第13話

文字数 1,985文字

 まだしばらくは、また暴れて管を引き抜くことがあるといけないので、手を拘束されるため、妻の千夏ができるだけ付き添うことにしたのだが、さすがに一人では身体がもたない。そこで、みんなで交代するようにしようと律子が提案した。もちろん、誰にも異論はない。春喜も手伝うと申し出た。なんといってもこの中で一番暇なのは自分だから、特に夜中の付き添いを買って出た。
 その夜、ふと目覚めたアキラは、ベッドの横の椅子に腰掛け、うつらうつら船をこぐ春喜を横目で見た。
 一晩中、寝ずの番をするって言ったくせに…
 と、思ったが、そばにいてくれるだけで充分かと思った。なんといっても、拘束されずにすむ。
 安堵して、もう一度目を閉じようとしたとき、ガサリと物音が聞こえた。何か、小さなものが動いているようだ。それは、春喜の方から聞こえる。何事かと、じっと目をこらしていると、彼のジャンパーのポケットがもごもごと動いている。そして、何か、小さな、小豆色をしたモコモコしたやつが、顔をのぞかせた。そいつはポケットから頭と前足を出し、きょろきょろと辺りの様子を窺い、ベッドの横の棚に置かれたビニール袋に気付くと、ぴょんと飛び出し、棚に着地した。そして、ビニール袋に頭から突っ込むと、中から、春喜が食べ残したパンの袋を引っ張り出した。
 アキラはその様子をじっと見ながら、怪訝な顔をした。
 病院に、こんな、ネズミみたいな生き物、いるわけねえよな。しかも、春喜のポケットから出てくるなんて。もしかして、また、意識障害とやらが起こって、幻覚を見ているのだろうか。それはそれで、怖いなあ、でも、幻覚ってのは、こんなにリアルなんだろうか。
 アキラは少しでも小豆色の生き物を観察しようと、身動きできない身体を、なんとか少しずつ動かした。ほとんど位置は変わらないが、首だけは傾けることができた。
 視線の先のモコモコは、自分の身体の倍の大きさの焼きそばパンと格闘していた。なんとか封を開けようと、パンの上に乗っかり、そのまま滑り落ちてパンの下敷きになって、もがきながら這い出たりしている。けれど、努力もむなしく、パンの袋はいっこうに開かない。そのうち、アキラの視線に気付いたのか、身体を捻って振り返ろうとしたが、バランスを崩してコロリと転がった。思わず、アキラは手を伸ばそうとしたが、うまく動かない。幸い、モコモコはすんでのところで棚の端で止まった。今度は身体を捻らず、もじもじと動きながら向きを変え、アキラと顔を合わせ、チチっと鳴いた。小さな黒い瞳がじっとアキラを見つめている。なんとも間抜けで愛らしい生き物だと思った。
 小豆色のモコモコは、パンの袋をくわえると、えいっと勢いをつけて、横たわるアキラの胸元に飛び乗った。そして顔の近くまでパンを引きずっていき、チチチと甘えるような声を出した。
「なんだ、開けろってか、無理だよ。ほら、身体が動かねえんだ」
 やはり、幻覚か夢なのだろう、ちゃんとした言葉を話せてる。けれど、身体は思うように動かない。
 チーチーとねだるように鳴いているモコモコは、何かを思いついたようにぴんっと背を伸ばし、布団を滑り降り、アキラの右手の下に潜り込んでゴソゴソと身体を震わせた。ふんわりとした毛の感触がこそばゆくて、思わず指を動かした。
 え?指、動いてんじゃねえか…
 自分の意思通りに指が動いたことに驚いて、手を持ち上げようとしてみた。さすがにそれは無理だった。けれど、なんとなく、動く感覚を思い出しつつあるような気がする。もう一度、腕を胸の上に引き上げようと試みる。すると、モコモコの奴が、手の下にもぐって前足をつっぱり、手伝ってくれた。ちょっとずつ、ちょっとずつ、モコモコが支えになってくれて、なんとか胸の上まで持ち上げることができた。
 おお、できた。たったこれだけのことが、こんなにうれしく思うなんて新鮮だな…
 アキラが小さな感動を覚えていると、モコモコがパンの袋を手に押しつけてきた。前足で人差し指と親指を開き、その間に袋の端を握らせる。思ったよりもしっかりと握ることが出来た。
 アキラが袋を握ったことを確認すると、モコモコは指先からはみ出た袋の端をくわえて一気に引っ張った。パリッと、軽い音をたてて、袋が開いた。
「お前、これがやりたかったのか」
 モコモコはチチっとうれしそうに一声鳴くと、開いた袋からパンを引っ張り出し、がぶりとかぶりついた。咀嚼しながら目を細めている。
 その姿をじっと眺めながら、ふと思った。
 小豆色のまあるい、物体、なんかに似てる。
「そうだ、オハギだ」
 オハギのような生き物は、幸せそうに焼きそばパンをたいらげ、満足するとそのままアキラの胸の上でコロリと横たわり、寝息をたてた。
 スースーと動く、小さな腹を見ていたアキラも、引き込まれるように、いつのまにか眠っていた。
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