第21話

文字数 1,517文字

 ほろ酔い気分の梨花は自宅近くのコンビニに寄り、野菜ジュースとプリンを買って、一人暮らしのワンルームマンションへ向かった。
 入口のオートロックを解除し、自動ドアを開け、エレベーターホールへ向かう。自室のある三階のボタンを押したとき、閉じかけた入口の自動ドアをすり抜けた一人の若い男が、エレベーターへ飛び乗ってきた。男は最上階の八階のボタンを押し、奥の壁際に立った。先に降りる梨花は扉の前に立ち、エレベーターの扉が閉じた。
 ほどなく三階に止まり、梨花が降りようとしたとき、背後から羽交い締めにされた。
 驚きのあまり、梨花は「ギャーギャー」と大声で叫んだ。こんなに大きな声を出したことなど生まれて初めてかもしれない。すると男は左の腕で梨花の首を絞めながら、右手で彼女の口を塞ぎ、耳元でささやいた。
「騒ぐな、殺すぞ」
 全身の血の気がひいた。急に喉が詰まったようになり、声が出せなくなった。そのままエレベーターの奥に押し込まれ、梨花はうずくまった。恐怖の余り、顔を上げることができず、ただ、ブルブルと震えた。頭の上から男の声が聞こえた。
「金、出せ」
 言われるがまま、バッグから財布を取り出し、紙幣を掴んで渡した。千円札が三枚。ちょうど、使った後なのだ、日頃から大金を持ち歩かないので仕方がない。
「そ、それだけしか、ない」
 ただ、もう、その金を持って、どっかへ行って。それだけを念じた。男は受け取った札を尻ポケットに突っ込むと、梨花を見下ろし言った。
「じゃあ、一回、やるから」
 やる?やる?やる?
 言葉の意味を理解したとき、パニックに陥った。
「ぎゃー、いやー、ぎゃーぎゃー」
 近付く男から身をかわし、手を振り回す。男に目を向ければ、ジーンズのチャックを下ろしている。吐き気をもよおした。
 そのとき、ふと、エレベーターの壁面の階数ボタンが目に入った。車椅子用の低い位置の横並びのボタンだ。その端に、非常ボタンがあった。考える間もなく、力任せにボタンを押した。ビーという間延びした音が響いた。
 男の動きが止まり「チェッ」と舌打ちすると、そのままエレベーターから出て行った。
 その直後、非常ボダンのインターフォンから声が聞こえた。
「どうされましたか」
 安全な場所から発せられた冷静な声に向かって、梨花は震える声で答えた。
「ご、強盗、です…。たすけて…」
 力尽きたようにその場に座り込むと、もう、何も考えたくなかった。

 春喜が事件のことを知ったのは翌日だった。
 昨夜起こった強盗事件の引き継ぎをされ、その被害者の名を目にして驚いた。やはり、マンション前まで送ってやるべきだったと悔いても、もう遅い。
 希和子に知らせるべきか迷ったが、その間に、彼女からスマホにメッセージが届いた。梨花から電話があり、事件のあらましを聞いたらしい。
 怪我はかすり傷程度で済んだのだが、ショックが大きく、今日は仕事を休んだのだと言う。希和子も仮病で会社を休んで、梨花に会いに行くと言っている。
 正直のところ、被害に遭ったのが希和子でなくてよかったと思ってしまった。あの、図々しい女が、あれだけ仕事に打ち込んでいたのに休んでしまうくらい精神的なダメージを受けたのだ。相当な恐怖だったに違いない。
 春喜の中で、幼い頃の虐待の記憶がよみがえる。力による圧倒的な支配。その恐怖と屈辱は、すっかり大人になった今でも消えない。恐らく、一生、消えないだろう。状況は違えど、梨花の心の苦痛は手にとるようにわかる。だから、そんなことがもし、希和子の身に起こったなら、なんとしてでも犯人を見つけ出し、半殺しにしてやると思った。
 春喜の膝の上に乗っているオハギが、チーチーと同意するように鳴いた。
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