第1話

文字数 1,891文字

 そいつは突然現れた。
 ベッドに放り投げたカバンが、ガサリと音をたてた。清水希和子は、びくりと首をすくめ振り返った。
「な、なに?何か動いた?」
 思わず独り言をつぶやき、じっとカバンを見つめていた。しばらく何の変化もなかったので「やっぱり気のせいだ」と、ほっと胸をなでおろしたのもつかの間、ガサゴソと、さっきよりも派手な音をたてだしたので、思わず「ぎゃっ」と声を上げた。カバンから充分に距離をとり、様子を窺う。どうやら中から何かが這い出そうとしている。ごくりとつばを飲み込んだ。
 そいつはゆっくりと顔を出した。いや、正確には鼻先をのぞかせた。それから前足をカバンの縁にかけ、身体を震わせながら、頭を出し、そのまま前屈みになって胴を出し、しばらくジタバタともがいて、最後にはでんぐり返りをして、コロリとベッドの上に飛び出した。
 そいつの全容が見えても、それが何者なのか、希和子にはさっぱりわからない。
 大きさは、希和子の華奢な手のひらから少しはみ出るくらい。全身が小豆色のふかふかの毛で覆われている。小さな黒い目とつんと上を向いた黒い鼻、頭には耳らしき三角の突起物が二つ見て取れる。ムクムクの毛玉から小指の先ほどの小さな前後の足が、かろうじて飛び出している。一見してネズミのようにも見えるが、ネズミの特徴のひとつである長い尻尾は見当たらない。
 この生き物が何者かわからず、また、どうしてこんなものがカバンの中から出てくるのか。授業が終わり、教科書や文房具をカバンに詰め、友人たちの誘いも断り、逃げるように学校を出て、どこにも立ち寄らずに帰宅したのだ。その間、いつ、どこで、どうやって侵入したのか、どう考えても思い当たらない。
 小豆色のムクムクは、カバンから這い出た後は、希和子のベッドの上で一度伸びをすると、鼻をヒクヒクさせている。そのうち、希和子の方に顔を向けようと身体をひねったが、そのままコロリと転がって一回転した。結局、元の姿勢とかわらないので、そいつはまた、首をひねり、希和子の方を向こうとするのだが、やはりうまくいかず、くるりと一回転。めげずに何度も繰り返しているうちに、ベッドの縁まで転がって、そのままコロリと落っこちそうになったので、希和子は思わず手を差し伸べた。小豆色のムクムクはすっぽりと彼女の両手の中に転がり落ち、腹を見せた状態で収まった。
 そいつはしばらく裏返された亀のように、四本の足をちまちまと動かしていた。その仕草がおかしくて、希和子の口元に笑みが浮かんだ。
 クスクスと笑いながら、もじもじと動くそいつを、そっとベッドの上にのせた。両足が地面について安堵したようで、そいつはすぐにおとなしくなり、ゆっくり顔を上げて、人なつっこい黒い瞳を彼女に向け、チチっと、か細い鳴き声を発した。なんとなく、ねだるような、物欲しそうな、そんな声だった。
「おなか、減ってるのかな?」
 そいつは希和子の言葉を理解したように、うんうんと首を上下に振った。
「ちょっと待ってね」
 そう言ってカバンの中をがさごそさぐり、小さなポーチを取り出した。中からラムネのボトルを取り出し、一粒を手に取り、そいつの鼻先にさしだしてみた。そいつはしばらくラムネをじっと見つめ、鼻をひくひくさせて匂いを嗅いでから、両の前足をにゅっと伸ばして、礼を言うかのように頭をぺこりと動かし、彼女の指先からラムネを受け取った。よく見ると、小さな前足には、米粒のような指が四本付いていて、器用に物を掴むことができるようだ。前足というより、手なのだろうか。
 その、前足なのか手なのか、とにかく両手で掴んだラムネを口元に運び、鋭い前歯をむき出してガリガリとかじり始めた。
 二、三口かじると、動きを止めて顔を上げ、目を細める。
「あれ、もしかして駄目な食べ物だったのかしら」
 希和子の心配をよそに、そいつはラムネをまたかじり、やはり目を細めて天を仰ぎ、咀嚼している。どうやら、味わっているようだ。
 ラムネ一粒をペロリと平らげると、物欲しそうに希和子を見つめた。その、こびる仕草がとても愛らしく、さらにラムネを一粒さしだすと、そいつはチチっといかにもうれしそうな声を出してペコリと頭を動かしてから両手で受け取り、カリカリとかじった。
 身体を丸めて懸命にラムネをかじる姿を眺めながら、何かに似ているなと思う。手のひらサイズで、小豆色のまあるいもの。
「そうだ、オハギだ」
 希和子の声に反応して、そいつは動きを止めて顔を上げ、頭を上下させ、チチチと鳴いた。肯定しているような気がする。何者かはわからないが、オハギと呼ぶことにした。

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