第19話

文字数 1,919文字

 長い話を聞き終えて、春喜と信夫は複雑な思いでそれぞれのオハギを見た。センパイもコウハイも、つぶらな瞳を己の宿主に向けてチチチと鳴いた。
 春喜は思った。オハギのことをネットで調べても出てくるはずがない。まして写真で公開されるなどあり得ない。なぜなら、こいつは、自分自身の心の闇だから。そんなもんを誰彼無しに見せたくないじゃないか。家族だってそうだ。春喜が抱える闇を家族には知られたくない。でも、信夫や今のアキラやこのじいさんはどうだ。ちゃんと見えてる。それは、彼らもまた嘆き、だからこそ、人の痛みがわかるからなのかもしれない。いや、待てよ…。
「伯父さんは俺たちのオハギが見えるんだよな。なんで、伯父さんのオハギはいないんだ」
 春喜に問われてアキラは首をかしげる。利三郎がガハハと笑った。
「たぶん、それは、この人の嘆きは一時的なものだからだろう。今はこんな身体になってしまって心が弱っているが、この先、努力次第でなんとかなるという証じゃなろうな。オハギは外に吐き出されてはいないんじゃ」
 アキラはキョトンとした顔で利三郎を見た。
「俺、回復できるのか。また、仕事に復帰できるのか」
「だから、ずっと、そう言っとるだろうが。本当は、あんたもそう思ってるはずじゃよ」
「そ、そうか。そうなのか。よっしゃー、俄然、やる気が出てきたぜ」
 喜ぶアキラの顔を見て、春喜はほっとした。オハギの謎もなんとなく解けたし、こちらもすっきりした。
 ずっと黙っていた信夫が「あっ」と声を上げた。
「なあ、じいさん、その杉原って、あの推理作家の杉原伊織か、もしかして」
 利三郎はしたり顔で頷く。感心する信夫にチョウロウが言った。
「杉原は、あれから出版社の新人賞を受賞して、あっという間に人気作家になったんだよ。サブのおかげさ。あいつはサブより先に死んじゃったけど、最後まで、サブに感謝してた」
 信夫はじっと利三郎を見据えた。老人は何も言わず微笑んでいる。
「じいさん、あんた、それでもまだ贖罪は続いてるのか」
 信夫の問いかけに利三郎は否定とも肯定ともつかない表情で、ゆっくりと首を振った。
「わからんのじゃよ。人の心に寄り添うということがワシにとって当たり前のことになったとき、そして人から感謝されたとき、これが贖罪なのだろうかと、また、己に問いかける。そして陽介のことを思い出す。正しいか、正しくないか、許されたのか、許されてはいないのか、まあ、もうすぐわかることじゃな」
 利三郎のどこか悲しい微笑みと、信夫のぽかんとした顔を見ながら春喜は考えた。
 この人は、ずっと、見殺しにしてしまった友に詫びながら生きてきた。それはこの人の命がつきるまで終わることがない。ただ、この老人の最期の時は、できることなら、陽介って奴が笑顔で迎えに来てくれればいいのにと密かに願った。
 それからひと月と少し後、アキラは退院した。入院のときはストレッチャーにくくりつけられて来たものが、退院のときは普通に自分の足で歩けた。ふらつきもまったくない。そうなるとこの男は調子にのって、完全復活したのだから自分で車を運転して帰るとごねる始末である。千夏と春喜に説得されて渋々、後部座席に座るのを、利三郎が見送ってくれた。
 利三郎は車椅子のままだが、来週退院する予定。残りの日々を自宅で過ごすと言う。
 生涯独身だった彼は一人暮らしだ。ちゃんと生活できるのか心配したが、ここまで回復できれば、後は行政のサービスをうまく活用すればなんとかなると笑って言った。
 春喜は利三郎に、退院後、利三郎の自宅へ遊びに行くと約束した。そして、別れ際、ふと、思い出した。
「じいちゃん、そういえば、ひとつ気になってたことがあったんだけど」
「なんじゃね」
「その『オハギのつくり方』って本に、オハギは決して、怒らせてはならない、って書いてたって。オハギが怒るとどうなるんだ」
 老人はおどけた様子で首をかしげて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「はてなあ。ワシはこいつと長い付き合いだが、こいつが怒ったところは見たことがない。たしなめられたり、説教されたりすることはあるがな。そういや、おはぎのことを『半殺し』と呼ぶ地域があるからな。そもそも、怖い奴かもしれんな」
 春喜は憮然とした。
「それって、おはぎの中のご飯の潰し方のことだろ。粗めに潰すのが半殺し、細かく潰すのが皆殺し」
「知っておったか。洒落じゃよ、洒落」
 ガハハと笑う老人の言葉を、素直に受け止められない春喜は、なんともモヤモヤした気持ちのまま、ポケットの上からオハギをそっとなでた。
 チチチチチといういつもの鳴き声が、あざ笑っているように聞こえたが、気のせいだと思うことにした。
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