第5話

文字数 4,740文字

 葛城春喜として生きた十四年間よりも、これからの山本春喜としての時間を大切にしろ、なんてことはない、そのまんま生きればいいんだ。
 春喜の祖父、山本義一はそう言って、日焼けした顔をほころばせた。泣きながら笑っている母の横で弟の良介は、ぽかんとした顔で、祖父と祖母と、伯父と伯母、母と兄の顔を代わる代わる眺めている。
 母の両親であるこの祖父母と会ったのは、ずいぶん昔のことだ。たぶん、春喜が小学校に行く前だから、良介は生まれて間もない頃だった。伯父伯母にいたっては、春喜だって会ったことがなかった。
 ろくでなしの父が、ろくでもない事件を起こしたおかげで、春喜と良介と母は、あの親父と縁を切ることができた。そして、母の実家がある山間部の田舎町へ引っ越してきた。近所には母の兄夫婦も暮らしていて、万が一、あのクズ親父が出所して因縁をつけに来ても、大工をしている母の兄、春喜にとっての伯父のアキラが追い返してくれるらしい。
「ハルちゃん、今まで偉かったな。これからはおっちゃんが守ってやるから、ハルちゃんは青春を謳歌するんだぞ」
 そう言って、角刈りのアキラ伯父は日焼けした顔に真っ白な歯をニッとのぞかせて笑った。春喜と同じで、あまり背は高くないけれど、力仕事をしているからだろう、二の腕の太さなんかは春喜の三倍以上ありそうだ。これなら、あのへなちょこ親父は尻尾を巻いて逃げていくに違いない。
 いきなりなれなれしく“ちゃん”付けで呼んだりするところをみると、それなりに気のいい伯父さんなんだと思う。その証拠に、実の父のことは怖がって近付こうとしなかった良介が、すっかりこのご陽気な伯父になついている。
 物心がついた頃から、ずっと、生傷が絶えなかった日々。歯を食いしばって母と弟を守るのが自分の役目だと信じて疑わなかった。そんな日常から一転して、これからは好きにしろと言われても、春喜にはピンとこなかった。
 母の実家の、だだっ広い、古い平屋で暮らすことになって、春喜と良介には、それぞれ自分だけの部屋をあてがわれた。六畳の和室という空間に、勉強机とベッド、箪笥に本棚など、必要な物は全部揃っている。これもまた、ありがたいのだけれど、なんとも落ち着かない気持ちで、春喜は椅子に腰掛け、真新しい机に頬杖をついた。
「青春を謳歌しろって言われてもねえ」
 独り言をつぶやきながら、ふっと、顔がニヤついた。団地を出発する直前、思いがけずにうれしいことがあった。同級生の清水希和子が息を切らせて駆けつけて、二週間遅れのバレンタインチョコをくれたのだ。春喜にとっては、母以外の女から初めてもらったチョコだ。わざわざ、持ってきてくれたのだから、本命チョコに違いない。それまでまったく意識していなかった女の子だったのに、こうなると、もう、ことあるごとに希和子のことを考えてしまう。これが、青春の謳歌というものなのだろうか。
 まだ開封していないチョコは引き出しの中にしまってある。春喜はあのときの、真っ赤な顔をした希和子のことを思い浮かべながら引き出しを開けた。そして、思わず椅子を蹴って後ろに跳びはねた。
「な、な、なんだ、なんかいる」
 引き出しの中のチョコの箱の横に、丸くて、ふかふかした、小豆色の物体がいる。あきらかに、生き物だ。
 春喜は倒れた椅子を起こし、その椅子の後ろに立って、用心深く引き出しの中をのぞき見た。その、小豆色の生き物は、丸まったままモゾモゾと動き出し、ぴょこりと顔を上げた。ちっちゃな黒い目がまっすぐに春喜を見つめて、チチっと甘えるように鳴いた。
「なんだ、ネズミか?いや、ちょっと違うか。何だろ、こいつ」
 人なつっこい顔を向けるところをみると、害のある生き物ではないように思う。そうなると、このふかふかの毛を触ってみたくなってきた。
「逃げるかな?」
 春喜がそっと手を伸ばし、人差し指でその背中に触れても、この生き物は逃げるどころか、余計に身体をすり寄せてきた。優しくなでるとチチチと、なんとも心地よさそうな声をだし、目を細めている。
「お前、誰だ?どっから来た?」
 謎の生物に語りかけると、そいつは春喜を見上げて首をかしげる。そして、チョコの箱に前足をのせてチーチーとねだるように鳴いた。
「え?食いたいのか?これは駄目だよ。他になんかないかなあ」
 部屋に食べ物は置いていない。祖母にいえば、何かもらえるかもしれないが、なんとなく言いづらい。春喜が考え込んでいる間も、小豆色の生き物はチーチーと食べ物をねだった。
「仕方ねえなあ。コンビニでも行って、何か買ってやるよ」
 春喜がそう言うと、そいつは理解したのかチチッと悦びの声を発し、後ろ足だけで立ち上がり、前足を天に突き上げた。万歳しているのだろうか?
 ダウンジャケットを羽織り、出かけようとすると、そいつは自分もついて行くとばかりに春喜の肩に飛び乗った。それをひょいとつまんでポケットに放り込むと、しばらくもごもご動いていたが、案外居心地がいいのか、すぐにおとなしくなった。
 玄関を出て、しばらく歩いたところで、重大なことに気がついた。ここは、今まで暮らしていた街中ではない。周囲には、店どころか、近隣の家さえはるか遠くにぽつりぽつりと見えるだけで、後は、田んぼと畑とビニールハウス。そして、山、山、山。この家に来る途中に車の窓から見た景色の中にコンビニなんてあった記憶がない。
 絵に描いたような田園風景の中、あてもなく歩いていると、すれ違った軽トラックが停車し、運転席から頭髪が薄くて丸顔の中年の男が顔をだした。
「お~い、ぼうず、見かけない顔だな。どっから来た?」
「え、あ、あの」
 何と答えていいのか迷って、春喜は口ごもった。怪しい奴だと思われたんだろうか。しかし、男は春喜が答える前にぱっと笑顔になると大きな声で言った。
「あ~、お前、りっちゃんの息子か。そうだろ、ぎいっつぁんが娘が孫連れてけえってくるって言ってたぞ」
 りっちゃんとは恐らく春喜の母、律子のことで、ぎいっつぁんは祖父の義一のことだ。春喜は大きく頷いた。
「やっぱりそうか、俺、りっちゃんの兄貴のアキラと中学まで同級だった田端信夫ってんだ。お前、アキラのガキん頃にそっくりだからすぐにわかったぞ」
 その言葉はなんとなくうれしかった。あの親父より、伯父に似てると言われた方が、この先、生きる気力になりそうだ。すっかり気をよくした春喜はできるだけ礼儀正しく挨拶をした。
「俺、じゃない、ボク、長男の春喜です。よろしくお願いします」
 ペコリと頭を下げると、信夫はにっこりと笑みを返した。
「それで、ハルちゃん、どこ行くんだ」
 身元がはっきりした途端、“ちゃん”付けになるのはこの土地では当たり前らしい。
「えっと、ちょっと、おやつでも買いに行こうと思って。あの、この辺りで一番近いコンビニはどこですか」
 信夫は一瞬きょとんとして、すぐにガハハと陽気に笑った。
「おめえ、コンビニなんてこっから二十キロ先にしかないぞ。おやつくらいなら、下の町の商店に行けばいい。ほれ、横、乗れ」
 ちょっと面食らったが、人のいい笑顔につられて、春喜は軽トラの助手席に座った。
 この男の話によると、春喜の祖父の家があるこの辺りは上の町とよばれ、文字通り、坂(山?)の上にある田畑が広がる地区で、ここから二キロほど下った坂の下の地区が下の町なのだそうだ。下の町は主に商店が連なり、上の町より人口が多いらしい。とはいうものの、この町全体の世帯数は百数十なので、上も下も目クソ鼻クソである。
 数分で到着した下の町は、確かに上の町より住宅や店舗が多いものの、どこも古ぼけていて、店も営業しているのかしてないのかわからない、薄暗くて、いきなり入るには勇気がいりそうな寂れ具合だった。春喜の戸惑いを感じ取ったのか、信夫は得意げに説明してくれた。
「あっちの雑貨店は石けんとかタオルとか日用品がある。向かいの銭湯の年間入浴券もあそこで買える。その三軒隣が食料品店。パンとか冷凍食品とか、菓子類も買える。ポテトチップみたいなもんならあそこで買えばいい。あと、甘いものなら、その角にある和菓子屋だな」
 信夫が指さす和菓子屋は、比較的、他の店より入りやすそうだった。ガラス戸には『きんつば』『そばまんじゅう』そして『おはぎ』の品書きが貼られていた。
「おはぎ?」
 そうだ、こいつ、そっくりだ。おはぎなんて食わせたら、共食いじゃねえか。
 春喜の考えが伝わったのか、ポケットの中の小豆色の生き物がピクリと反応したので、思わずぷっと吹き出した。
 ニヤつく春喜を見て、信夫は「和菓子屋がいいか」と声をかけた。春喜が頷くと車を停め、店のガラス引き戸を開けて中の店主を呼んだ。
 義一の孫だと名乗り一通りの挨拶をすませると、年老いた店主は大げさに喜んでくれた。話が長くなりそうだったので、早々に品選びをすませた。おはぎではなく、きんつばにすると、ポケットの中の生き物がほっと胸をなでおろしているような気がした。
 買い物をすませた春喜を家まで送ると信夫は言ったが、あまりにも手間をとらせすぎるのも気が引けた。
「あの、おじさん、だいたい道もわかったし、二キロくらいだったら散歩がてら、歩いて帰りますよ。おじさんもお仕事あるでしょ」
 信夫はきょとんとした顔で春喜を見ていたが、不意にガハハと笑った。
「子供が変な気遣いすんなよ。仕事ってったって、実家の酒屋の手伝いだからな、都会の会社員みたいにせかせかしてねえんだ」
 そう言って、通りの奥に顎をしゃくった。和菓子屋から五軒ほど離れた通り向かいに『たばた酒店』という看板が見えた。そこがこのオッサンの家らしい。確かにかなり暇そうだ。そんなわけで結局、行為に甘えて助手席に座った。
「ハルちゃんはずっと都会で育ったんだろ、こんな田舎じゃあ、退屈だよなあ」
「おじさんはずっと、ここで暮らしてるんですか?」
 春喜の問いに信夫はなぜか照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「あのさあ、そのおじさんってのやめてくれるか。俺、独身だし。ノブでいいよ」
「あ、すいません、じゃあ、えっと、ノブさん」
 信夫は満足そうに頷いた。
「俺は、他の連中みたいに高校は行ってなくてね。中学でたらすぐに自立したくて自衛隊に入った」
 春喜は目を見開いた。
「自衛隊って中卒で入れるんですか」
 信夫は得意げに胸をそらした。
「おうよ。まずは高等工科学校に受からにゃならんが、普通の中学の学力がありゃあ大丈夫だ。三年の全寮制なんだけどな、卒業できりゃ高卒になるし、なんといってもタダなうえ、給料だってでるんだぞ」
「中卒で自立できるんだ…」
「そうなんだよ。で、二十年ほど陸自でそれなりにやってたんだけどさあ、怪我してさ。左足がね、ちゃんと動かない」
 そういえば、さっき、店に入るとき、左足を引きずっていた。
「こうなるとよお、やっぱ、馬鹿は身体動かしてなんぼだろ。災害救助とかさ、最前線にでるのは無理なわけだし、結局、実家帰って、つぶれかけの店手伝ってるんだ。なんか、人の人生ってわかんねえよなあ。時間だけはクソほどあるから、もうちょっとなんか、勉強しようかなあなんて、思ったりもするんだけどさあ、パソコンとかさあ。あ、お前さあ、最近のガキは学校で教えてもらうんだろ、パソコン。俺に教えてくんない?」
 そう言って横目でちらりと春喜の様子をうかがって首をかしげた。
「なんだ、どうした?」
 春喜は口元をきゅっと結んで、ぼんやりと木々が生い茂る田舎道の遠い先を見つめていた。
 ポケットがガサリと動き、中からチチチとかすかな鳴き声がしたが、信夫はさほど、気にとめることもなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み