三三 煙焔

文字数 5,054文字



 (ゆく)が兵を引かせてほどなく、涸れた川に水が流れた。(むつ)の考え通りに。
 予想は(たが)わなかったが、その流れの堂々たるや、行さえ目を(みは)るほど。もともとが広い川を満たし尽くし、それでなお荒ぶるほどの水流。なるほど、別千千(ことちぢ)行を敵にまわすとはこういうことなのだ、行はそんなふうに思いもした。
 今、行は(しず)とともに天幕の(うち)にいた。天幕を組み立てたのだ。仮に川を渡るとしても、流れは激しく、渡河(とか)には手間取る。時間を食う。外で馬に乗っていても仕方ない。行は机を前に置き、椅子に座っている。沈はいつもの通りに茣蓙(ござ)の上だ。
 行は考える。これが別千千行の戦術であれば、これだけの水、無駄遣いはしない。水とは資源だ。(いくさ)だけを理由に大量に奪えば、別な誰かが敵になる。敵を倒すために敵を増やしては意味がない。まして(かく)のやることだ、配慮に欠けるはずがない。そう考えれば、羽撃ちの兵を(あらた)に立ち向かわせることにも、何か工夫があろう。
 前方にある川は、渓谷として山を抜けて、月垂(つきしず)りの首府のすぐそばを通り、海に注ぐ。おそらくは、首府の近くに巨大な湖でもこしらえているだろう。そこを()き止めてある。水流は海に流れ込まず、湖に溜まる。月垂りは、土地柄、慢性的な水不足に喘ぐ国。
 つまり、これは

だ。将来の友好国に水という資源を提供する

、敵軍の足留めもできるとなれば、上出来もいいところ。
 隠は時刻を定めておき、上流、羽撃(はう)ちの領内にある(せき)を切るよう、指示を出していた。他の川と繋ぐか、湖にでも水を溜めたか、あるいは両方、どうあれ手法は問題ではない。指定の時刻までまんまと粘られ、川は流れで満ち、すぐに止まるはずもない。その現実が問題なのだ。
 鬼の率いる八〇〇〇の兵さえも撒き餌だった。川の流れが壁になりようはずもない。これも時間稼ぎだ。
 隠は最初から、

を、列椿(つらつばき)の軍の前に用意するつもりだった。
 天幕の布が力なく分けられ、姿を見せたのは睦だった。その顔は、表情こそ気丈に保っているが、肌からは血の気が失せている。睦は副将として、状況を行に報告した。
「行殿の言った通りです。森が、


 隠が目指したことは、まさにこれなのだ。不倒の壁。ついに現実となったのは、煙焔(えんえん)の森。月垂りの軍が森に退けるはずもない。

は守らねばならない。
「なにせ乾期だ。よく燃えるだろうね。風も吹いてる」
 風は強まる一方で、手心を加えてくれそうにはなかった。
「東からの強風に煽られて、燃え広がっています。

へ。月垂りの軍は、森の端に火を点けただけで、森の先、首府の方角へと下がる様子でした」
「この風ならね」
 隠は本当に気が利く。月垂りの軍は、倍近い数の敵を相手にして消耗が著しい。さっさと引いて、体勢を立て直したいだろう。風があれば、方々に火を点けて回る手間が省ける。
「月垂りの軍は火に追いつかれないように戻ればいい。川が時間稼ぎをしてくれる。あたしたちが川を渡った頃には、もう森は火の海だ」
 行が天幕の(うち)で思考を巡らせ、方策を求めている間、副将である睦が兵たちを統率していた。無論、羽撃ちの離反については説明していない。川に水が流れたのは、

の工作である、そういうことになっている。
渡河(とか)の準備は進めさせています。しかし、渡りますか?」
 行は考えを巡らせるのに必死で、睦に細かい指示は与えていなかった。それでこれなら、もしかして、睦はいつか、語り継がれるような英傑になるかもしれない。成長の速度、度合いが、今まで見てきた他の誰をも超越している。
「準備を進めさせて大正解。極限状況下では、たとえどんな命令でも、ないよりは

。何も言わなきゃ、統率を放棄したのと同意義だからさ」だが、行がそれより感心したのは、続いた疑問の言葉のほう。統率を保つため、睦は

と知る命令を出したのだから。「気づいてるね。渡っても意味がないって」
 睦は頷いた。失せた血の気が、さらに消える思いで。
「水を流したのは羽撃ちの軍です。羽撃ちの軍が川の流れに阻まれるなど、どうしてあるでしょう。我々が川を渡ったとしても、羽撃ちの軍が着く頃には、きっと、水は再び涸れている。そして、我々はどのみち、森を抜けることはできない」
 なぜ不倒の壁たり得るのか。炎がうねるからか。否。
「そう。抜けられない。煙があるから」
 睦は火事の際の常識として知っているのみだが、行はさらに踏み込んだ理解を加えた。
「焼かれることが問題なんじゃない。木が燃えることで、空気が変質することが問題なんだ。呼吸のための酸素が欠乏し、代わりに、人にとって有毒なものが満ちる。それが八〇〇〇の兵なら、あるいはその十倍でも、倒そうと思えるけど、相手が空気じゃね、どうしようもないよ」
 いかに圧倒的優位、勝ちが明白な状況下でも、常に安全策は用意しておけ、行はそう教えてきた。当然、師である行もそれを実践している。紫紺六魂組(しこんりくたまぐみ)を相手にする時でさえ、改ではなく(ささや)を行かせた。改を行かせても失敗はないだろう。しかし、ふたつ目の咎言という保険があるかないか、それが優先された。
 今回の(いくさ)も同じく。行は

、ひとつの安全策を仕込んでいた。
 行は考えている。
 本国に送った

のことを。その鳩に託されたひとつの

のことを。
 不測の事態に対処できるよう、前もって仕込んでおき、そして、羽撃ちの離反が知れた時に

使

保険。
 


 効力を持つはずがない。その時、行は隠を自分と同格だとは思っていなかった。認識違いで考えたものが、うまく成るはずもない。必ず看破される。
 だから、考えなくてはならない。本当なら意味のない保険を、どうすれば別な形で活かせるのかを。
 こちらの動きは全て読まれ、もはや身動きもできない。月垂りの軍を敗走させた後、勝利の余勢を駆るのなら、まだ勝機もあるだろうが。
 八刀鹿訂を失ったとて、月垂りの軍はまだ十分に戦える、体勢を立て直す間もある。氷月弓澄の用兵に翻弄された記憶は鮮烈。水流と火の森に意気を削がれ、退く余地なく羽撃ちの軍と向き合うか? 離反が知れ、兵の意気はさらに下がる。さらには、月垂りの軍がいつ大将の仇討ちに来るか知れないとなれば――
 ――勝てない。
 相手を出し抜くとしたら、唯一、現時点で

があるとしたら、それは、たった一羽の伝書鳩だけなのだ。
 だから、考えている。
 たった一羽の鳩。
 それが運んだ、


 それで、それだけで、


 (いくさ)を遊戯と考えるより、こっちのほうがよっぽど正気ではない。行自身、そう思う。
 ――どうすればこの(ゲーム)に勝てる? どうすれば。
 しかし本気だ。自嘲などどこにも含まれない。行が勝利を諦めることはない。
 だから単に、十三の少女としての、無考えな甘えとして、行の口から滑って出た言葉だった。伝書鳩のことを考えていたからか、ふと言っていた。
「伝書鳩、まだ残ってたよね? 睦、本国に遺書を送っといたほうがいいかもよ」
 睦は、それが本気で言われたこととは思わなかった。たとえ軍神(いくさがみ)と畏怖されようと、軍を預かろうと、行はまだ人として未熟な少女でもあると、知っていた。
 けれど、


 あまりにも耐えがたかった。力を限りなくいっぱいに込め、握りしめた拳、爪が立って痛みに満ちたその手を、怒りのままぶつけてしまわないように、必死に、涙をこらえるほど必死に、耐えた。
 こらえた。その拳を、腰の脇に留めおいた。
「あなたが上官でなければ、殴っている」
 睦ははっきりと口にした。拳の代わりに、行を睨みつける瞳で、打ち据え、殴ろう、そんな意志の宿る眼光があった。
「兵を鼓舞するはずの将が、部下に遺書を勧めるとは、いったい何ごとなのか! まさか、八刀鹿訂が何のために死んだのか、わからないとでも言うつもりか!」
 咎持ちでない、ひとりの人間の奮戦で、戦況がひっくり返るはずがない。兵だ。八刀鹿訂はその死をもって、兵を導いた。子細はわからずとも、それだけは明白だった。
「何が戦勝請負か。最初から、この世のどこにも! 

!!
 それでも、睦は従う。殴らず、統制を守る。
 必勝不敗の神話など信じていない。行はたぐり寄せられる。切り開ける。きっと、誰よりも強く、より大きく、確かなものとして。そう信じるから、従う。
「あなたの役目は、勝てる道を、少しでも広く、少しでも先に切り開くことのはずだ! たとえ一分でも、たとえ一厘でも! 勝利の可能性が高まるならば、それを掴むことのはずだ!!
 行は何も言えず、また、うつむくこともできなかった。自責の念を覚えるより先に、堂々とした睦に目を奪われてしまっていた。
「私が遺書を書くことで、勝ちが近づくというのなら、喜んで書きましょう。何通でも。そのうえでお尋ねしますが――」
 睦はなおも行を見つめる。怒りの満ちた瞳に、わずか、優しさと厳しさを混ぜ合わせて。
「――私の遺書は、勝つ可能性を、その道筋を、ほんのわずかでもたぐり寄せるものですか?」
 ひとつ息を()き、緊張をほどいてから、行は答えた。
「いいや。ちっとも、全然」
「では、外に出る許可をください」
 睦はまっすぐに行を見つめる。責めることで、行を落ち込ませたいのではないと、謝罪させたいのでもないと、行にはそんなふうに見える。
「目的は?」
 今の行に求められているのは、指揮官の任を果たすことだった。許可を出せるか、判断しなければならない。
「兵に指示を出します。

、と。ただし、

、と。川を渡れずに焦らされたとしても、それは、進軍の遅れている羽撃ちの責任です」
「行ってよし」
 行が鳩のことを考えて、勝ちを探っている間、睦は目の前の兵たちの統制をどう保つかを考えていた。いくら行でも、一度にふたつのことは考えられない。睦は副将として、指揮官が気を回せない部分を補おうとしていた。
 行の承諾を得て、睦は黙して天幕を出た。行には、そんな睦の後ろ姿も、やはり堂々たるものに見えて仕方ない。憧れに似た思いさえ抱く。
 ここで落ち込んでいては、睦の気概を無駄にする、行はそう思う。平静でいるべきだ。それが応えることになる。しかし、すぐさま、勝ちへの光明が見えるものでもない。そんな心の隙間に、ふと湧いたものがあった。
「ねえ、しずっち、あたし、ちっともわかんないから、だから聞きたいんだけどさ」
 沈は声には出さなかったが、柔らかな微笑みを行に向けることで、快諾の返事の代わりとした。
「お姉ちゃんとか、お母さんとか、もしいたら、ああいう感じなのかなあ?」
 大切な仲間はいる。気のいい弟子たちにも恵まれた。けれど行は、家族というものを知らない。
「それは、人によると思います。優しい人も厳しい人も、残念ですが、ひどい人もいるでしょう。わたくしとしても、どうとは言えません。ですが――」
 質問の答えは返せなくても、沈には、ひとつはっきりとわかることがある。自分ではだめなのだ。(ささや)も、(あらた)も、それには応えられない。行が心を許し、預け、頼ることができたとしても。
 もし、行が甘えられる相手がいるとするなら――
「――この(いくさ)が終わった後、睦お姉ちゃんって呼んでも、きっと、怒られないと思いますよ」
 慣れない気持ちを持て余し、行はどうにも落ち着かない。意味もなく姿勢を直し、やはり落ち着かなくてまた直し、さらにもう一度直してみて、けれど何も気が静まらないことを知る。
 観念にも似た思いで、行は言った。
「呼んでみたいけど、あたしには難しいなぁ。……やっぱ、恥ずかしいや」



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登場人物紹介

哭日女囁 なきひるめ・ささや 16歳、女。

四人組の傭兵、〈戦勝請負〉の一員である。

通称、焉の囁。

天栲湍改 あめのたくたぎ・あらた 16歳、女。

〈戦勝請負〉の一員である。

通称、矛の改。

双思沈 ならびおもい・しず 14歳、女。

貴人の出身。〈戦勝請負〉の一員。

通称、知の沈。

別千千行 ことちぢ・ゆく 13歳、女。

〈戦勝請負〉の一員にして中心人物。

稀代の戦術家。

乙気吹睦 おといぶき・むつ 26歳、女。

列椿国軍所属・従七位。

行付きの任を命じられる。

神幡姫潤 かむはたひめ・うる 17歳、女。

兵(つわもの)の頂点として知られる。

通称・魅の潤。

戯(おど)と名付けた大蛇をいつも連れている。

禍祓早 まがばらえ・はや 12歳、女。

“死処の姫”の異名を持つ。

通称・夜の早。

秋大忌隠 あきおおいみ・かく 21歳、男。

隣国・羽撃ちの国に雇われた軍師。

行の一番弟子。

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