第12話

文字数 1,844文字

 次に目覚めたとき、目の前には妻の千夏の顔があった。心配そうにのぞき込んでいたが、アキラの目が開いたのを確認すると、無理矢理に笑顔を繕った。
「気がついたのね」
 身体を動かそうとして、違和感を感じた。手足がまったく動かない。けれども、それは身体機能の問題ではなく、物理的なものだった。両手がベッドの柵にくくりつけられている。アキラは千夏に視線を向け「これはなんだ」と言ったが、その声は「ふぉれはふぁんふぁ」と発せられた。しかし、千夏にはちゃんと通じたようだ。
「ごめんね、アキちゃん、目覚めたときにパニックになってね。なんでも、麻酔なんかの作用で、一時的に意識障害が起こったのかもしれないらしくて。暴れて鼻の管、抜いちゃって。あれって、レントゲン見ながら入れるから、お医者さんがいないとできなくて、大変だったんだって。だから、また、暴れるといけないから、手を拘束しますって」
 千夏はさらりと話してくれたが、その言葉を頭の中で反芻するうちに、絶望的な気分になった。
 俺はどうなっちまったんだ…。
 ついさっきまで、普通に大工仕事をしてたんだ。俺の仕事は丁寧で、人当たりもいいってんで、不動産屋や建設会社の受けもよかった。俺をわざわざ指名してくれる施主も少なくない。なのに、今は、身動きできず、わけもわからず、縛り付けられている。
 アキラの絶望的な表情に気付いて、千夏が看護師を呼んだ。
「わたしが見てるので、手の拘束、外してもらってもいいですか」
 看護師が了承してひとまず解放されたが、どっちみち、思うように身体を動かすことはできない。千夏は、アキラの目からこぼれた滴をタオルで拭き取り、手をぎゅっと握った。その手の温もりは感じることができて、少し、ほっとする。
「あのね、アキちゃんはラッキーだったって。脳のおっきなパイプが詰まったんだけど、もうちょっとずれてたら、息する機能が駄目になって、おだぶつだったって。だから、今は動けないし、言葉もうまくしゃべれないけれど、ちゃんとリハビリすれば、もう少し、動くようになるって」
 ぼんやりと千夏の言葉を上の空でアキラは聞いた。リハビリすれば今よりは動く。けれどもそれは、元に戻るということではないんじゃないか。そんなリハビリ、意味があるのか。むなしいだけじゃないか。
「ふぃひゃひゃ」
「嫌だなんて言わないで。ね」
 千夏の困った顔を見ていると、また、目頭が熱くなってきた。涙がこぼれそうになったとき、ふと、彼女の背後に目を向けた。母と父がいる、そして妹、幼い甥っ子の良介。みんなの心配そうな顔を見て、アキラの脳裏に不安がよぎる。自分は今の説明以上に悲惨な状況なんじゃないだろうか。今の話だけでも悲惨なのに、家族全員が揃って青い顔を向けているのだ。もう自分は、このままここで、くたばっちまうんじゃないだろうか。人間の死とは、なんともあっけないものなのか。
 アキラが絶望と恐怖で混乱し「うご~」と叫び声を上げたとき、病室の扉が勢いよく開いて、バタバタと足音が聞こえた。
「伯父さん、大丈夫?」
「アキラ、生きてるじゃねえか」
 声の方へなんとか視線を向けた。そこにはもう一人の甥の春喜と、幼なじみの信夫が笑いながら立っていた。
「今、すごい声が聞こえたけど、なんか吠えた?」
「それがアキラだ。あいつは珍獣なんだ。おい、病人のふりもたいがいにしろよ」
 二人は詳しい状況を理解していないだけなのだが、それでも、この場の空気などおかまいなしの馬鹿さ加減がアキラを安心させた。冷静さを取り戻して、二人に話しかける。
「ふぁる、にょびゅ、ひぃんふぁいふぁふぇへ、ふふぁふぇえふぁあ」
 春喜は目をぱちくりさせ、律子の顔を見た。
「脳梗塞だって。だから、言語障害が出てるみたいなの」
 それを聞いた春喜が賢明に言葉を解読しようと首を捻る。しかし、信夫はさほど驚くこともなく言った。
「ハル、ノブ、心配かけて、すまねえなって言ったんだよ、これくらいの言語障害なら、一時的なもんじゃねえのか」
 さっきまでさまざまな人の言葉に疑心暗鬼になっていたアキラだったが、幼なじみの言葉だけは信用できる。信夫は嘘をつかない。嘘をつけるほど器用ではない。
 信夫はアキラのそばに寄り、左手をぎゅっと握った。
「お前は不死身だ、だから、医者とか看護師とか、千夏さんとかりっちゃんとかの言うことちゃんと聞いてりゃ、なんとかなる、わかったな」
 こぼれそうになる涙を気合いでこらえて、アキラは友の顔をじっと見つめ、頷いた。
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