第4話

文字数 2,877文字

 話し終えて、机の上に足を投げ出し座っているオハギを見ると、身体をブルブルと震わせて、鼻をクスクス鳴らしていた。小さな両手はぎゅっと握られている。
「え?もしかして泣いてるの?」
 顔を近づけると、オハギの小さな手が、希和子の頬をペタペタと叩いた。
「慰めてくれてるの?ありがと」
 オハギはそれに応えるようにチチチと鳴いた。なんとなく「葛城くんは、どうなったの」と問うてるような気がした。
「実はね、今日、梨花が言ってたんだけど。どうやら葛城くん、転校することになったって。お母さんの実家に行くんだって。だから、もう、会えないの」
 オハギが驚いたように目をぱちくりさせて、チチッと鳴いた。
「梨花って、そんな情報、どこから仕入れてくるんだろうね。あの子、きっと、将来は文春の記者にでもなるかもね」
 冗談めかして言ってみたが、オハギは反応せず、じっと俯いて動かない。何か、一生懸命、考えているように見える。
「オハギ、心配かけたけど、もう、大丈夫。あんたに話したら、少し、気持ちが落ち着いたよ。だから、もう、しょんぼりしないで」
 オハギが不意に顔を上げ、ごそごそと動き出した。机の引き出しに手を伸ばしている。
「何?どうかした?」
 希和子が引き出しを開けると、そこにはピンクのリボンで飾られた、茶色い小箱が入っていた。オハギはぴょんと引き出しに飛び移ると、その小箱の匂いをクンクン嗅いでいる。
「ああ、それ、渡しそびれたチョコ。あんた、食べる?」
 希和子が箱に手を伸ばした。すると、
「駄目だよ、そんなの」
 突然、声が聞こえた。男か女かは不明だが幼児の声だ。希和子は目をしばたたかせた。驚く彼女をよそに、声は続く。
「ねえ、このままじゃ、よくないよ」
 辺りをキョロキョロと見回すが、誰もいない。いや、ここにいる。視線を下げると、小さな小豆色の生き物が、希和子を見上げてニッと笑った。まさかと思ったが、間違いない。オハギがしゃべってる。
「あんた、しゃべれるの?え?なんで?」
「今は、そんなこと、どうでもいいの」
 自分をまっすぐに見据えて口を動かすオハギを見ても、まだ信じられずにいる。けれど、異変はそれだけではなかった。
 コツコツコツと何かを叩くような音がする。
 希和子は一瞬固まり、軽く息を吸い込んで、ゆっくりと辺りを見回し、その音が窓の外から聞こえていることに気付いた。
「ここって、二階なんだけど…」
 恐る恐る窓に近付き、ガラス越しに外をのぞき見ると、窓枠にしがみつく小豆色の物体が見えた。オハギだ。思わず後ろを振り返ってみたら、こっちにもちゃんとオハギはいる。窓の外と後ろを交互に見返し、外に二匹目のオハギがいるのだと理解した。
 外のオハギが窓ガラスにへばりつき、コツコツと窓を叩いている。希和子がゆっくりと窓を開けてやると、二匹目のオハギがピョンと飛び込んできた。そして口を開いた。
「早く、早く、急がないと、早く、早く」
 二匹目のオハギは後ろ足で立ち、前足を上下にバタバタ震わせながら、慌てた様子でしゃべった。それを見た希和子のオハギはコクリと頷き、素早く動いた。チョコの箱のリボンをくわえると、窓に向かって突進する。そして窓の外へぴょ~んと飛び出した。その後を二匹目のオハギが続く。
「オハギー、ここ二階なんだよ」
 あせった希和子は窓から身を乗り出し見下ろした。二匹のオハギはスローモーションのようにゆっくりと、クルクル回転しながら落下して、ストンと、地面に着地した。
 希和子は慌てて部屋を飛び出し、オハギが着地したマンションの駐車場へ向かった。彼女の姿を認めると、オハギたちは「早く、早く」と言って、四本の足で駆けだした。
「ちょっと、オハギ、待って、どこ行くの」
 訳がわからないまま、希和子は二匹の後を追った。オハギたちは時々立ち止まって振り返り、彼女がちゃんとついてきているかを確認している。
 オハギたちがずんずん進むにしたがって、希和子は二匹が、どこへ行こうとしているのか察した。
「え、うそ、まさか。なんで、知ってるの」
 一切の迷いもなく、オハギたちはどんどん、前に進む。希和子はとまどいながらも、後を追った。そして、たどり着いたのは、予想通りの場所だった。
 やっと追いついて、チョコの小箱を奪い返し、顔を上げた目の前には、愛おしい姿があった。
「葛城くん…」
 オハギたちが希和子を導いたのは、葛城くんが住む団地だった。彼が背を向けて立っている。彼の視線の先には軽自動車が止まっていて、運転席に母が、後部座席に弟が乗り込もうとしていた。その車に向かって歩き出そうとしていた葛城くんは、希和子の声に気付いて振り返った。目を見開き、驚いている。
「え?お前、清水?何してんだ」
 つなぐ言葉が見つからなくて、真っ赤になって俯き、その場に立ち尽くした。ほんの少しの間を置いて、彼の声がした。
「俺、もう葛城じゃねえよ、山本だ。母ちゃんの旧姓になるんだ」
 希和子が顔を上げると、あの、いつもの、葛城くんの優しい笑顔がそこにあった。たったの二週間ぶりなのに、もう、何年も会っていなかったみたいな、懐かしさがこみ上げてきた。
「あの、あの」
 もじもじと、その場から動けないでいると、チチチっと後ろからオハギの鳴き声が聞こえた。その声に背中を押されて、希和子は一歩前へ踏み出した。
「あの、葛城くん、じゃない、えっと、山本くん、これ」
 ゆっくりと手を差し出す。チョコレート色の小箱が、彼の目の前に現れた。
「なに?これ」
 葛城くん改め山本くんは半笑いの顔で首をかしげた。
「あの、バレンタインの…」
 彼はきょとんとした顔でチョコと希和子を交互に見て「はあ?」と素っ頓狂な声を上げた。それからほんのり顔を赤らめ、鼻をゴシゴシこすった。
 希和子はたまらず、両手を差し出したまま、頭を下げた。顔が熱くて、焼け焦げてしまいそうだ。
 山本くんは、頭を掻きながら、ゆっくりと希和子に近づき、チョコを受け取った。恐る恐る顔を上げると、彼は、はにかんだ笑顔を見せてくれた。
「ありがとう、じゃあな」
 希和子の目をじっとみて、その一言だけ告げると、彼はきびすを返し、車へ向かった。助手席の扉を開けるとき、チラリと振り返り、満面の笑顔で「元気でな~」と大きく手を振ってくれた。
 軽自動車が見えなくなってしまっても、希和子はいつまでもたたずんでいた。気付けば、オハギはまた一匹になっていた。
 一ヶ月後。希和子に小包が届いた。中は真っ赤なイチゴ。メッセージカードが添えられている。
『ホワイトデーってやつだ。俺のじいちゃんが作ってる。うまいぞ』
 オハギにひとつ、渡してあげると、ペコペコ頭を下げてからがぶりとかじり、この上なく幸せそうに目を細め、そのまま後ろへ倒れた。もごもごと起き上がれずにいたので、指でそっと起こしてやると、嬉々としてイチゴをかじっている。
 その様子を微笑みながら眺め、希和子も一粒手に取り、かぶりついた。今まで生きてきたなかで、一番おいしいイチゴだった。
 甘酸っぱい香りが、心の奥深くまで染み渡った。
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