月垂りの国の本陣、幾度も砂漠の風にさらされ、傷みが著しい天幕の内側で、
八刀鹿訂はひとり、将棋を指していた。
行が戦場にするめを持ち込むように、
訂は自分を落ち着けるためのものとして、将棋の盤と駒を持ち込む。
訂の
齢は、
列椿の総大将、
萬祖主叩より、ひとつ上。気づけばもう七十一だ。長年に渡って列椿の侵攻を食い止めてきたが、列椿の国力は増す一方、
羽撃ちの軍が味方となるにしても、今回は苦しい。そう思えば、将棋盤と向き合う時間が長くなる。
訂は
戦に生き、他者の命を奪いながら、自身は
戦に生かされてきた。戦えなくなれば、それは八刀鹿訂ではない、その誇りゆえ、老身になっても鍛錬を怠らない。この歳で
筋骨隆々と形容するしかないのであれば、あの人は本当に鬼なのではないか、そう囁かれもする。時として前線にも出る。朱色の
甲冑は鬼の鎧として名高い。見事な
髭を貯え、頭髪も往時と大差なく生えそろっているが、もうすっかり白髪になった。
布を分け、副将である女性士官、
氷月弓澄が、天幕の中に入ってきた。姿を見せるなり、声を荒げる。
「訂将軍に報告! 列椿全軍、突撃の構えです!」
副将である
澄は、白の装束に朱の帯を結んでいるのみで、戦場にありながら鎧をまとわない。天幕ひとつ満足に買い換えられないのに、前線に立たない自分が甲冑を欲しがるなど言語道断、そう主張して、拒み続けている。実際に軍の
金勘定は火の車なのであり、防具を身につけずに戦う兵卒も多い。
澄は色気に欲を出そうとせず、黒髪はもう二十余年、ずっとおかっぱに切りそろえてきたが、整った
鼻梁、
明眸と称えるべき黒い瞳、
桜唇、それらと共にあれば、もはや少女の髪型とは言えず、妖艶にさえ映る。
「
澄、せめてふたりきりの時くらい、昔のように
叔父貴と呼んでくれんか」
訂からみて澄は、歳の離れた妹の末娘である。孫に近いほど年齢が離れているが、姪となる。澄の母が亡くなってから、訂が面倒を見ることが増えた。
懐かれた結果、澄は周囲の反対を押し切り、自ら軍に身を置いた。以来、訂は叔父貴と呼ばれていない。
「お断りします。将軍は将軍です」
眉ひとつ動かさず、澄はきっぱりと断った。訂が何度求めても、返事は決まっている。それでも、生きているうちにもう一度聞きたいと、訂はついつい頼んでしまう。
「やれ、強情なところも母親に似ている」
聡明さと負けん気にあふれ、文句なしの器量好し、多くのものを、澄は母から受け継いだ。
「想定よりだいぶ早いですが、最前線に矛の改、
焉の囁、どちらも姿はなく、おそらくは羽撃ちの離反に気づいたものと」
それは
隠から言われていたことでもあったし、ふたりの咎持ちを温存しての突撃など、通常は考えられない。別千千行はもう気づいている。
「早いな。
保たんぞ」
「
保たせるしかありません」
月垂りの軍は、隠の用意した策に
乗った
。するべきことは、指定の時刻まで、列椿の軍を食い止めておくことだった。撃破する必要はない。猛将、八刀鹿訂率いる八〇〇〇の兵は、
時間稼ぎに徹する
。
「澄よ、
儂のもとについて十五年、八刀鹿訂の戦いぶり、とくと見てきたな」
齢十五より仕えて、現在、澄は
齢三十。訂はもはや、澄に補佐は務まらないと考えている。それでは役が足りない。今や一人前の、立派な、八刀鹿訂に勝るとも劣らぬ将である。その証拠に、将の力でやり合おうとしている羽撃ちの軍師は、澄を数に入れた。
「将軍の
戦は、まこと鬼神の如き」
澄にしてみれば自明のこと。即座に、簡潔に答えた。
「その儂の思うところ、これは将棋で言うなら
詰み
だ。
保たん。鬼神の姪はどう考える?」
澄が軍に入る前から、ふたりは将棋で対局していた。最初は訂の八枚落ちで実力差を埋めていたが、今となっては澄のほうが
上手である。
「詰みでしょう。将棋盤の上ならば。ですが――」
そう言って、澄は駒を手に取った。形勢不利な側の、一枚の
歩兵を。前に一
枡ずつしか進めない駒である。澄は堂々と、それを
横に
一
枡動かした。本来なら許されない、掟破りの妙手。明らかな反則ではあるが、その一手で将棋盤の戦局は逆転し、窮地は消え去っていた。
「――ここは戦場、
歩は横にも進めます」
自慢の姪には何か
肚があるらしい。訂は、「続けよ」と、先を促した。
「兵を縦に並べ、それを左右
二手に分け、離します。鉄砲の射程ぎりぎりまでです。中央を開いてやりましょう」
自軍の鉄砲は火打ち式の
歩兵銃、最新型ではないが、腕のいい射手たちのこと、一〇〇
米くらいなら射程にしてしまうだろう。それだけの空間を敵の目前に作るということである。
「わざわざ道を空けてやると?」
「はい。しかし、その中央こそ至難の道。最前線には最低限の槍兵、次ぐ前方に鉄砲を集中させます。なれば、真ん中を無理に通ると、鉄砲のいい
的になりましょう。進軍を食い止めるならば、真正面、敵にとっての最短距離をまず潰すべきと」
無論、ここに至るまでに軍議は重ねられ、本来ならば採る策は定まっていたはずだった。今や、その全てが無駄になった。列椿の進軍開始、現時点で、完全に想定の
外なのである。あまりにも早い。今この瞬間に、新たな策を持たねばならない。
「その後の手も考えてあるな?」
時間は限られている。細部まで聞いている暇はなく、また、澄はすでに、軍を率いるに足る将だ。こうして確認していることさえ、余計なくらいなのだ。
「無論です」
説明は求められていないと判じて、澄は肯定の返事だけをした。
澄には自信があった。防具が足りずとも、自軍の兵に何ひとつ劣るところはない、と。列椿の軍がどう応じようと、やってやれないことはない。諸国連合の上品な兵隊とは違う。月垂りという枯れた地に育まれた荒武者たちの何たるかを思い知らせてくれる。
澄の意気を感じた訂は、この局面を預けることに決めた。
「良かろう。指示を出せ。なけなしの
鉄菱も必要なら撒いてかまわん。
儂が勝ちを保証した策だと、そう言っておけ」
実際の実力がどうあれ、鬼が認めたと言ったほうが兵は奮い立つ。それが
権威
というもの。訂は自分の名も含めて、澄に預けた。
貴重な
撒菱についても任せた。敵軍を食い止めるなら大量に用意して然るべきのところ、敵方に知の沈がいるため、怪しまれない量しか持ってこれなかった。
「委細承知」
名を借りるということは、澄がしくじれば訂の名声が損なわれるということである。それでも臆するところなく、ひとつ頷いてから、澄は足早に天幕を出た。
天幕の
内にひとり残された訂は、澄が打った反則の一手を直さぬまま、再び将棋を指し始めた。
「なかなかどうして。母親に言ってやりたいところだ。用兵については、あの姪はとうに鬼神、八刀鹿訂を超えておる、と」
駒を打ちながら、訂は妹のことを思い出す。皆が口をそろえる器量好し、気が強いのに、言い寄る男は絶えなかった。兄様より弱い男は好かないとずっと言っていたのに、恥ずかしがりながら、なよやかな男を連れてきた時は驚いた。結局、妹の
眼力は正しく、澄にとって良い父となった。
「
眼力の点、まだ母には敵わんな。儂と比べても、この老いぼれに分がある」
澄の用兵が誰かに劣るということではない。ごく単純に、耐えねばならない時間が長すぎる。数々の修羅場を制してきた鬼であればこそ察する。
「
歩が横に進めたとて、これは
詰み
だ。
保たん。羽撃ちの坊やも、まだまだ修行が足らんな。気づかれるのが早すぎた」
結論から言えば、これは隠の
失策
だった。
隠はいったい何を見誤ったか。あろうことか、土台となる部分、策の根幹のところで過っていた。すなわち、隠は――
――乙気吹睦を
将として数えなかった
。
あってなきが如しとして扱った。実際はそうではなかった。睦は気丈に副将を務めた。睦に助けられたからこそ、行は圧倒的な速度で状況を解し、決断し、行動に移すことができていた。
人の動かしかたで争うと言うならば、睦は
行を
動かしたのだ。その行が、隠の策にとっては致命的な早さをもって、列椿の全軍を動かした。
これでは
保たせられない。すでに、隠の策は実現不可能なものになっている。
――もし、今ここに、人間しかいないのならば。
「詰みを
解くには、
鬼
がいる」
盤面を睨みながら、訂は決心をする。
「母親に文句を言わねばならんな。あの姪は、将棋という冷厳なものに、あれやこれやと、思いつきで決めごとを足してしまいおって、まったく血が沸かなくなったぞ、と。指していて、楽しくて仕方がない」
本来の規則に則って澄と対局することは、今や珍しい。澄の発案で加えられた独自の
規定を採用することがほとんどだ。
成れない銀
、裏側に〈全〉と書かれていない銀将の駒を用意してきた時は仰天した。
澄の
規定では、金将と銀将は、伏兵として、裏向きに打てるというのである。動かす時には表を向けるが、それまでは裏面をさらしていて、金か銀か、対局相手には判別がつかない。どちらも、駒の裏面には何も書かれていないのだ。
「ここは月垂りの領内、ならば、列椿の連中にも、儂の自慢の姪が考えた遊び方に従ってもらうとしよう」
無論、戦勝請負に伏兵は通用しない。無論、澄の追加した
規定は、成れない銀だけではない。そも、成れない銀は、駒の木目や傷を覚えれば判別がついてしまうので、そう何度も採用できるものではない。
澄は、成れない何かとは別に、成れる何かについても考えた。
「儂らのやり方ではな、
王将も
玉将も
成れる
のだよ」
王将、
玉将。本来ならば、成れる駒ではない。
成り駒、敵陣に切り込んだ駒は変貌できる。駒を裏返すことを選べる。裏を向ければ、
歩は金になる。角行が成れば
竜馬となり、飛車が成れば
竜王となる。
王将と
玉将、表記は違うが、
上手と
下手がそれぞれを使い分けるというだけで、役割に違いはない。
西洋将棋で言うならば、どちらも
王に相当する。では、
王にあたる駒が成れば、何になるのか。
古来の将棋の中に、その答えはない。澄が発案し、何も書かれていなかった
王将と
玉将の裏を訂が彫り、朱で塗った。そこに答えがある。
訂は王将の駒を手に取り、前に進めた。裏返したうえで。
敵陣に切り込み、王将は
成った
のだ。
「三三、王
成。教えてやるから、よく覚えておくがいい。
王将と
玉将の成り駒はな――」
訂は、そこに刻まれている二文字を読み上げた。
「――鬼神」