朔暦一五八九年、晩春――
「商談の席で喚かないでほしいものね。こっちは久しぶりに新鮮な野菜を食べているというのに、隣でぎゃあぎゃあと」
天栲湍改の言ったのは独り言だったが、それは体裁だけで、隣の卓で揉めているふたりを批難したものであると、それは明白だった。
彼女は隣の客に聞こえよがしに言った後、割り箸で
蕪の刺身を小皿に運び、わさびと醤油をつけてから口に入れた。
改が注文したのは、その一品だけだ。
「華のない農村だと思っていたけれど、野菜がおいしいのはいいことね」
木製の枠を持つ眼鏡の奥で、改は目を細め、しみじみと蕪を噛み潰す。
一行が着ていたのは浴場で借りた浴衣で、改の着ているものの白地の上には、桜花が散りばめられていた。丁寧に結われ、左右に下げられた三つ編みは、美しい老い緑の色を備えている。
淡緑の瞳は、蕪を味わい尽くすために閉じられたまぶたによって、今は見えない。
「ええ、あっちゃんのおっしゃる通りです」
双思沈は心からの同意を示した。彼女の注文したのは、ほうれん草と
人参のごま和え。丁寧な所作で、それを少しずつ食していく。控えめなひと口がすっかり食道を通ってから、
沈は二度、三度と頷く。口内で味わいが次第、消えていくのを惜しみながら、沈は言った。
「
双思家の所有する自慢の農園でも、このような
滋味を持つ野菜は、なかなか育つものではありません」
心がうち震えているというように、沈は十四の
齢に比して豊かに育った胸に手をあてた。上品な顔立ちとその体つきは、いささか不釣り合いとも映る。
沈の浴衣の布地では、鮮やかな
薄群青の朝顔が咲いていた。誰よりも遅くまで浴場にいた沈の髪は、まだわずかに湿り気を残している。長い髪は真っ直ぐな流れを成し、曇りのない
青藍の髪と
空色の瞳の組み合わせには、調和という言葉がよく似合った。
四人組の中心、
別千千行は、十三の少女らしく大きく口を開けて、
玉菜を特盛りにしてもらった焼きそばをかき込んでいく。ひとつ満足したところでやっと会話に加わったが、あえて改の怒りを買った。
「しずっちはもともと少食だからいいけどさ、あっちゃん、無理な減量はこっちの迷惑になるから、ほんとやめてほしいんだけど」
行は言うなり、再び口を開け、焼きそばをかき込んでいく。改は太ってはいない。人より筋肉が多いから
目方も増すというだけなのだが、いくら言っても改は信じようとしない。曰く、姉さんは武人なのに違った、である。
「人一倍動いて、それでも痩せられないって、あっちゃん、ずいぶんな損してるね」
箸を動かしながら、行は遠慮を知らずに言った。改は蕪を噛みながら行を睨みつけたが、行は意に介さず、金色の瞳を大皿に据えたまま箸を動かし続けた。
髪を乾かすことをいつも
億劫に思う行は、肩に届くかどうかという長さの、
向日葵色の髪に水気を残しながら、気にする気配を見せなかった。湿ったままで、常から愛用している髪紐で、左上の髪だけを結ってさえいた。手近にあったというだけで選んだ浴衣では、赤く染められた生地の中を、白抜きの金魚が泳いでいる。
行の
言について、黙っていられない者がいた。行の左隣に座る、
哭日女囁だ。
「ゆっち、その挑発、まわり巡って僕にぶつかるんだって、もちろん知ってて言ってるよね」
囁が注文したのは焼きとうもろこしだった。彼女は左手で持ったそれを齧りながら、他方、右手の指で昨夜の花札の負けを数えだす。
「雨四光二回、四光二回、五光五回、憂さ晴らしされて、お小遣いも取られてさ、やってらんない」
野宿が続いた時、改は鬱憤を晴らすべく、賭けに勝つ意欲に満ちる。勘も冴える。まるで相手にならなかった。苛立ちを乗せるように、囁はとうもろこしを強く噛む。今夜このままでは、改から、また鬱憤をぶつけられるのではないか。
他の者に改の相手を任せたくとも、賭け事は
齢十六――この国では成人となる年齢――に達してから、というのが四人の取り決めで、共に十六である囁と改がやり合う以外、成立する組み合わせはない。
うなじさえ満足に隠せない、囁の短い
濃紅の髪は、洗髪によって本来の艶を取り戻していたが、それは
内で猛る怒気の色にも見えた。
囁の茜色の瞳は、正面に向ければ視界に改を捉える。それは怒りが増すだけであるので、囁は視線を右手に座る行に向けていた。黒地に白の水玉の浴衣は、ついでに自分の分も取ってきてくれと、行に頼んだものだ。
「さっちゃん、挑発されて冷静さを失った相手に負けるって、よっぽどだよ」
行は、すっかり空になった
洋盃に水差しで
清水を
注ぎながら、呆れたように言う。
「ゆっちがそう言うなら、今夜は僕が勝つね」囁もまた、水を
注ぐ。行は、気がないふうに言い足した。「楽観的に過ぎるの、感心できないなぁ」
いくつかの卓を囲むみすぼらしい土壁は、ところどころが剥がれ落ち、中の竹が覗いている。
都邑から遠く離れた地の、とりわけ質素な食堂に、彼女たち四人はいた。この村に着いてすぐに
湯浴みを済ませ、その後、食事のために訪れていた。
来るまでの道中に昼食は済ませていたが、それは
乾飯と味噌、燻製肉、加えて辺りで取れた少量の野草という味気ないもので、また、その組み合わせの食事が丸三日続いていた。今の彼女たちにとって、旨味に満ちた野菜が何よりのおやつだった。
「だから、何度も言ってますけど」
改の背後の卓、奥に座った、十をいくつか過ぎたと見える年頃の少女が声を荒げる。囁たち四人は、一向に
埒があかない押し問答を、食事を取りながらも気にしていた。改は
商談
と言ったが、商いからはずいぶんと遠い。
少女は、この地方独特の紋様が入った服を着ていたが、皺が深く、汚れも散見された。また、肩に達して余る
焦茶色の髪は乱れている。無精ゆえではなく、心の余裕が失われた結果なのだと、囁たちは理解していた。
力では間違いなく及ばないだろう
ごろつき
を前にしながらも、口ぶりは堂々としたもので、少女に気後れするところはない。自分の身の危険など、もはや問題にならないのだろう。
「私はただ、情報を求めてきただけなんです。
戦勝請負と言われる傭兵の一行がこの村に滞在していると聞いて、それで。あなたに用心棒を頼みたいわけじゃない」
少女に臆する様子はなかったが、それ以上に、対面に座した男に何ら怯むところはなかった。
冷酒を呷り、薄笑いを浮かべ、取り合わない。
男は、成人の儀を済ませてのち、ゆうに十年は経っているだろう。ぼろきれに近づきつつある麻の服には、変色した血痕がみてとれる。一目して、ならず者であると知れる。
「こっちだってずっと言ってんだろ。そんなやつら実在しねえって。伝説だよ、伝説。俺に頼んだほうが利口だぜ。参加した
戦の全てに勝つなんて、あってたまるかってんだ」
言われて、少女は思わず萎縮する。どんな戦さえ勝利に導くなど、夢物語に近しいと、自らもそう思ってしまう。けれど今の少女にとっては、その夢物語こそが必要なのだ。中途半端な力で下手な抵抗をすれば、悪い結果を招くだけだと、そのくらいは知っている。
紫紺六魂組に取られた人質には、何もかも無事に帰ってきてもらわなければならない。彼らに他を圧する力があることはよく知る。誘拐は彼らの商売であることも。身代金を払って、人質が戻るかは五分五分と聞く。悪党に約束を期待するべきではない。
いつだったか、戦勝請負について噂で聞いた不確かな情報だけが、今の彼女が頼れるもので、祈るような気持ちで口にした。
「でも、その人たちは、あの
咎言を扱うとも言われているんです。四人組で、それが四つもあると。その力があれば、もしかしたら……」
それが唯一の
縁だった。人の持ちうる限界を遥かに超越した力。不可能を可能にする力。それを持つ者たちがいるのなら。
堪えきれない不安と焦燥の寄るべであり、残された手だてだった。
「ははっ、何を言うかと思えば、だ。咎言使いなら俺だって知ってるぜ。あいつ、
千束の国の国境戦争では、そりゃすげえ活躍をしてな」
行は隣の席で聞き耳を立てていた。男の言を聞くなり、ひどく顔をしかめる。寝床に
百足が入りこんできた時でも、こんな表情にはならない。あまりに
厭わしい。行は思わずにはいられない。
――咎言をただの力と思うか。
咎持ち
は特異に恵まれた者と思うか。
男のほうを向くではなかったが、行は苛立たしげに、十二分な大きさの声で言った。
「あーあ。敵と通じてるかもしれないから、一応、様子見てたけど、完全に素人さんだね、これは。何だよ、
咎言使い
って。だっせえの」
沈は箸を置き、ぼんやりと宙に視線をさまよわせる。ほどなく、目当ての記憶を探りあてて、口を開いた。
「えっと、千束の国境戦争となりますと、それは
潤ちゃんということになりますね。あの戦に加わっていた
咎持ちは、彼女ひとりだけです」
「そりゃそうでしょっての。あんな
癖者、敵にも味方にもしたくないよ」
言ってから、行はふざけて、べえっと舌を出した。またも表情は苦いものとなる。扱いを心得るまでは、敵としても味方としても、
潤にはずいぶん手を焼かされたものだと。だが、そこにあからさまな嫌悪は浮かばなかった。
食事の席で舌を出しては、ひどく行儀が悪いが、あえてたしなめようとする者はいない。この地での礼法も、海の向こうでの
食事作法も、行は熟知している。もとより実践する気がないのだと、他の三人は知っている。
そういえば、と、囁は思い出したまま、男に言った。
「きみ、潤の知り合い? だったら伝えてほしいんだけど。貸しっぱなしになってる一二五〇
匁、いい加減に返せ、って」