第15話

文字数 3,239文字

 その日の夜中、アキラはふと目を覚ました。また、隣のジジイが何やら妄想トークを始めている。しかし、今日はいつもと違った。ジジイの声に答える、幼い子供の声が聞こえてきた。
「ここの病院はなかなか、快適じゃ、食事も悪くない」
「そうだね、前のとこは、食べれたもんじゃなかったよね」
「それに、療法士が、よいな」
「あ、作業療法士の美里ちゃんでしょ、サブのタイプだもんね」
「ははは、バレてたか。ワシがもう五十年若かったら、ほっとかんのじゃがな」
「美里ちゃん的には、五十年後でよかったかもね」
「どういう意味じゃ」
 ジジイと幼子が声を揃えてキャキャと楽しそうに笑った。
 アキラは暗闇の中で眉を寄せた。
 なんだ、孫でも来てるのか。でも、こんな夜中に面会できねえだろ、しかも、どう考えても五~六才の子供だ。一人で来るはずねえ…
 そう考えたとき、背筋がゾッとした。
 病院、深夜、子供の声、くたばりぞこないのジジイ…
 実は、アキラは極度の怖がりであった。テレビを観ていて、心霊番組やホラー映画のコマーシャルが流れただけで、すぐにチャンネルを換える。夜、一人で帰宅するときは、たとえ遠回りになったとしても墓地の前は通らない。若いモノたちが現場で怖い話を始めたら「くだらねえ話、すんじゃねえ」とどやしつける。彼らは無駄口を注意されたと思っているが、本当は、そんな話を聞いたら、その日の夜は、風呂もトイレも一人で行けなくなるからだ。
 結婚前に、千夏とデートで遊園地に行き、無理矢理お化け屋敷に連れて行かれたときは、半狂乱になって泣き叫んだ。情けない姿をさらしてしまい、これでフラれると覚悟したが、彼女はむしろ、弱点がわかってよかったと笑ってくれた。それが、よかったのか、悪かったのかは、微妙だが。
 アキラは隣から聞こえてくる会話が、普通じゃないと確信すると、布団を頭からかぶりブルブル震えた。しかし、二人の声は、依然と聞こえてくる。
「でもさあ、サブ、よかったよね。この病院に転院してから、ベッドから自分で起き上がれるようになったし、車椅子にも自分で移れるようになったもん」
「そうじゃな、まあ、これで、まだ、生きながらえてしまうのもどうかと思うがな」
「心配しなくても、すぐにお迎えが来るよ」
「お前は、いちいち、一言多いのお」
 二人は、また、楽しそうにキャキャキャと笑い声をたてる。
「そういえば、お隣の人、今日、ごねてたね」
「ああ、そうじゃな」
 自分のことに話題が移り、アキラはドキリとした。怖くて耳を塞ぎたいが、なぜか聞き入ってしまう。
「まだ、一ヶ月もたってないのにね、また、がんばれば、もっとよくなるのにね」
「うむ、確かにな。まだ若いし、体力はあるんじゃ、その気になれば、元通りになるかもしれんのにな」
「もったいないねえ」
「もったいないのお」
 しばらく沈黙の後、ごそりと音がした。ジジイがベッドから起き上がり、車椅子に乗り移ろうとしている。
「サブ、どこ行くの?オシッコ?」
「いや、ちょっと、お隣の様子を見てみようかと思っての」
「おいらも行く」
 アキラはギョッとした。
 嘘だろ、こっち来んのかよ…
 よいしょ、よいしょと言いながら、ジジイは車椅子に乗り移った。シャッとジジイのベッドのカーテンを開ける音がする。そしてキコキコと車椅子を動かす音。
 アキラはガタガタ震え、ただ、布団を握りしめるしかできない。音は近づき、いよいよ、アキラのベッドの前まで来た。そっとカーテンが動く気配がした。隙間から顔をのぞかせ、こちらを見ているのだ。
 ジジイの息づかいだけが聞こえる。アキラは、叫びたくなる衝動を抑え、奥歯にぐっと力をこめ、口を真一文字に閉じる。自然と鼻息は荒くなる。
 あっち行け、あっち行け…
 懸命に祈ったが、気配はまだ、そこにある。アキラの願いもむなしく、車椅子がキコキコと近付いてくる。ジジイがベッドの真横にたどり着いたとき、不意に、小さな何かがアキラの背中に飛び乗った。そいつは、モゾモゾと動きながら、頭の辺りへ降り立った。
 絶対、見ちゃいけねえ…
 そう思うのに、怖い物見たさで、つい、細く目を開けてしまった。暗闇に目をこらし、目が慣れたとき、見覚えのある物体がいた。
 丸い、モコモコとした、ネズミのような小豆色の生き物。そいつの小さな黒い目が、じっとアキラを見つめている。
「お、お前は、焼きそばパン」
「なんでやねん」
 小豆色の生き物は憤慨したらしく、不機嫌な声で言い返した。
「ふぉふぉふぉ、あんた、それが見えるのか」
 首を捻って、ジジイに目を向けると、アキラを見てニヤついている。
「そいつが見えるってことは、あんたも生き悩んでおるんだの。まあ、こんなとこにいるのだから、当然といえば当然だがの」
 アキラの頭は混乱した。子供の声はこのオハギみたいな小動物なのか。これは幻覚なのか、夢を見ているのか。
 アキラは自分の顔を平手でペチペチ叩いてみたが、目の前の生き物はそのままの姿で、不思議そうに首をかしげている。そんな彼の慌てぶりを見て、老人はクククと笑った。
「まあ、話をしようじゃないか。起きられるだろ、ほれ」
 アキラは戸惑いながら頷き、電動ベッドの背もたれを起こして、ベッドに座った。小さな生き物はピョンと、ジジイの膝の上に飛び乗った。その頭を手でなでながら、ジジイは遠山利三郎だと名乗った。仕方なく、アキラも「山本アキラです」と答えると、
「アキラだね、よろしく」
 小動物が答えた。さきほどよりは落ち着きを取り戻したアキラは、その生き物をまじまじと見た。
「なあ、じいさん、こいつはなんだ」
「これか。とりあえず、オハギと呼んどる」
「焼きそばパンじゃないよ」
 オハギはさっきのことをまだ根に持っているようである。
「いや、違うんだ。お前のことを焼きそばパンと言ったんじゃなくて。ここに転院する前、俺が救急搬送された病院で、お前、身動きできない俺の上で焼きそばパン、食ってなかったか」
 オハギは首をかしげ、利三郎の顔を見上げた。
「あんた、それはこの子じゃないよ。このオハギは、かれこれ六十年以上、ワシのそばにおるからの。あんたが見たのは別のオハギじゃろ」
 アキラは顎に手をあて、首を捻った。
 そういえば、あのとき、あの不思議な生き物は、春喜のポケットから顔を出したような気がする…。
 オハギがチチチと鳴き声をたてた。
「アキラ、リハビリ、ちゃんとしなきゃ駄目だよ」
 アキラは視線をオハギに戻した。オハギはチチと鳴いて頷く。
「アキラの運動機能は、ぜったい回復するよ。おいらにはわかるんだ」
「マジか、でも、もう、元の仕事なんて、できないんじゃ…」
 オハギはぶんぶんと頭を左右に振った。
「それは、アキラ次第だよ。諦めたらそこで終わり。もったいないなあ」
「ははは、アキラくん、オハギの言う通りだ。今まで、オハギの言ったことが外れたことはない。オハギと自分を信じて、気合いを入れ直すんじゃな」
 アキラはそのままジジイに目を向けると、怪訝な顔で尋ねた。
「なあ、じいさん、あんたの知ってることでいい、こいつのこと、教えてくれよ」
 利三郎はニヤニヤと、もったいつけるように顎をなでた。
「なら、リハビリを再開すると約束できるかな」
「わかったよ、明日から、ちゃんとやる、だから、教えてくれ。このままじゃ、今夜は眠れそうもねえ」
「ははは、なあに、たいしたことじゃない。こいつはな」
 利三郎が話しだそうとしたとき、足音とペンライトが近付いてきた。病室の扉ががらりと開き、年配の女性看護師が顔を出した。二人を見つけて、眉をつり上げる。
「まあ、遠山さん、山本さん。お二人揃って、今何時だと思ってるんですか。寝てください。ほらほら、遠山さん、自分のベッドに戻って」
 看護師が強引に利三郎の車椅子を引っ張り出し、ベッドへ連れていった。オハギは利三郎の手の中にすっぽり収まっていて、看護師は気付いてはいない。ジジイは首を捻って振り返ると、ニヤリと笑った。
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