第8話

文字数 6,776文字

 学校は新学期から行くことになっているので、四月までは暇である。暇だけれど、なんで毎日、このオッサンと顔を合わせることになったのか、春喜にもよくわからない。
 信夫は、あの日、春喜を家まで送ったとき、母の律子に勝手に許可を得ていた。
「実は、ハルちゃんにパソコンを教えてもらおうと思うんだけど、明日から、しばらくうちに来てもらっていいかな」
 いい年をしてはにかむ信夫を唖然とした顔で春喜は見ていたが、律子は快諾し、なぜかこちらが教える方なのに「ノブさん、春喜のことよろしくね」と頭を下げていた。
「それで、パソコンって、何を教えたらいいんだよ。俺だってあんまり詳しくないけど」
 いつの間にか、すっかりタメ口になった春喜だが、信夫はさほど気にせず、普通に会話している。
「まずはだ、ほれ、あれだ、ズームってどうやったらできんだ」
 教えるというより、ほとんど設定は春喜がやってやった。信夫は「ほお」とか「へえ」とか横からのぞき込んでいるだけである。
「そんで、ズームなんかどうすんの?オンライン面接でも受けるの?」
「違う違う、オンライン飲み会とか、オンライン合コンとか、前から誘われてたんだけど、やり方わからんって言えなくてよお。いやあ、ハルちゃんが来てくれて助かったよ」
 一人ウキウキしているオッサンにあきれ顔を向けていた春喜だったが、ふと、まったく違うことを思い出した。
「そういや、ノブさん、こいつ」
 ちゃぶ台の上のパソコンの横でスルメをかじっているオハギを指さした。オハギは、家の中では春喜以外の人には気付かれたくないらしく、誰かが近付くと素早く身を隠すのだが、このオッサンの前ではすっかりくつろいでいる。
「あの河原で、確か、こいつに久しぶりって言っただろ、オハギのこと、前から知ってたのか?」
 信夫は「え?」と不意打ちをくらった顔をして「まあな」と歯切れのない返事した。何か、隠しているような気がして、春喜が問い詰めると、ふうっと息を吐き出し観念したように笑った。
「あんまり面白い話でもないけど、聞きたいか」
 そう言われると頷くしかない。
 信夫がマグカップのコーヒーをズズズと飲んでから、ポツポツと語り出した。
「俺さあ、実はガキの頃は、グズでノロマで馬鹿で、何の取り柄もなくってな」
 今もさほど変わらないのでは、と言いたかったが春喜は黙って聞いた。
「あれは、そうだなあ、俺がお前の弟くらいの頃だったかなあ。学校でさあ、授業中に消しゴム落としてな。それが前の席に座ってた女子の椅子の下に転がったんだ。そんでさあ、俺、それ拾おうとして椅子の下に潜り込んだらさあ、その女子が騒ぎ出したんだ」
「なんで?」
「田端君がわたしのスカートをのぞこうとしたって…」
 春喜はなんと返答していいかわからず、目をぱちくりさせた。信夫はすねた顔で口をすぼめ、横目で春喜の様子を窺っている。その目を見ていると、からかいたくなった。
「のぞいたの?」
「のぞいてねえよっ」
 冗談で言ってみたら、案の定、信夫はムキになって顔を真っ赤にした。
「もう、いい年して、ムキになるなよ、大人げない。で、どうなったの?」
 すねた信夫をなだめ、春喜は話の先を促した。信夫はふてくされながら、話を続ける。
「それでだなあ、先生も女でな、その女子の言い分ばっか聞いて、俺が消しゴム落としたって言ってるのに、まったくとりあってくれねえ。悪いことしたうえに、嘘までつくのかって」
「ああ、いるな、そういう先生」
「若い女の先生だったっけなあ、すんげえテンパってさあ。そんで、俺、罰として、放課後、一人で教室を掃除しろって言われた」
 クラスメイトが下校した教室に一人残された信夫少年は、仕方なく机をよせ、箒を持って、せっせと掃除を始めた。終わったら職員室で待つ先生に報告して、仕上がりをチェックされるから手を抜くわけにもいかない。
 木造校舎の床は、水拭きまでしないと、あまり綺麗になったような気がしない。普通の人よりも手が遅い信夫が、さらに丁寧に作業をするわけだから、ものすごく時間がかかった。途中、様子を見に来た先生は、うんざりした顔で「もっと効率よくできないの」と叱責する。
 空が夕焼けに染まり始めても、なかなか掃除が終わらず、信夫は涙が出そうになった。校庭では三人の少年たちがボールを蹴って遊んでいた。キャッキャとはしゃいでいる彼らを見ていたら、無性に情けなくなってきた。
 ズボンのポケットに手を突っ込み、あめ玉を取り出して口に入れた。けれどもむなしい気持ちは収まらない。思わず愚痴が口からこぼれる。
「なんで、ボクだけ、こんな目に合うんだよう。何にも悪いことしてないのに」
「しっかりしなよお」
 誰もいない教室で、信夫の独り言に誰かが答えた。驚いて振り返り、キョロキョロと見渡すが、誰もいない。気のせいかと首をひねると、また声がした。
「ほらほら、手が止まってるよ。がんばって」
 気のせいではない。確かに幼い子供の声がする。けれど、誰もいない。嫌な汗が背中を伝ったとき、また声がした。
「ここだよ、ほら、こっち」
 耳を澄ましてどこから声がするのか探した。そして足もとに目を向けた。そこには、小豆色をしたモコモコの小さな生き物がいた。そいつは後ろ足で立ち上がり、信夫を見て前足を振っている。思わずしゃがみ込んで、そいつをのぞきこんだ。
「お前、誰?なんでしゃべるの?」
「ねえ、おいらにもあめ玉、ちょうだい」
 言われるがまま、信夫はポケットからあめ玉を取り出し、包装紙をはがして、生き物に渡した。そいつはペコリと頭を下げると、前足で受け取り、まるごと頬張った。顔の下半分があめ玉の形にふくらんだ下ぶくれ顔がおかしくて、おもわずぷっと吹き出した。
 そいつは、あめ玉をもごもごさせながら言った。
「ひひょりでれんぶ、ひょうじにゃんてむりひゃし、ひゃれかにてちゅらってもりゃったら?」
 今のは、たぶん「一人で全部、掃除なんて無理だし、誰かに手伝ってもらったら?」と言ったような気がする。
「誰かって、誰に?お前が手伝ってくれるの?」
 信夫の問いに答える前に、小動物はガリガリとあめ玉をかみ砕き、ゴクリと飲み込んでから言った。
「おいらは無理だよ、こんなにちっちゃいんだもの。助っ人なら、ほら、外にいっぱいいるじゃない」
 そう言って窓の手すりまでぴょんと飛んだ。そして、チチと一声鳴いて振り返り、
「こうすればいいのさ」
 と信夫に告げると、その生き物は外に向かって叫んだ。
「お~い、お~い、こっちこっち~」
 小さな身体からは想像もつかないくらい大きな声だった。その呼びかけに校庭で遊んでいた少年たちが動きを止め、信夫がいる校舎の二階の窓を見上げた。
「あれ、信夫じゃん、なんだよ、まだ掃除してんのかよ」
「あいつグズだからなあ」
「しゃあないなあ、手伝ってやろうぜ」
 そう言い合って、校舎へ向かってきた。三人がやって来て分担して手伝ってくれると、あっという間に片付いた。そのときのことを思い出し、信夫はふっと笑みを浮かべた。
「あれ以来、俺、案外、人って、素直に頼めば助けてくれるもんだなあって学んだんだ。それに言いたいこともはっきり言った方がいいって。オハギのおかげだ。ちなみにさあ、そのうちの一人がアキラだったんだ、お前の伯父さんの」
「ふうん…てか、え、ちょっと待て」
 春喜が目をぱちくりさせながら、詰め寄った。
「な、なんだよハルちゃん」
「オハギってしゃべんの?」
 今度は信夫がきょとんとした。
「しゃべったぞ、ものすごく。こいつは、しゃべらねえのか?」
 そう言って、まだスルメをかじっているオハギを見た。春喜もオハギに顔を近づけ、じっと見つめた。オハギはチラリと春喜を見て、とぼけるように天井を向き、わざとらしく首をかしげて視線をスルメに戻した。
 二人は顔を見合わせ、眉間に皺を寄せた。
「しゃべれないふり、してるんだ、きっと…」
 春喜の言葉に信夫が頷く。
「たぶん、性格の問題なんじゃねえか、俺のオハギと、この、ハルちゃんのオハギ、似てるけど、なんか違うんだよなあ。俺のオハギは、ずっとしゃべってたぞ」
「その、ノブさんのオハギはどうなったの。掃除のときに現れただけなの?」
「いんや、それからちょくちょく顔を見せた。そういや、俺が自衛隊に行くきっかけもオハギが作ってくれたのかもしれない」
 春喜は身を乗り出した。
「それそれ、なんで自衛官になったのか、聞きたかったんだ」
 例えば、災害とか事故に巻き込まれて、自衛官に助けられたとか、そういう感動のエピソードを想像した。少年の純粋な期待の眼差しを受けて、オッサンはひるんだ。
「いや、あの、そんな、たいしたことじゃないんだけど…」
「なんだよ、もったいぶらずに教えろよ」
 信夫は鼻の下をごしごしこすって、できるだけぶっきらぼうに答えた。
「ショッピングセンターだ」
 春喜はきょとんとした顔で動きを止め、首をかしげた。オハギが楽しげにチチと鳴いた。
 信夫はこほんと空咳をするとタバコを手にとったが、火を点けずに手元でもてあそんでいる。
「中三の夏休みだよ。みんなある程度、進路決めてて。アキラは、工業高校行くって言って、俺も一緒に行くかって聞かれたけど、俺、不器用だし、自信なくてよ。だったら俺、どうしたらいいんだろって、本気で焦ったけど、受験勉強する気にもならんし」
そんなとき、オハギが突然、言い出した。
「おいら、街へ行ってみたい。ノブさん、連れてってよ」
 突然のことで面食らったが、どうせ暇だしと、信夫はデイパックにオハギを入れて、バスと電車を乗り継いで、市街地まで出た。けれど、たいして行くところもなく、あまりの暑さに耐えかねて、涼みがてらに大型ショッピングセンターへ入った。すると、そこのイベント広場で、自衛隊のプロモーションが行われていた。
 自衛隊車両や、制服などが展示され、ポスターや災害派遣のときの写真なんかも貼ってある。さほど興味があったわけではなかったが、暇つぶしに見ていたら、一人の自衛官に声をかけられた。
「キミ、なかなかいいガタイしてるね、自衛官に向いてそうだね、興味ある?」
 振り返れば、自衛官の制服を着た角刈りのオッサンが信夫の肩に手をかけて不適な笑みを浮かべている。
「いや、別に…」
 とまどう信夫にかまわず、そのオッサンは距離を縮めて話しかけてきた。
「キミ、高校生?」
「いえ、中三です」
「進路は?高校行くの?」
「いえ、その、まあ…」
「なんだ、まだ決めてないのかい。将来の夢とかはないの?」
「とくに…」
「だったら、自衛官になってみたらどうかなあ。中学を卒業すれば訓練のための学校に入って寮に入れる。高校卒業資格もとれるうえ、給料だって出る。自衛隊にいる間は、いろんな資格もとれるから、なかなかいいぞ」
「え、はあ、でも…」
「まあ、こっちへ来て、もっと詳しく話してあげよう」
 そのまま二時間ほどつかまって、気付けばパンフレットと願書を渡された。
「そんなわけで、気付いたら、自衛官になってた」
 話し終わって信夫がタバコに火を点けると、春喜は眉を寄せ、口をすぼめた。
「なんだよ、それ。俺が自衛官になろうかなって言ったとき、簡単に言うなって言ったくせに。めちゃくちゃ簡単になってんじゃねえか」
 信夫はバツが悪そうにそっぽを向いて、天井に向かって煙を吐き出した。春喜は顔をしかめて窓を開けた。
「まあ、成り行きといえば成り行きだけど。行ってよかったって思ったよ」
「なんで?」
「うん、自衛隊ってさあ、基本、落ちこぼれは出しちゃいけねえんだ。一人の失敗が全員の命にかかわるからな。だから、俺がどんくさくても、周りがフォローしてくれる。そりゃあ、あからさまに嫌そうにする奴とか、面と向かって暴言吐くやつとか、殴る奴とかもいたけど、俺の場合は、どっちかってえと助けてくれる奴の方が多かった。どうしようもなくなる前に助けを求めるっていうことをガキのときに覚えてたのがよかったのかもしれねえな」
 期待外れの顔で信夫の話を聞いていた春喜だったが、不意に目をぱちくりさせた。
「その後は?」
「え?」
「ノブさんのオハギはそれからどうなったの」
「俺が自衛官になってしばらくしたら『ここは男くさいから、なんか嫌だ。またね』って言って、それっきり」
「そうなんだ…」
 春喜はスルメをたらふく食べて満足し、くつろいだ様子でゲップをするオハギを見た。
「こいつもいつか、いなくなるのかなあ、それって、なんか、さみしいよなあ」
「出合いがあれば、別れもある。仕方ねえよ。でも、俺は、また、あいつと会える気がしてる。だから、時々、口に出すことにしてる」
「なんて?」
 信夫は大きく息を吸い込むと、天井に向かって叫んだ。
「オハギ~、そろそろ帰ってこ~い」
 いきなり大声を出されて、春喜は顔をしかめた。
「おい、いい年して、何してんだよ、ほら、俺のオハギ、びっくりして起きたじゃないか」
 丸まっていた春喜のオハギが顔をあげ、辺りをキョロキョロ見回し、チチっと鳴いた。
「オハギ、ごめんごめん、オッサンが呼んだのはお前じゃないから」
「そうだよ、おいらのことだよ」
「え?」
「へ?」
 唐突に聞こえた幼子の声に驚いて、春喜と信夫は同時に間抜けな声を発した。そして、ゆっくり、振り返る。そこには、小さな小豆色の生き物がいた。ちゃぶ台で丸くなっている奴とはまた、別に。
「オ、オハギか、俺の…」
 信夫は目を見開き、二匹目のオハギの前にかがみこんだ。
「うん、ノブさん、ただいま」
 春喜のオハギがチチチとうれしそうに鳴いて、信夫のオハギのそばに近付く。うり二つの二匹は、互いの前足を重ねて、チーチーと喜んでいる。二匹並んだオハギをじっと見て、春喜は目を丸くした。
「うん、確かに、似てるけど微妙に違う。何だろ、顔が違う?」
 なんとなく、春喜のオハギは目がまん丸で愛らしく幼いが、信夫のオハギは目元がキリリとして大人っぽい。
「しかし、どっちもオハギだと、呼ぶときまぎらわしいなあ、ハルちゃんのオハギ、俺のオハギじゃ、面倒だし」
 春喜が二匹のオハギの頭を指先でなでながら言った。
「う~ん、でも、どっちもオハギはオハギだし。名前つけるってのもなんか違うし」
 二人はしばらくう~んと考え、結局、信夫のオハギは『センパイ』、春喜のオハギは『コウハイ』と呼ぶことに決めた。試しに「センパイ」と声をかければ信夫のオハギが右の前足を上げ、「コウハイ」と呼べば、春喜のオハギが左前足を上げた。どうやら、二匹にも異論はないようだ。
「センパイ」
 信夫のオハギが右前足を上げる。
「コウハイ」
 春喜のオハギが左前足を上げる。
「センパイ、じゃなくてコウハイ」
 信夫のオハギが右前足を上げかけ、慌てて春喜のオハギが左前足を上げる。
 面白がってオハギたちをからかい遊んでいる信夫の横で、春喜は眉を寄せている。
「どうした、ハルちゃん、難しい顔して」
 春喜はじっと二匹のオハギを見据えながら、口を開いた。
「なんかさあ、オハギって、何者なんだろ」
 春喜の問いにチラリとセンパイが目を向ける。しかし、何も言わず、コウハイがさっきまで食べていたスルメを見つけて、かじり始めた。
 信夫はちゃぶ台で頬杖を突きながら、スルメをかじるセンパイに目を細めた。
「こいつ、俺が困ってるときに現れて、ある程度落ち着いたらいなくなったんだよな。ハルちゃんだって、モヤモヤを抱えてるときに現れた」
 春喜が神妙な顔で頷く。
「そういうときに、現れるんだろうか、こいつ」
 二人は腕を組み、う~むと頭を傾けた。当のオハギ二匹は素知らぬ顔でスルメに夢中だ。そのフカフカした背中に向かって春喜が声をかけた。
「なあ、オハギ、俺たちの話、聞いてるんだろ。お前たちのこと、なんか教えてくれよ」
 一瞬、ピクリと動いたが、ウンともスンとも言わない。
「言いたくないのかな」
 春喜がつぶやくと、信夫がにんまりした顔で言った。
「面倒くさいんじゃないか、たぶん」
「じゃあ、オハギ、お前たちのこと、俺、調べてみてもいいか」
 春喜がそう言うと、センパイはスルメをかじりながら「いいよ」と面倒くさそうに言った。
 それから春喜はネットで検索をし始めた。しかし、思うような結果はいっこうに得られない。オハギの写真を投稿しようとスマホを向けても、シャッターをきる瞬間に素早く逃げてしまい、シルエットさえ撮影することができなかった。
 今の時代、これだけネットに引っかからないことってあるのだろうか。まるで、オハギがネット世界からも素早く身を隠しているようだ。
 それでも、他に頼る術も思いつかず、信夫と二人でパソコンの画面とにらめっこをしている日々が過ぎ、春喜の長い春休みが終わった。
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