホテルを利用していた。なかには極秘に愛人と訪れる客も多かった。
それゆえフロントやドアボーイ、ベルガールの教育は徹底されていた。顔なじみの有名人でも同伴者の素性を詮索することなく、むしろ他の客やマスコミからガードする役目をも担っていたのだった。
この頃――神使いのカタツムリは姿を
ある時、半裸身に白いガウンを羽織って出現した父は、三メートル近い長身の人間の姿であった。まるでアメリカ先住民のような褐色の肌、彫刻のように均整のとれた骨格で、太く力強い首に支えられた頭部には頭髪と眉毛がない。異常に大きな両耳で前頭骨の下、大きく窪んだ眼孔には鋭い
全身には浮き出た血管のように、呪文に似た赤黒い
【わが息子よく聞くがよい。
ソクラテスからか伝言めいた大音声は闇で発生し、地震ツナミのように轟いた。
「……」
【頭ではない。心でもない。生まれ持った
「魂?」
【そう、見えないものに訊け。眼の前のものに惑わされるな。タマシイは決して無ではない、我が身のことだ。存在して存在していない。それを理解せよ】
「……?」
【真理を知れ。――それに映るものを見よ】
いつの間にか勝飛は、卑弥呼の鏡ともいわれる
「どういうことだ、これは」
【それで我を映してみよ】
勝飛は金属をあやつり父の姿を鏡に映したが、そこに父の姿を捉えることができなかった。
【眼の前のものを信じてはいけない。そのことは理解したであろう】
「じゃ、おれの眼の前にいるお前は誰だ」
【誰でもない、お前の父だ。夢の世界はお前の世界とは異なる次元。だがこの夢宇宙こそが、お前のいる次元を創り出した根源である。そして堕落した人間どもの魂が、辿り着く場所でもある、死をもって――この先の人類に未来はない。お前も歴史で知ったであろう。非力な人類に自浄能力など存在しないことを、そして破壊を。この先は我らドアームによって、しかも新生バリアントの力によって人類を救済するのだ】
「……」
【我は夢宇宙、『ムウ』を本地とする誇り高きドアーム種である。我こそヒト種の夢を管理する立場にある。実名は『オーム・アカンターレ』。お前の父であるまえに数十億の同胞を率いる
そのあと厳父は、勝飛がこれから行わなければならない幾つかの課題を告げたあと、後ろ向きに飛翔して闇に同化するようにして消えた。
すでに勝飛はこれまでの訓練と、魂のもつ資質でそれを知り実行していた。外国高官や政府要人を『睡眠誘導』して、『潜在意識』に強くマインドコントロールを与えるのである。それは自国に帰り行うべき、現人類破壊のための実行指令であった。
しかし、人生は暗号パズルの組み合わせのようにできている。
思いの裏腹はつきものかも知れない。人の出会いの持つ意味合いで、人の人生は大きく変動するもののようだ。それに運や不運もまた絡んでいるようで、成功、挫折、喜び、悲しみ、笑いと涙とうとう――いわゆる喜怒哀楽と呼ばれるもの。挙げればきりがないほどの感情変化が、人生に無限のパズル合わせで存在している。それら全ては偶然なのか必然なのか、人の頭脳では解明されないから厄介な問題なのである。仏と神とそれに悪魔、それぞれは悟り――抽象的だが――その境地を持ち合わせているのであろうか。人間と悪魔の間に生まれた
――ホテルは究極のサービス業である。
客が玄関口に到着した瞬間から優秀な執事として、満足な空間と贅沢な食事と時間を与えなければいけない。期待する食事メニューや、欲望、失意、疲れ、それらすべてを引き連れ来館しても、夢から目覚めるまでに全てクリーニングして、真っ白で清潔なシーツにくるみ笑顔で送り出す。そこにどんな小さなシミも許されない。
そのうえホテルマン勝飛は、絶対的な厳父から言いつかった『特別な任務』を果たさなければならない。任務遂行ゆえの慢性的な睡眠不足の日々だが、躰は充実感で満ちていた。
ふり返れば三十五歳を越えた頃から勝飛の肉体は大きく変化を始めた。容貌は二十代の頃から緩やかでしか変化していないが、その肌艶や眼光は深く熟成して香り立っている。その香りはかって人類の雄が、これに似た香りをもつ時代があった。だが何千年も前に失われてしまったものである。しかも厳密には、その勝飛の放つ香りは人間の雄のものとも違っていた。その媚薬の原液に近い香りは、限られた雌にしか判らない。それは勝飛の遺伝的素性が直接作用し体内でつくられ、彼が捕らえた眼光の先の獲物に対して満遍なく降り注がれる。
連れの男がチェックインをする際に離れて待つ女は、勝飛の眼に惹かれると、自ら眼をそむけることができずに放心状態に襲われる女もいた。そして恋人や妻や愛人は無意識の領域で、彼に対する性欲とともに生殖の欲求をもってしまう。
彼はそんな女たちの中から慎重に排卵の匂いを嗅ぎだし、健康で利発な相手を選ぶのだった。
女が独りであれば、あらかじめ用意しておいたメモをルームキーとともに手渡した。
『深夜にサービスで、美味しいお水をお届けします』
受け取った女は零時前のシンデレラの妄想をいだき、ドアの開く瞬間を夢みる少女になり果てる。
二人連れの場合は相手の男が資産家であるか、政治家やある種の利権をもつ人物であるのか充分に吟味して掛かる。決めると意識を繰り、大胆にもベッドの中の男女もろとも催眠状態にして犯すのであった。
どのケースでも勝飛は、女を確実に妊娠させなければいけない。今の勝飛は相手の女が失神するほどの勢いで、子宮の最深部に多量の精液を放つことができた。その女たちは確実に妊娠してしまう。女たちは勝飛に泣きつくことはなかった。なぜなら彼との一度の交わりでいきつめたあと、失神して前後の記憶をすっかりなくしてしまうからだった。
それは馬小屋で懐妊したという、そう聖人の母のように。そして夫婦は、自分たちの予定外の子供だと信じて疑わずに育てるのだった。
また独身の女は、知ってしまった躰の深部に記憶された欲望に突き動かされて、自ら多くの男を求めるのであった。そしててっきりその中の男の子供だと信じきって、子供を産み育てるのである。まるで自然界の、不可思議なホトトギスの
そんな日常を過ごす勝飛に、ある日――異変が訪れた。
ホテルの東側は鴨川に接していて遊歩道があるのだが、彼は時として館外巡回の折にその遊歩道を歩く中から女を物色することがあった。これは決められた無機質な日常の中での、気分転換であり楽しい狩猟ゲームでもある。
三日月の夕暮れ、鴨川からの涼風に身を委ね、
その毅然とした歩み。まるで女は砂漠の中の神秘なオアシスのように感じられた。黒い瞳は勝飛の乾いた瞳をすり抜け、心にまで沁み通る水色の潤いを持ち合わせていた。
黒猫や、人の死に逝く時にも抱かなかった未知への衝撃と恐怖を、勝飛は全身に受けていた。彼はまったく理解不能に陥り、知らないどこかに潜んでいのだろうその感受性に戸惑った。
単に容姿端麗のみでない女。幾多の情欲に惹かれたこれまでの女ではなかった。運命と言う暗号の先に見つけた、偶然をも飛び越えた心の高まりであった。彼は燃え立つ熱を孕んだ『純粋な求愛』に初めて目覚め、『純粋な欲望』が躰の芯に湧きだすのを知った。
だが彼はなぜか声を掛けられないし、心を操ることさえためらった。声をかければ、この世から完全に消えてしまいそうだ――葛藤は数週間続いた。
(これは母親から受け継いだDNAの企みであろうか。厳父に対し母は『恋心』と呼んだ記憶。その恋心のもつ意味が分からない)
この感情の由縁を厳父は知っているのであろうかと思い、ある夜に勝飛はそれを打ち明けた。かえってきたのは、意外な答えだった。
【うむ、そうか。そうだったのか。……その女が、タマシイの受け皿である子を産むのだろう。我がタマシイを。その子の成長が……そう、十四歳に至るまで会うことはならぬ。また、決してその女に未練など持つことはならぬ。持てば己の破壊につながると知れ!】
勝飛はその厳命から逸脱できる身ではない。
厳父への反抗心は、いきり立つ獣性本能からの性欲に任せて、ただ女を犯し冷淡な感情のままに目的をこなすのだった。そこには優しさもなければ、愛も必要ではなかった。
だがその一人の不可思議な彼女に対し、計画から逸脱した
戸惑う心の底で、彼は自分の魂の由来そのものを考えあぐねて過ごすのだった。
そしてついに、ある夜、心を定めた。