第7話

文字数 6,634文字

 イライラの原因が、春喜本人にもわからぬまま、数日がすぎた。その頃には、他の家族も、春喜の様子がおかしいことに気付いていた。
 だからその日、他愛のないことで弟の良介と口論を始めたのも、当然のなりゆきといえる。  最初はああ言えばこう言うというような兄弟喧嘩だったのが、だんだんと互いに声が大きくなった。今までなら、年の離れた弟をうまくあしらっていたのだが、そのときは苛立ちが収まらず、うっかり手が出た。それでもさほど、力が入ったわけではない。軽く突いたつもりだったのが、中学二年と小学三年の力の差は、春喜が思っていた以上のもので、良介は突き飛ばされて後ろに転び、柱に背中を打ち付け、派手に大泣きした。それを聞きつけた母親が慌てて良介を抱き起こし、春喜を睨み付けた。
「春喜、あんたはいつから弱いモノいじめをするようになったのっ」
 頭ごなしに怒鳴りつけられ、春喜はむっとした。息子の反抗的な態度に、母は頭に血を上らせて、ますます口調がきつくなる。
「せっかくここで、穏やかな暮らしが始まったっていうのに、今度はあんたがお父さんみたいに暴力をふるうつもりなのっ」
 この言葉は母が息子に言うべきものではなかった。
 今まで、春喜は一人、父の暴力の盾になり、母と弟をかばって殴る蹴るの痛みに耐えてきた。やられるばかりではなく、立ち向かい、さらに激しく痛めつけられたりもした。それでも二人を守らなければと思ったのは、母が泣きながら「ハルちゃん、ごめんね、ハルちゃん、ありがとうね」と言ってくれたからだ。味方だったからだ。それが、平和になった途端、春喜は敵になってしまったのか。
 怒りは絶望へと変わる。
 唇をかみしめ、両手をぎゅっと握ったまま、立ちすくんだ。その姿を見た母が、自分の失言に気付いたが、もう遅い。母が言葉をかけるより早く、春喜は家を飛び出した。
 走りながら春喜は思った。
 ここ数日、自分を苛立たせてきた、モヤモヤしたもの。はっきりとした形になっていなかったものが、明確な姿となって、目の前に突き出された。
 俺の役目は終わった。だとすれば、自分の中に残っているものは何だ。頭をよぎるのは、目をぎらつかせて春喜を殴る、父親の顔。
 どうにもならない不安と不満を振り払いたくて、春喜は一心不乱に走った。もともと不慣れな土地を闇雲に走り、しかも、目印となるようなものもない田舎の中で、さらには、まだしも下の町へ向かえばいいものを山に向かってしまったものだから、気付いたときには、薄暗い山道だった。
 そのときになってやっと冷静さを取り戻し、これはまずいと思って、来た道を引き返してみたものの、本当にこれが来た道なのかどうにも怪しい。歩けば歩くほど、山の中へ入っていくような気がする。
 歩き疲れてしゃがみこんだ春喜のパーカーのポケットからチチっと声がして、オハギが顔を出した。その顔を見て、少しほっとした。多分、何の助けにもならないだろうけれど、こいつも一緒だとなんとなく安心できる。
 オハギはポケットから這い出て、何かを訴えるようにチチチと鳴いて、背後を振り返った。促されるようにオハギの視線に目を向ける。けれども何もない。ただ、雑木林が続くばかりだ。
「なんもないぞ、オハギ。こりゃあ、遭難だ」
 投げやりな気分でそう言うと、オハギは首をぶんぶん左右に振り、耳をピクピク動かした。その仕草につられて、耳を澄ませてみると、かすかに水の音がする。川が流れているのだろうか。そういえば、喉が渇いた。こんなに自然がいっぱいだし、川の水は飲めるかもしれない。春喜が立ち上がると、オハギは道案内をするように、彼の少し前をちまちまと歩きだした。小さなオハギを見失わないように、その後を追った。
 だんだんと水の音がはっきり聞き取れるくらいになってきたが、なかなか行き着かなかった。一人だったら空耳だろうかと疑ってしまうが、オハギの迷いのない足取りにこの道で間違いないのだと思える。
 いよいよザーザーと大きな水音が聞こえてきた。川はこの先に絶対ある、それを信じて疲れた足を引き摺りながら春喜は歩いた。
 さっきしゃがみ込んだところから一時間近く歩いた頃、木立の向こうに流れる川を見つけたときは涙が出そうになった。春喜を振り返りながら進んでいたオハギが一気に駆けだした。春喜もすぐに走り出す。林を抜けて目の前の視界が広くなり流れる川が見えたのと同時に、川縁に誰かがいることに気がついた。小さな折りたたみ椅子に腰掛けて、川を眺めながらおにぎりを食べている。ずんぐりむっくりとした、頭髪の薄い男に見覚えがあった。
 オハギはその男に向かってまっしぐらに走って行く。そして、その膝へピョンと飛び乗った。男はのけぞり「わ~、な、なんだ?」と目を丸くしたが、すぐに表情を緩ませた。
「え、お前、オハギか、久しぶりだなあ、ん?お前、また違うやつか?」
 そう言って、小さなオハギ左手でつまみ上げ笑顔を向けた。あの笑顔は間違いない、伯父の幼なじみだと言っていた、信夫だ。
 オハギは信夫の左手で首の後ろをつままれ宙づりになった状態で、彼の右手にあるおにぎりをじっと見て、前後の足をばたつかせ、チーチーと鳴いた。信夫は「よしよし」と言ってオハギを地面に下ろすと、食べかけのおにぎりを差し出してやった。オハギはうれしそうにチーと悦びの声を上げ、おにぎりにかぶりつく。
 その様子をぽかんとした顔で眺めていた春喜の腹がグーと鳴った。まさかその音で気付いたわけではないだろうけれど、信夫が振り向いた。
「あれ?ハルちゃんじゃないか、ハイキングか」
 腹が減ったのと、喉が渇いたのと、人がいてほっとしたのと、オハギはおにぎりが目当てだったのかとあきれたのと、いろんな感情が入り交じって、春喜はへなへなとその場に座り込んだ。
 山菜採りに山へ入っていた信夫は、ここで遅めの昼食をとっていた。林道がすぐ近くまできているので、車はそこに停めてあるらしい。遭難しかかっていた春喜がオハギに救われたのは間違いなかった。
 信夫からお茶とおにぎりをわけてもらい、無我夢中で食べ、一息つきたところで、春喜はここに迷い込んでしまったいきさつを話した。
「りっちゃんも、ずっと辛かったんだろうなあ。きっと今頃、反省してるよ。許してやれよ」
 言われるまでもなく、その辺りは春喜も承知している。けれども春喜の苛立ちは母に対してではないのだ。
 むっつりとした顔で俯く春喜の言葉を信夫はじっと待ち続けた。腹がいっぱいになったオハギは信夫が地面に敷いてやったタオルの上で丸くなりクークーと寝息をたてている。
 春喜は川の流れをうつろな目で眺めながらぼそりと言った。
「俺も、おじさん、じゃない、ノブさんみたいに、中学出たら自衛隊に行こうかなあ」
「なんで?」
 問われて春喜はまた口をつぐんだ。
 川はザーザーと水しぶきを上げて勢いよく流れている。山頂の雪解けが進み、水量が増えているのだろう。
「俺、あの親父の血が流れてるから。あいつみたいに家族に暴力をふるってしまうかもしれない。そうなる前に、あの家を出て、一人で生きていきたい」
 ずっとずっと、その考えが頭から離れなかった。親父の暴力から母と弟を守ってきたのも、自分はこいつとは違うと思いたかったから。そうして、春喜は自分に流れる血と戦ってきた。けれどその戦いはあっけなく終わった。あいつが刑務所に行くようなことになったから。
 事件後は周囲の目が怖かった。家庭内暴力だけではなく、とうとう、強盗までしでかした親父の血をひいた息子。こいつもろくな大人にならないぞ、みんながそう言っているようで、自分自身も、そうなるんじゃないかという恐怖で、たまらなかった。それは、この町に来てからも変わらなかった。いや、むしろ真っ当に生きているこの町の優しい人たちの中にいる自分が、とんでもない爆弾を抱えているようで、それがいつか爆発するんじゃないかと思うと気が気じゃなかった。そしてとうとう、今日、弟を突き飛ばしてしまった。
 きゅっと下唇をかんだまま膝に額をくっつけて動かない春喜の背中を信夫がバシリと叩いた。
「いて、何すんだよ」
 思わず顔を上げると、信夫の真剣な顔があった。
「おめえ、自衛隊をなめんなよ」
 さっきまでの温厚なオッサンとは別人のような、低いドスのきいた声だった。春喜は思わず、ごくりとつばを飲み込んだ。
「親父の血が怖いから自衛官になるんだって、馬鹿にすんな。自衛隊はてめえの逃げ場じゃねえ」
 眉間に皺を寄せて、信夫は作業服のポケットからタバコを取り出し、火を点けた。ゆっくりと吸い込むと、鼻から勢いよく煙を吐き出した。
 最初はあっけにとられ、ぽかんと信夫の顔を見ていただけの春喜だったが、だんだん、腹が立ってきた。
「なんだよ、オッサンだって、頭よくなかったし、中学でたら自立したかったから自衛隊に行ったって言ってたじゃないか」
 口を尖らせる春喜を横目でジロリと睨み付け、信夫はまたタバコを深く吸い込んだ。濃い煙が鼻の穴と口からもくもくと立ち上る。
「そんなの、適当に決まってんだろ。初対面のガキに、いきなり真面目な話なんて、するわけねえだろが」
 春喜はむっつりとした顔で睨み返した。オッサンとガキが睨み合い、沈黙が続いたとき、不意にチーチーと切なそうな鳴き声が聞こえた。二人の不穏な空気に気がついたオハギが起きだし、何かを訴えるように、信夫と春喜を交互に見ながら鳴いている。
 その姿を見て、信夫がふうっと息をはき、もう一口吸ってからタバコを携帯灰皿でもみ消して、そっとオハギをすくい取り、頭をなでた。
「ま、俺だって、志とか使命感とか、そんなもんが特別あったわけじゃねえけどな。でもなあ、入隊してみて、ここは軽い気持ちで来るとこじゃあねえって、よおくわかった。例えばさあ、災害救助だって、すべての人の命を救えるわけじゃないし、すでに亡くなった人を泥かきわけて救い出すこともある。二次災害で命を落とした奴もいた。海外派遣の話がでりゃあ、びくびくする。お前、そこんとこ、わかって言ってるか?」
 春喜はすねた顔で黙り込んだ。返す言葉が見つからない。
「おめえは、たぶん、世の中のお前と同じ年頃の奴が空気みたいに感じてる普通の幸せを知らない。そんでもって、多くの人が一生かかっっても経験しないかもしれない辛いことを、その年で経験しちまった。けどなあ、お前の人生は、まだこれからだろうが。俺の三分の一しか生きてないんだぜ」
 春喜はゆっくりと顔を上げた。さっきまでの攻撃的な表情は消え去り、迷子の子供のような、おどおどした眼差しを向けた。
「けど、けど、俺があの親父の子だってことは、乱暴者で犯罪者の血を受け継いだってことは一生消えないんだよお」
 信夫は春喜の頭を両手で包み込んで目線を合わせて言った。
「人間ってのは完成形では生まれてこない。おぎゃあって言ったときには、確かに親から受け継いだ、最低限の初期設定があるわな。それは生物としての本能、食って、寝て、クソしてっていうもんと、あとはわかんねえ、いろんなもんがあるんだろうけど。けど、そっから色んなコトを学習してだんだん人間になっていくわけだわなあ。そいつは主に周囲の環境からどんどん取り入れるから、色んな人間ができあがるわけだろ。お前の場合、今まであんまりいい環境じゃあなかった。だから、恐怖とか不安が凝り固まってしまったんだと思う。でもな、お前はまだ未完成だ。まだまだだ。お前っていう人間はこれから作られるんだよ。この先、どういう人間になるかはお前次第だ。それを、うまくいかないからって親から受け継いだ血のせいにするのは卑怯じゃないか」
「卑怯?」
「卑怯は違うか?なら、残念だ」
「どうせ俺は残念な奴だよ」
「そうだ、今のお前は残念な奴だ。お前、ぎいっつぁんのイチゴ食ったか?」
 いきなり話がぶっ飛んで、春喜はきょとんとした顔で目をしばたたかせた。
「食ったけど。それ、今の話と関係あるの?」
「おおありだ。イチゴ、美味かったろ」
 春喜はこくりと頷いた。信夫はしたり顔でにんまりする。
「あのイチゴの味はな、ぎいっつぁんしか作れねえんだ。おんなじ苗を他の人が育ててもあの味にはならねえんだ。ぎいっつぁんがイチゴたちに与える時間があのイチゴの味を作り出すんだ」
 春喜は不思議そうな顔で首をかしげた。
「人間もそういうことなんだよ。人の人生を決めるのは血なんかじゃない。どんな時間を過ごすかなんだよ、わかったか、クソガキ」
 わかったような、わからないような、理屈なのか、へりくつなのか、今の春喜にはわからない。けれど、自分はまだまだガキで、もうちょっと、いろんなことを考えてみるのがいいのかなあという気にはなった。
 なんとも消化不良な顔をしている春喜を見て、信夫はガハハと笑った。
「おめえ、中学卒業するまであと一年あるんだろ。それまでに、ほんとに自衛官になりたいって思ったなら、そうすりゃいいし、まだよくわからんようなら、とりあえず、普通科の高校行け。俺たちの頃と違って、お前らの世代はガキが少ないから、多少の馬鹿でもどっか入れるだろ。そしたら将来についてまた三年間、考える猶予ができる」
 春喜はあからさまにムッとした。
「なんだよ、勝手に人のこと馬鹿だって決めんなよ」
「おめえ、成績いいのか?」
「いや、中くらいか、中の下…」
 口をすぼめて上目使いを向ける春喜に、信夫は指をさしてケケケと小馬鹿にするように笑った。その指を「うるせえ」と払って、春喜も一緒に笑った。
「よっしゃ、じゃあ、そろそろ帰るか。今頃、りっちゃんたち心配してるだろうしな。そうだ、これ、土産だ、りっちゃんに渡してくれ」
 そう言ってビニールの手提げ袋を押しつけた。中には黄緑色のずんぐりした植物がぎっしり入っている。春喜は「何これ?」と首をかしげた。
「おめえ、やっぱ馬鹿だなあ。フキノトウも知らないのか」
「フキノトウ?なんか、聞いたことはあるけど、山菜?」
「そうだよ。こいつは春一番の山菜でな、こいつが顔を出すと、春はすぐそこ、冬はおしまいだ」
「ふうん…」
 信夫に連れられて家に帰ると、母が泣きながら春喜を抱きしめた。たぶん、ごめんごめんと言ってるんだろうけど、泣きすぎて何言ってるかわからなくて、思わず笑いがこみ上げると、アキラ伯父に「笑ってる場合か、心配させやがって」とげんこつで頭をぐりぐりされた。
 その日の夕飯には、信夫がくれたフキノトウが天ぷらになって食卓にのぼった。こんなもん、食えるんだろうかと恐る恐る箸でつまんでかじってみた。さくりとした食感の後、すがすがしい香りとともに、苦みが口の中に広がる。変わった味だなあと思ってまわりを見たら、良介は顔をしかめて吐き出しているが、大人たちは美味そうにパクついていた。なるほど、これは大人の味か。なら、まずくも美味くもないと感じる自分は、子供と大人の中間というわけか、などと考えていると、祖母が言った。
「これを食べると、しんどかった冬がチャラになる。新しい春が来るねえ」
 祖母の言葉を聞きながら、春喜はフキノトウの苦みをゴクリと飲み込んだ。
 フキノトウの天ぷらを一つだけ隠して部屋に持ち帰り、オハギにあげてみた。苦いから食べないかなと思ったが、予想に反してオハギは美味そうに平らげた。
 まだ食い足りない顔をして春喜をじっと見つめながらチチチと鳴いている。そのときふと引き出しに目をとめた。中にはあのチョコの箱がある。
 思い切って、リボンをほどき、箱の蓋を開けてみた。甘い香りがぷんとする。六個並んだ丸いチョコの一つをオハギに渡すと、前足で抱えたまま、珍しくすぐに食べない。チラリと春喜の様子を窺うように視線を向けた。
「いいよ、食って。俺も食うから」
 そう言ってやると、チチチとうれしそうに一声鳴いて、ペコリと頭を下げてからかぶりついた。春喜も一粒つまんで、口に放り込む。ミルクの風味が広がると、なぜか顔がふにゃりと緩んだ。
「そういや、お返しとか、しといた方がいいのかなあ」
 春喜のつぶやきに応えるようにオハギがチーチーと鳴いて頷いた。
「だったら、やっぱり、あれだよな」
 翌日、祖父と一緒にイチゴを摘んだ。綺麗に箱に並べながら、これを口にする希和子の顔を思い浮かべ、春喜はこっそりほくそ笑んだ。
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