第18話

文字数 4,609文字

 それから一年が過ぎた頃、ワシは担任を持つことになった。しかし、担任になったからといって、ワシの仕事ぶりはさほど変わらなかった。生徒とは適度に距離を置いて付き合い、良くも悪くも、普通の教師ぶりだったと思う。
 その年の夏休み前のことだった。その日の授業を終え、ワシは早々に帰り支度をしていた。実は、前日の夜に、行きつけの書店から、ワシが探していた本が手に入ったと連絡をもらってな、仕事を終えたらすぐに取りに行く約束をしておった。
 他の教師たちがまだ残っている職員室をそそくさと後にして帰ろうとしたとき、一人の男子生徒に呼び止められた。
「先生、ちょっと、相談があるんだけど」
 杉原伊織という教室では目立たない真面目な生徒だ。ワシと同様に本好きだったので、他の生徒たちよりはよく話をしていた。彼は分厚いメガネの向こうの眼をまっすぐにワシに向けていた。
 ワシは、迷った。何か、真剣なことかもしれないと思ったが、そのときは、前々から欲しかった本のことで頭がいっぱいじゃった。そんなワシの戸惑う顔を見て、杉原は継ぎ足すように言った。
「あ、忙しいんなら、今じゃなくていいよ」
「悪いな、明日には時間、とるから」
 残念そうな生徒を後に、ワシはその場を立ち去った。
 書店に立ち寄り念願の本を手にしたワシは、はやる心を抑えきれず、駆け足で帰宅した。だから、玄関を開けた途端、母が血相を変えて飛び出してきたとき、心の中で舌打ちした。露骨に不機嫌そうな顔をしているワシにかまわず、母はまくしたてた。
「サブちゃん、大変なの」
「ごめん、ちょっと、後にしてくれよ」
 立ち去ろうとするワシの背中に向かって、母が言った。
「陽介くんが亡くなったのよ」
 ワシは思わず振り返った。陽介は家同士の付き合いもある幼なじみだ。
「なんで…」
「自殺したって…」
 ワシの頭の中は真っ白になった。手にしていた大切な本が、ゴトリと音をたてて床に落ちたが、それすら気付くことがないくらいに。
 一週間前のことだった。陽介が突然、電話をかけてきた。
「おう、陽介、久しぶりだな、どうした」
「うん、ちょっとな。利三郎、これからちょっと、飲み行かないか」
 沈んだ声だったが、そのとき、ワシはどうしても読みかけの本の続きが読みたかった。だから、彼のサインに気付いてやれなかった。
「う~ん、今日はちょっと」
「そうか、じゃあ、またな」
 それが陽介と話した最後だった。
 翌日、通夜に行き、陽介の死に顔を見た。目を閉じ、口を閉じ、苦しそうでも楽しそうでもない、青白い顔。
 自殺の原因は、家族にもわからなかった。遺書もなかったらしい。けれども、あのとき、あいつは、ワシに何か話したかったのだ。もし、ワシがあいつの様子がおかしいことに気づき、すぐに話を聞いてやれば、死なずにすんだのかもしれない。ワシは、たかだか本のために、大切な友人を見殺しにしてしまったのだ。
 人は簡単に死ぬ。
 その事実を目の当たりにして、ワシは生まれて初めて、絶望というものを知った。
 取り返しのつかないことをしてしまった。悔やんでも悔やみきれないワシは、うなだれて帰宅した。何も言葉を発せず、自室に入ると、すぐに母が顔をのぞかせた。
「サブちゃん、カステラ、食べる?」
 前日からろくに何も食べていないワシを気遣い、母が好物のカステラを買ってきたのだろう。しかし、とても口にする気がおきない。何も答えず、頭を抱えて椅子に座っているワシの背中を母がポンポンと叩いた。
「ここに置いておくから、少しでも食べてね」
 カステラと紅茶を載せたトレーを机に置き、すぐに出て行った。ワシはカステラに見向きもせず、俯き、頭を抱え、嘆き続けた。
 どれくらいそうしていたのだろう。数分だったのか、数時間だったのか。頭を抱えたワシのすぐそばで、カタカタと音が聞こえた。皿を揺するような音だ。しばらく放っておいたのだが、その音はずっと続いている。だんだん、気になってきてとうとう顔を上げた。そして、ワシは見たのだ。
 カステラの皿に前足をかけてカタカタと揺すっている、小さな小豆色の生き物を。
 自分の目を疑った。嘆き悲しむあまり、幻覚を見ているのではないか。そう思い、じっと、その不可解な生き物を見つめた。するとそいつは、ワシの視線を感じたのか、首だけを捻って振り返り、さらに驚かされた。
「ねえ、サブちゃん、これ、食べないの」
 男か女かは不明だが、幼い子供の声だった。黒いつぶらな瞳をじっとワシに向け、しゃべったのだ。
 やはり、これは幻覚に違いない。ワシは目をゴシゴシと何度もこすった。けれども、目の前の生き物が消えることはない。ワシが呆けた顔をしていると、そいつはチチチと楽しそうな声で鳴き、
「ねえ、サブちゃん、食べないなら、ちょうだい」
 ねだるような声で話しかけてきた。ワシは手を伸ばし、カステラをちぎって、恐る恐るそいつの前に差し出した。すると、小さな頭をペコリと動かし、前足で受け取ると、モシャモシャと美味そうに食った。背中を丸め、懸命に食べるその姿が、何かに似ていると思った。少し考えて、すぐに思い当たった。おはぎだ。
 そのとき、以前読んだ本のことが記憶から呼び戻された。そう、あの『オハギのつくり方』じゃ。
 ワシはごくりとつばをのみこむと、思い切って、そいつに話しかけた。
「なあ、お前は、もしかして、オハギなのか」
 小豆色の生き物は、いつのまにか皿の上に乗り、残りのカステラにかぶりついている。もぐもぐと咀嚼しながら「そうだよ」と面倒くさそうに答えた。
 あの本を最初に読んだときに現れなかったのは当然だ。ワシは何も、嘆くことなどなかったのだから。けれども、今、このとき、ワシは身が引き裂かれるような後悔の念に捕らわれ、どうすることもできずにもがいている。
 オハギとは、人の心から生まれるのだ。人がどうしようもなく嘆き、己に問いかけ、己一人では支えきれなくなって吐き出された何かが形を成して、この愛らしい生き物になるに違いない。すなわち、こやつは、ワシの分身。ワシの心の闇。
 オハギは、二切れあったカステラをすっかりたいらげると、眠そうな顔をしてそのまま皿の上に横たわった。その寝姿を見ていると、少し、心が救われるような気がした。目を細め、うとうとしだしたオハギにワシは語りかけた。
「なあ、オハギ。陽介はなんで死んじまったんだ。ワシはあいつを助けることができたのか」
 オハギは前足を使って腹を掻きながらあくびをすると、目を閉じたまま言った。
「陽介がなんで死んだかは、陽介にしかわかんないよ。もしかしたら陽介だって、何で死んでしまったんだろうって思ってるかもしれないね。だから、サブが助けられたかどうかもわかんないよ」
「でも、結果、ワシは、陽介の命より本を優先した」
「そうだね」
「ワシはもう、本なんか見たくもない」
 そう言って、床に放り出したままの、やっと手に入れた本を持上げ、壁に投げつけた。ドンと鈍い音がして落ちた本がバサリと開いた。それを見て思い出した。背筋に冷たいものが走った。
「杉原…」
 そうだ。昨日、杉原は相談があると言った。すっかり忘れていた。
「ああ、どうしよう、どうしよう」
 ワシはまた人の命より本を優先してしまったのかもしれない。杉原が陽介の二の舞になってしまったらどうしよう。杉原のまっすぐな眼差しを思いだし、ワシは青ざめ、また、頭をかかえ、オロオロした。オハギがう~んと言いながら伸びをして起き上がった。
「ねえ、今からすぐに杉原んちに行ってみたらどう?」
 オハギに言われて気付いた。そうだ、すぐに杉原に会いに行かねば。ワシは慌てて家を飛び出した。杉原の家はうちから歩いて十五分ほどだったが、全速力で駆けつけると五分で着いた。もう夜の九時をまわっていたが、そのときは非常識だとか、そんなことを考える余裕がなかった。だから、血相変えて杉原の家の戸を叩き、生徒の名を悲痛な声で叫ぶ担任教師の姿を見た両親は何事かと大いに慌てた。
 しかし、当の杉原はきょとんとした顔で「あれ、先生、どうしたの?」と呑気に顔を出した。よかった、生きている。ワシは安堵し、肩で息をしながら「話、聞くぞ」と言うと、彼は目を丸くした。
「先生、今日は友人の通夜だって聞いたから、別に明日でもあさってでもよかったんだけど」
 ケロリとした杉原の顔を見て、急に緊張がとけてその場にへなへなと座り込んだ。さらに情けないことに、両の眼からボロボロと涙があふれ出した。
「わ、先生、どうしたんだよ。と、とにかく、上がって」
 杉原の部屋に入り、彼の母が冷たい麦茶を出してくれ、それを飲み干すと、やっと落ち着いた。その後は、とにかくバツが悪かった。仕方なく、陽介の死についてしゃべってしまった。
「ワシはもう、本をやめようと思う」
 最後にそうつぶやくと、杉原は大人びた仕草で腕を組んだ。
「ねえ、先生。僕の相談に来てくれたんだよね」
 ワシは顔を上げ、鼻をすすってコクリと頷いた。
「だったら、本をやめられると困るんだけど」
 そう言って、杉原は引き出しから原稿用紙の束を取り出し、ワシの前に置いた。
「僕、実は、小説家になりたいんだ。それで、原稿、書いてみたんだけど、読んでくれないかな」
 ワシは杉原の顔を見た。恥ずかしそうに微笑む彼を見て、ワシはその場で原稿用紙をめくった。
 推理小説だった。戦争で家族を失った少年が、苦難を乗り越え人生を切り開く姿を描きながら、彼を育てた養父の死の真相を暴いていくものだった。
 最後まで読み終えて、ワシは正直な感想を述べた。
「トリックは面白い。けれど、話に時折、無理な展開がある。もっと、筋道を立てた方がいい。例えばここ…」
 ワシは事細かに、気になるところを指摘した。杉原はうんうんと頷き、ときには反論し、気付けば深夜まで話し込んでいた。互いに納得したところで、杉原は晴れ晴れとした顔で言った。
「わかった。手直ししたら、また読んでもらえるかな」
「ああ、楽しみにしているよ」
 帰宅して、自室に戻ると、ポケットからオハギが飛び出した。すっかり忘れていたが、こいつも付いて来ていたのだ。
「よかったね、杉原、無事で」
 もうすっかり、この小動物に語りかけられることが当たり前に思えた。
「ああ」
 杉原は無事だった。けれど、陽介はもう、戻ってこない。そんなワシの気持ちを察したのだろう、オハギはぴょんとワシの膝の上に飛び乗り、ワシを見上げた。
「陽介のことは気の毒だった。サブに責任があるのかないのか、わかんないけど、本をやめたって、陽介は帰ってこない。それはわかったでしょ」
 ワシは何も応えることができず、ただ頷いた。
「杉原の奴、サブに小説家になりたいって夢を話せてよかったね。喜んでたよね。サブはさあ、陽介にすまないって思うなら、杉原みたいに、何かに悩んだり、迷ったりした人たちに寄り添い話を聞いてあげることが贖罪になるんじゃないかなあ」
 そうかもしれない。そうやって、一人でも陽介のようなやつを出さないように生きていくしかないのだ。それが正しいか、正しくないか、答えはいつかワシがあの世へ行ったとき、陽介に訊ねるしかないのだろう。
 ワシはずっと、陽介を忘れない。だから、オハギもずっと、あの日からワシのそばにいる。こやつは決して消すことのできない、ワシの心の闇だから。
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