二二 弱点
文字数 4,831文字
「違う」
行 は短く言った。乾いた布から水を絞ろうとするかのような声だった。
「足し算を間違えたんだ。八〇〇〇対二五〇〇〇じゃない」
前提が違った。勝ち目のないほうは向こうではなかった。
「一九〇〇〇対一四〇〇〇なんだよ」
足し算を間違える、睦 はそのことの意味を考える。単純な計算違いのはずはない。この戦場に進んだ勢力は三。であれば、
睦もまた、醒めた。
月垂りの軍、八〇〇〇。
そして、
――両軍を合わせれば、一九〇〇〇になる。
すなわち、それは――
睦は、やはり枯れたような声で、行に問うた。
「まさか、羽撃ちの軍が裏切ると……?」
行は問いかけに答えず、思考の渦を裂いて走った雷撃を持て余すように、するめを積んでいた台を蹴り飛ばした。台は音を立てて転がり、天幕の布に阻まれて止まる。
怒りか、戦慄か、あるいは昂揚なのか、どうともわからないながら、行は吼えた。
「やってくれるじゃないか!隠坊 !」
列椿の本陣から後方、後詰めとして配置されている羽撃ちの軍の本陣、赤みがかった布地の天幕を出てすぐの場所に、隠 は立っていた。予想の範囲内には収まっていたが、良い目は引いていない。ずいぶんと離されて配置されてしまった。
隠は旅装束のみ、脇差しひとつという格好で、笠もかぶっていなかった。装束の左胸には金糸の刺繍で、桔梗 と羽硬筆 が描かれている。行の開いた私塾でずっと用いられてきた印 であれば、二代目の塾長である隠の印 でもある。〈理に従順であれ〉との意が込められたものだ。
軍師たるものが、敵の矢の届く位置にいるようでは話にならない、その思いは隠の自負となり、甲 は無用と、着けることを選ばなかった。
隠の背後、天幕の布が開かれ、女性士官が姿を見せた。紫紺 の甲 を身にまとい、太刀 を腰から下げている。羽撃ちの軍の指揮官、深葉槌 裁 だ。齢 は三十四、月垂りの将、八刀鹿 訂 の半分に満たない年齢ながら、その勇猛果敢の誉れは、すでに内外に轟いている。
「師を裏切る気分とは、どういうものだ?」
隠のすぐ隣に立って、しかし漆黒の瞳は前方に向けたまま、裁は問いかけた。紫がかった長い銀髪が微風に揺れた。
「どういうもこういうも。正々堂々こそが無礼だ、って、そういう人ですから、騙し討たないほうが怒られますよ。敵と味方に分かれただけです」
別千千 行 の一番弟子は、その全霊をもって、与えられた仕事を完遂する。それが唯一、師に恥じないでいられる生き方だ。戦う相手がたとえ師本人であっても、貫かねばなるまい。そして隠には、戦勝請負から勝利を奪い、初の敗北を与えるならば、不敗の神話を破るならば、それは自分こそがふさわしいと、そういう自負もある。
「先生の唯一の弱点は、
敵の弱点を知り、それを衝 く。戦術の基本であり常道。
「列椿総大将の老将軍が、なぜ先生にこの戦 を一任したか、俺だって察しがつくのに、先生はただの怠慢だと思ってましたからね。そんなわけないでしょうよ。あの歳で隠居しようとしないのに」
軍議で同席してから、風呂に誘われるまでに、隠は行の不満をうまく聞き出していた。行は
「あの老将軍は、最初から
この戦乱の世、生き残ろうと思えば知略を駆使することもあろう。それ自体、そう非難できるものではない。しかし裁 にしてみれば気にくわない。味方を陥れるなど、大局を見ていない証拠と断ずる他ない。
「あの狸爺 は好かん。今はあまり前線には立たんが、あれはもともと、権謀術数の権化のような男だ。衰えてはいないとみえる」
同盟国でありながらも、列椿と羽撃ちは小競り合いを繰り返してきた。武力では圧しながら、老将軍、萬祖主 叩 の知謀にしてやられた経験が幾度もある。
ある意味では、狸爺 に感謝しなければならない、そんな思いもまた、裁のうちに湧く。知略の重要性を思い知ったからこそ、優れた軍師をずっと探してきたのだ。そしてついに、秋大忌 隠 を見出したのだ。
「それで、次はどうなる? そして何をする?」
指揮官は静心 を保たなければならないと、裁は士官になって後、昂揚さえ強く戒めてきたが、今は胸中に躍るものがあった。軍師が傍 らにいるというのはいいものだ。指揮官がたとえ激昂しても、すぐ隣に冷静な頭がある。
「やだなぁ。策は全部書類にまとめて提出したのに、何も見ずに承認の印だけ押すんですもん」
決定権はあくまで指揮官にある、ゆえに隠は事前の承認を求めたのだが、裁は何ひとつ見定めないうちに全てを許可した。
「私はお前に任せたんだ。それとも、軍師というのは、素人に口を挟まれて嬉しいのか? そうなら考えを改めるが」
そうも言われてしまえば、隠は感服するしかない。万を超える兵を率いる指揮官が、戦術について、自らを
「いいえ。印だけでけっこうです。それにしても、敵方の指揮官の愛弟子を、よくもまあ、手放しで信じるものですね。内通してるかもしれないのに」
羽撃ちを裏切ろうなどとは露ほども思わないが、こうも評価されれば、隠は戸惑いを御しきれない。自分から減点したくなってしまう。
「人の仕事に口を挟むのは上品とは言えんな」
戦術は任せたとて、裁には裁の仕事がある。大将まで隠に任せたわけではない。
「疑われてやる気を出す部下など、私は知らん。私に必要なのは信じることと、万一、裏切り者が出たなら、それを斬り捨てることだ。好きにやれ。信頼に応えるか、さもなくば斬られるか、どちらかだ」
将は決して疑心を持たない。それが裁のやり方だった。疑いはいらない。必要なのは、信頼を貫くことと、
「うーん、年上で気の強い女性 、大好きだから困るなぁ」
隠は苦笑とともに言った。裁は何も返さなかった。色じかけひとつで勝利が買えるなら安いが、それを望んで言ったのではないだろう。
「さて、列椿の軍が羽撃ちの離反に気づいた時点で、我々は全軍を前に進めます。先生は間違いなく気づきます。というより、気づいてもらわないと困るんですけどね」
最初から、裏切りに気づかれることを前提としている。大事なことは、気づかれないことではなく、肝 となるのは、その一点のみ。
老獪 な萬祖主 叩 は戦場に出ていない。敵方の指揮官は別千千行、あるいは乙気吹 睦 。戦術家と有望な若手、どちらも指揮を、将であることを本分としてはこなかった。対してこちらには、希 なる将器を備えた勇将、深葉槌 裁 がいる。鬼と呼ばれる猛将、八刀鹿 訂 がいる。その訂 の懐刀 として知られる知将、氷月弓 澄 もいる。たとえ戦勝請負を向こうにまわすとしても、
「離反に気づく、とは、何をもって判断する?」
裁は訊ねた。兵に命令を下すのは大将である裁の役目で、基準を把握しておく必要があった。
「偵察の報告を待ちます。すごくわかりやすいので、心配はいりません。我々の裏切りに気づけば、きっと先生は、月垂りの軍に対して
睦を選り抜きとして育てている列椿国軍の判断は、極めて正しい。
行の隣にいればこそ霞む。経験の乏しさは否めない。しかし元来、英傑の資質さえ持つ、優れた軍人 である。
だから、気づく。
改めた足し算、そこから得られた新たな兵力差、その数字以上に厳しいと。
布陣図を見た瞬間に察する。
「ここにとどまれば、挟撃 を受ける……」
「ま、そういうことだね」
羽撃ちの軍を後詰めとして後方に配置してしまい、前方には月垂りの軍が構えている。羽撃ちが敵に寝返れば、挟み撃ちにされる。それだけならまだいい。味方と思っていた軍勢に背後を衝 かれれば、兵は恐慌状態に陥る。そのうえで攻められれば、壊滅さえ覚悟せねばならない。
睦は余計なことは言わなかったが、拳を強く痛いほどに握った。
――挟撃のひとつで壊滅の恐れが生じるのは、副将が乙気吹睦だからだ。
羽撃ちには、こちらの情報はつつぬけだった。指揮官の経験不足を知り、迷わずにそこを衝 いた。挟まれたとて、恐慌に陥るとて、兵に萬祖主 叩 ならそれができる。睦が同じことを言っても兵は従わない。将としての信頼がない。
睦はすぐに気を取り直し、拳から力を抜いた。自分の無力にうちひしがれていては、大将が副将に頼れないではないか。自分がここにいる意味が、本当になくなってしまうではないか。
「しかし、裏切る理由がありません」
睦は自分の見識が行に及ばないことを承知で、否定を投げかけた。行に必要なことだと思った。
戦 を勝利に導ける人間は。代われるものなら喜んで代わろう。現実はどうだ。ここにいるのは誰なのか。認めろ。
行がひとりで一刻ほども悩んでいたことが、ついさっき、睦と話してすぐに解 けた。睦はそれを自分の手柄とは思わない。行は私塾で戦術を教えていた期間が二年以上ある。話しながら、教えながらのほうが、行は考えがまとまるのではないか。そう思えばこそ、不明な点を挙げる。
「列椿に本気で弓を引けば、諸国連合からの脱退は避けられません。失うものが多すぎます。これは小競り合いでは済みません」
「それを上回る利益があるってこと。たぶん、これだよ」行は左手を挙げ、その甲を睦に見せた。その中指に、隠から贈られた指輪がはめられている。
「純金の安物だってさ」
「足し算を間違えたんだ。八〇〇〇対二五〇〇〇じゃない」
前提が違った。勝ち目のないほうは向こうではなかった。
「一九〇〇〇対一四〇〇〇なんだよ」
足し算を間違える、
何と何を足したら
、一九〇〇〇という数字が成り立つのか。睦もまた、醒めた。
月垂りの軍、八〇〇〇。
そして、
羽撃ちの軍
、一一〇〇〇。――両軍を合わせれば、一九〇〇〇になる。
すなわち、それは――
睦は、やはり枯れたような声で、行に問うた。
「まさか、羽撃ちの軍が裏切ると……?」
行は問いかけに答えず、思考の渦を裂いて走った雷撃を持て余すように、するめを積んでいた台を蹴り飛ばした。台は音を立てて転がり、天幕の布に阻まれて止まる。
怒りか、戦慄か、あるいは昂揚なのか、どうともわからないながら、行は吼えた。
「やってくれるじゃないか!
列椿の本陣から後方、後詰めとして配置されている羽撃ちの軍の本陣、赤みがかった布地の天幕を出てすぐの場所に、
隠は旅装束のみ、脇差しひとつという格好で、笠もかぶっていなかった。装束の左胸には金糸の刺繍で、
軍師たるものが、敵の矢の届く位置にいるようでは話にならない、その思いは隠の自負となり、
隠の背後、天幕の布が開かれ、女性士官が姿を見せた。
「師を裏切る気分とは、どういうものだ?」
隠のすぐ隣に立って、しかし漆黒の瞳は前方に向けたまま、裁は問いかけた。紫がかった長い銀髪が微風に揺れた。
「どういうもこういうも。正々堂々こそが無礼だ、って、そういう人ですから、騙し討たないほうが怒られますよ。敵と味方に分かれただけです」
「先生の唯一の弱点は、
身内に甘いこと
です。いったん仲間だと思うと、無条件で信じる傾向があるんですよ。疑うことを忘れてしまうんです」敵の弱点を知り、それを
「列椿総大将の老将軍が、なぜ先生にこの
軍議で同席してから、風呂に誘われるまでに、隠は行の不満をうまく聞き出していた。行は
爺ちゃん将軍の手抜き
と認識していて、何らの悪意も感じていなかった。「あの老将軍は、最初から
きな臭い
と感じていたんです。それでも月垂りの国は欲しい。万一の時は敗戦の責任を先生に押しつけるつもりで、そして勝った時には英断たる人選をしたと誇るつもりで、全て任せたってわけです」この戦乱の世、生き残ろうと思えば知略を駆使することもあろう。それ自体、そう非難できるものではない。しかし
「あの
同盟国でありながらも、列椿と羽撃ちは小競り合いを繰り返してきた。武力では圧しながら、老将軍、
ある意味では、
「それで、次はどうなる? そして何をする?」
指揮官は
「やだなぁ。策は全部書類にまとめて提出したのに、何も見ずに承認の印だけ押すんですもん」
決定権はあくまで指揮官にある、ゆえに隠は事前の承認を求めたのだが、裁は何ひとつ見定めないうちに全てを許可した。
「私はお前に任せたんだ。それとも、軍師というのは、素人に口を挟まれて嬉しいのか? そうなら考えを改めるが」
そうも言われてしまえば、隠は感服するしかない。万を超える兵を率いる指揮官が、戦術について、自らを
素人
と言うのである。それでいて誇りにあふれる顔を向ける。将器の見本のようだ。適材適所を知るということは、適していない場所に自分を置かない
ということでもある。こうも見事に実践されてはため息も出ない。「いいえ。印だけでけっこうです。それにしても、敵方の指揮官の愛弟子を、よくもまあ、手放しで信じるものですね。内通してるかもしれないのに」
羽撃ちを裏切ろうなどとは露ほども思わないが、こうも評価されれば、隠は戸惑いを御しきれない。自分から減点したくなってしまう。
「人の仕事に口を挟むのは上品とは言えんな」
戦術は任せたとて、裁には裁の仕事がある。大将まで隠に任せたわけではない。
「疑われてやる気を出す部下など、私は知らん。私に必要なのは信じることと、万一、裏切り者が出たなら、それを斬り捨てることだ。好きにやれ。信頼に応えるか、さもなくば斬られるか、どちらかだ」
将は決して疑心を持たない。それが裁のやり方だった。疑いはいらない。必要なのは、信頼を貫くことと、
信念
のもとに太刀を振るうことだ。「うーん、年上で気の強い
隠は苦笑とともに言った。裁は何も返さなかった。色じかけひとつで勝利が買えるなら安いが、それを望んで言ったのではないだろう。
「さて、列椿の軍が羽撃ちの離反に気づいた時点で、我々は全軍を前に進めます。先生は間違いなく気づきます。というより、気づいてもらわないと困るんですけどね」
最初から、裏切りに気づかれることを前提としている。大事なことは、気づかれないことではなく、
いつ気づくか
、予定通りの時間にものごとが進むか、隠の用意した策の咎の数
では勝負にならない。隠にしても、行に挑む気概であって、超越しているとは思えない。であれば、将と将の勝負
に持ち込むべきなのだ。何をどうしようと、実際に戦うのは兵であり人だ。人の動かしかたで争えばいい。将同士の勝負をお膳立てするために策があり、予定時刻が鍵になる。勝てないほうがどうかしている
。「離反に気づく、とは、何をもって判断する?」
裁は訊ねた。兵に命令を下すのは大将である裁の役目で、基準を把握しておく必要があった。
「偵察の報告を待ちます。すごくわかりやすいので、心配はいりません。我々の裏切りに気づけば、きっと先生は、月垂りの軍に対して
突撃
をかけます」睦を選り抜きとして育てている列椿国軍の判断は、極めて正しい。
行の隣にいればこそ霞む。経験の乏しさは否めない。しかし元来、英傑の資質さえ持つ、優れた
だから、気づく。
改めた足し算、そこから得られた新たな兵力差、その数字以上に厳しいと。
布陣図を見た瞬間に察する。
勝ち目がないのは自軍だ
。「ここにとどまれば、
「ま、そういうことだね」
羽撃ちの軍を後詰めとして後方に配置してしまい、前方には月垂りの軍が構えている。羽撃ちが敵に寝返れば、挟み撃ちにされる。それだけならまだいい。味方と思っていた軍勢に背後を
睦は余計なことは言わなかったが、拳を強く痛いほどに握った。
――挟撃のひとつで壊滅の恐れが生じるのは、副将が乙気吹睦だからだ。
羽撃ちには、こちらの情報はつつぬけだった。指揮官の経験不足を知り、迷わずにそこを
臆するな
と言い、すぐに兵が落ち着くのならば、十分に戦えるはずなのだ。権威が足りない
。睦はすぐに気を取り直し、拳から力を抜いた。自分の無力にうちひしがれていては、大将が副将に頼れないではないか。自分がここにいる意味が、本当になくなってしまうではないか。
「しかし、裏切る理由がありません」
睦は自分の見識が行に及ばないことを承知で、否定を投げかけた。行に必要なことだと思った。
臆するな
、それはまず自分に言うべきなのだ。力不足を恐れるな。ためらうな。睦は自分に言い聞かせる。乙気吹睦より優秀は将はいくらでもいる。今ここに立つべき人間は。この自分の弱さに臆するな
。弱者がおのれの弱さに怖じければ、なおさらに勝てなくなる。行がひとりで一刻ほども悩んでいたことが、ついさっき、睦と話してすぐに
「列椿に本気で弓を引けば、諸国連合からの脱退は避けられません。失うものが多すぎます。これは小競り合いでは済みません」
「それを上回る利益があるってこと。たぶん、これだよ」行は左手を挙げ、その甲を睦に見せた。その中指に、隠から贈られた指輪がはめられている。
「純金の安物だってさ」