第22話

文字数 2,823文字

 梨花はたった一日で、人が変わったように憔悴していた。希和子が彼女の部屋を尋ねたとき、扉が細く開かれ、梨花は希和子を急いで部屋に引き込むと、素早く鍵をかけた。
「梨花、大丈夫、怪我、してない」
 希和子の気遣いに梨花は無理矢理に笑顔を繕った。
「うん、ごめんね、心配かけて。もう、大丈夫だから」
 全然、大丈夫そうじゃない顔色の梨花を見て、希和子は思わず彼女を抱きしめた。すると、それまで我慢していたのだろうか、梨花の身体の力がぐにゃりと抜けて、鼻をすすり、次第に声を出して泣き出した。希和子は何も言わず、ただ、泣きじゃくる梨花の背中をさすり続けた。
 しばらくして、やっと落ち着きを取り戻し、梨花は希和子からそっと離れ、鼻をかみ、バツが悪そうに笑った。
「なんか、自分が情けない」
 ポツリとつぶやく梨花に、希和子は首を振る。
「そんなことないよ、すごく怖い目に遭ったんだもん、しょうがないよ」
 梨花はワンルームの狭い部屋の半分を占めるベッドにもたれかかってうなだれ、部屋の隅をじっと見据えた。
「あたし、もっと、自分は強いと思ってた」
 希和子は黙って、梨花の話を聞いている。
「犯人が逃げた後、エレベーターの管理会社の人がすぐに警察を呼んでくれてね。現場検証の後、警察署で事情聴取されて、被害届出して。刑事さんは見た目は怖いけど、すごく親切だったし、足とか腕とか、打ち身と擦り傷の写真を撮られるんだけどね、それは別室で婦警さんがやってくれたし。だから、そのときは、案外、平気な顔で、明るく、ありがとうございました、なんて言えてさ。マンションの前まで送ってもらって、いざ、オートロックを解除したとき、ものすごく怖くなったの。誰か、隠れてるんじゃないかって。エレベーターに乗ろうと思っても、怖くて足が踏み出せないの。それで非常階段から走って部屋まで逃げ帰った」
 そこで梨花は両手で自分を抱きかかえるようにして、ぶるると身震いした。
「ちゃんと、今日は仕事行こうと思ったんだよ。頭、切替えなきゃって。夕べはほとんど寝れなかったから、すぐに起きて、シャワー浴びて。身支度して、さあ、出かけようとしたんだけど、玄関まで行ったら駄目なの。ドアが開けられないの。開けようとしたら吐き気がして。何度も何度もドアノブに手をかけて、三十分くらいかけて、息を止めてえいやって開けて、よしって思ったんだけど。今度はエレベーターを見たら、変な汗がどっと出てきて、吐きそうになって、もう駄目だって思って、すぐに部屋に引き返した。結局、仕事には行けなかった」
 梨花の虚ろな顔を希和子はじっと見つめた。こんなに怯えた姿を初めて見たと気づき、どれだけ彼女が傷ついたのかを思うと、希和子の胸は締め付けられた。
「あたし、犯人に何の抵抗も出来なかった。言われるがまま、お金渡して。ただ、怖くて怖くて。しかも、顔、覚えてないの。見たと思うんだけど、記憶が飛んでて、思い出せないの」
 梨花の顔がぐにゃりとゆがんだ。恐怖がぶり返したのかもしれない。
「刑事さんが、親切に教えてくれたの。若い女性が被害者の場合、犯人がストーカー化する場合があるから、もし、身の回りで少しでも不審なことがあれば、すぐに警察に通報してくださいって」
 梨花は身体を小刻みに震わせ、両手で口元を覆った。
「もし、もし、また、あの、あの男に会ってしまったら、今度こそ、強姦されるか、殺されるかもしれない…」
 ゆっくりと持上げられた梨花の顔が、希和子に向けられた。目を充血させ、苦しそうにゆがめた顔が近付く。
「怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖いよ、怖いよお~」
 希和子はまた梨花をぎゅっと抱きしめた。パニックに陥り、もがく彼女を懸命に押さえ、
「大丈夫、大丈夫よ」と背中を軽く叩き、希和子も一緒に泣いた。
 梨花は希和子にとって、たった一人の自慢の友だ。行動力があって、いつでも自分の意思を貫き、そのための努力も惜しまない。けれど、希和子が困っているときは、何を置いても駆けつけてくれて、助けてくれる。そんな、輝いていた梨花がこんなにボロボロになるなんて。
 希和子の心が乱れる。静かだった湖面が、ゆらゆらと波を立て、それが大きな渦になっていく。
 許せない。絶対に許せないっ。
 そのとき、チチチとか細い鳴き声が聞こえた。二人はその小さな音に引き寄せられるように動きを止め、振り返った。
 床には梨花のバッグが放り出され、中身が散乱していた。手帖や財布に混じって、昨夜コンビニで買った、野菜ジュースとプリンが転がっている。その横倒しになったプリンの上に小豆色の生き物が覆い被さっている。丸いプリンカップが転がると、そいつも一緒に転がった。ベタリと床に寝そべってから、首を捻って二人に顔を向けた。
「ねえ、これ、ずっとここにあるけど、腐ってないかなあ」
 幼い子供の声だった。梨花は驚きのあまり、震えは止まったが、口をあんぐりと開け、唖然と目を丸くした。けれど、希和子は、目をしばたたかせてから、口元に笑みを浮かべた。
「オハギ?わたしのオハギなの」
 希和子が這いつくばって小豆色の生き物に顔を近づけた。オハギはチチチと鳴いて、鼻をヒクヒクさせた。
「希和子、久しぶりだね」
「あんたって突然、現れるのね」
 希和子は両手を伸ばして、手の中にオハギを包み込んだ。希和子の肩越しから、梨花が恐る恐る友の手元をのぞき込む。
「希和子、それ、何?あんたのペット?ネズミ?じゃないなあ。何だろ。しかも、なんでしゃべるの?」
 落ち着きを取り戻した梨花が、彼女らしい質問攻めをする。振り返った希和子は首をかしげた。梨花の顔色が、少しよくなっている。オハギのおかげかもしれない。
 希和子は梨花の手を引き寄せて、手のひらにそっとオハギを乗せた。彼女の顔に笑みが浮かんだ。
「何、これ。フカフカ。気持ちいい。それに、なんかいい匂い」
 梨花がオハギに頬ずりをした。オハギは目を細め、気持ちよさそうにチチチと鳴いた。
「ねえ、梨花、あのプリン、食べても大丈夫かなあ」
 さっきまで不審に思っていたのが嘘のように、梨花もオハギをすんなり受け入れたようで、普通に答えてやる。
「ああ、あれねえ。やめといた方がいいかも」
 しょんぼりとうなだれるオハギを見て、希和子がクスクスと笑い、紙袋を持上げた。
「これ、バームクーヘン。梨花、好きでしょ。買ってきたんだった」
 オハギの首がぴょこりと伸びた。それを見て梨花も笑った。
 その日、希和子は梨花の家に泊った。希和子の横で眠る梨花は、夜中に何度もうなされ、その都度起こし、背中をさすり、寝かしつけた。
眉間に皺を寄せたまま眠る梨花の姿を見ながら、希和子の顔が険しくなる。そんな希和子をオハギがじっと見つめている。希和子はオハギに目を合わせ、ゆっくりと落ち着いた声で言った。
「わたし、犯人を絶対に許さない。絶対にただではすまさない」
 オハギがヂーヂーと低い声で鳴いた。
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