第24話

文字数 2,759文字

 そいつは突然現れた。
 男は、二十代後半の、あまり特徴のない普通の会社員だった。仕事を終えた男は、コンビニの袋を手に一人暮らしの古びたアパートへ帰宅した。いつものようにシャワーを浴びて頭をバスタオルで拭きながら、冷蔵庫の中から缶ビールをとりだした。
 テレビの前の座椅子に座りビールを開ける。テレビを観ながら一口飲んで、小さな座卓の上に置いたスナック菓子の袋に手を伸ばしたとき、柔らかい毛の固まりのようなものに指先が触れた。
「なんだ?」
 思わず手を引っ込めて、スナック菓子の袋をのぞき込むと、そこには小豆色をした小さな毛むくじゃらの生き物がいた。バリバリと音を立てて、菓子を食っている。
「わ、なんだ、ネズミか」
 男は驚いて立ち上がり、そばにあった雑誌を手に取り振りかざした。バシリと袋ごと叩き潰したのだが、生き物を仕留めた感触はない。
 雑誌を持ったまま周囲をキョロキョロと見渡し、座卓の下をのぞき込み、座椅子を持上げたりしたが、どこにも見当たらない。
「くそ、どこ行きやがった」
 気を取り直して座り、ビールを飲もうと視線を向けると、さっきの生き物が缶を押し倒した。ビールが座卓の上にこぼれ、それを生き物がピチャピチャと舐めている。
「わ、クソ」
 男は雑誌を投げつけたが、またもや素早くかわされた。雑誌がこぼれたビールの上にべちゃりと張り付いた。
 男がイライラしながら、ティッシュペーパーでこぼれたビールを拭いていると、台所の方からガサゴソと音が聞こえた。
「そっちか」
 今度はハンガーを手に、足を忍ばせ台所へ向かう。調理台の上に置いてあったコンビニ弁当をむさぼり食う小さな生き物、そうオハギだ。
「コノヤロー」
 男は叫びながらハンガーを振り下ろしたが、オハギは瞬時に移動して、ハンガーはぐしゃりと弁当を叩き潰した。
「クッソー、なんて逃げ足の速い奴だ」
 結局、男は、その日はほとんど食い物にありつけず、ふてくされて空腹のまま寝た。
 翌朝、何か食べるものはないかと探していると、レトルトのカレーを見つけた。飯はないが、カレーだけでもいいかと思い、湯煎のための湯を手鍋で沸かした。沸騰したのでレトルトの袋を浸そうとしたとき、男は「ぎゃ」と悲鳴を上げた。
 カレーの袋が破けている。そして、そのカレーを二匹のオハギがぺちゃぺちゃと音をたてて食っている。
「二匹に増えやがった」
 男は思わず拳を振り下ろしたが、叩き潰したのはレトルトのカレーだけだった。手にべっとりと付いたカレーを呆然と眺めていると背後からヂーヂーと低い鳴き声が聞こえた。ゆっくり振り返ると、二匹のオハギが男をあざ笑うように見上げていた。手鍋を投げつけると、二匹はすぐに姿を消す。鍋と熱湯が床に飛び散った。
 そのときになって、背筋に冷たいものが走った。どうも、普通のネズミではないような気がしてきた。気味が悪くなり、急いで手を洗い、身支度をして、その日はひとまず会社へ出勤した。
 午前中は腹が減り、仕事が手に付かなかった。昼の休憩の合図と同時に席を立ち、食堂へ向かった。
 ラーメンとチャーハンをトレーに乗せ、空いた席に座って、やっと一息ついた。向かいに座っていた同僚が何か話しかけてきたが、適当に答えて箸を手に取ったとき、男は自分の目を疑った。
 ラーメン鉢に前足をかけてぶら下がり、麺をすするオハギがいた。さらに、チャーハンの山に頭を突っ込み、もりもり頬張るオハギがいた。思わず「うお~」と叫び声を上げ、トレーごと払いのけた。
「な、なんだ、どうした」
「ネズミが、ネズミが」
 青ざめる男が指さす方を同僚がのぞき込み、首を捻った。
「ネズミなんていねえぞ、あ~あ~、全部ぶちまけやがって」
 男は恐る恐る、床に目を向けた。そこにはラーメンとチャーハンが散乱しているだけだった。
 何も口にすることができず、なんとか一日を終えた。昼間見たネズミは、空腹のあまりの幻覚だったに違いないと自分に言い聞かせた。
 コンビニに寄り、食料を買い込んでアパートの外階段を上ってすぐの二階の部屋の扉の鍵を開け、男は自室に入った。鍵をかけて明かりを点け、部屋の中をゆっくり見渡す。気配は何も感じない。
「ふう、どっか行きやがったか」
 コンビニの袋からおにぎりとカップ麺、肉まん、弁当を取り出した。ヤカンに水を入れ、湯を沸かす。その間におにぎりの包装紙をめくった。
「まったく、あのネズミみたいなのは、なんだったんだ」
 一人つぶやきながらおにぎりを口に運ぼうとしたとき、異変を感じて、思わずおにぎりを放り投げた。
「また、出やがった」
 床に落ちたおにぎりにオハギがおおいかぶさり、あっという間にむさぼり食った。さらにガリガリという音がする方に目を向けると、もう一匹のよく似た生き物が、カップ麺の容器をかじって穴を開け、その中に頭を突っ込み、中の麺をかじりだした。さらに、肉まんにも、もう一匹が食らいつき、ものすごい勢いで食っている。
「わあ、三匹に増えた」
 男は癇癪を起こし、水の入ったヤカンを床のオハギに投げつけた。しかし、その小さな生き物は素早く身を隠し、水滴さえも浴びてはいない。
「どうなってんだ、クソ~」
 男は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。その間にも、オハギたちは容赦なく、男の食料を一心不乱に食っている。あっという間に、買ってきた食べ物がなくなり、オハギも消えた。
「ちっくしょう、腹減った」
 また買いに行くのも億劫だったので、宅配ピザを注文した。待ち時間はいつもより長く感じた。玄関で待ち構え、ピザを受け取ると、座椅子に座ってすぐに蓋を開けた。チーズの匂いを嗅いだ途端、腹がグーと鳴った。涎をすすり、カットされた一切れに手を伸ばした。
「痛てっ」
 指先に痛みを感じて引っ込めた。見れば小さな傷口から血が滲んでいる。ピザに目を向け、固まった。三匹のオハギがピザの中央にのっかり、鋭い牙をむきだして見上げている。三匹は威嚇するようにヂャーヂャーと不気味なうめき声を上げた。空腹のあまり気が立っている男は「うお~」と叫びながらオハギたちを手で払いのけようとしたが、ガブリと噛みつかれ「ぎゃ」と手を引っ込めた。さっきよりも深い傷口から血が噴き出した。半泣きになりピザを見ると、すでに跡形も無く食い尽くされていた。
 翌日、会社を休んだ。腹が減って仕事に行く気力がなかった。友人たちに「ネズミに食料を奪われる。ヘルプ食料」とメッセージを送ったが、誰も信じてくれなかった。
 仕方なく、力を振り絞り、近所の定食屋へ行った。しかし、目の前に料理が並んだ途端、三匹のオハギがどこからともなく現れ、一瞬にして平らげてしまった。店員が「もう食べたんですか」と目を丸くした。他の誰にも、この奇妙な生き物が見えていないのだと思った。
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