三一 匹敵
文字数 4,622文字
行は手のひらで顔を覆う。兵が見ているというのに、みっともない姿をさらしてしまっている。しかし、今の表情を見られるよりは、よっぽどいい。どんなにか、情けない顔をしているだろう。
――これは、あたしの失態なんだ。
最初から、隠の術中だったのだ。行は考える。もう明白であることを。自身の過ちと、そして、そこから導かれる、疑いようのないひとつの事実を。
評価しているつもりだった。認めていると信じていた。甘かった。足りなかった。
行は歯を食いしばる。苛立ちではない。自身への怒りだった。恥だった。どうして、なぜ、愚かにも。
――
追いかけっこ
なんて、どうして言えた?――もう、
隣にいる
。ひとつの明白な事実が、ある。
秋大忌隠の戦術は、もはや、
別千千行のそれに匹敵している
。すでに同列、比肩している。
自分と戦っている
と考えろ。そうだろう、そうでなければ、他にいるというのか、別千千行の他に、鬼神の率いる八〇〇〇の兵を撒き餌
にし、敵軍を追い込むための前段階として
、川の流れをどうこうしようとする者が、誰かいるのか。別千千行でなければ、いったい誰がそれを成すというのか。秋大忌隠は失策をした。師である行もまた、失策をした。
錯誤のない
蔵の中での娯楽として、行は戦争を繰り返してきた。
それは、
自分自身
。天才戦術家、別千千行。蔵の中での
研究ではなく
娯楽だったのだ。自分と自分が戦った時に何がどうなるか、確かめようという気にはなれなかった。自分と自分が戦えば、有利な状況にあるほうが勝つだろう。結果が知れていては、娯楽にならない。第一、どちらの自分を勝たせても、一方で負けているのでは、楽しくない。行は、行自身を敵にまわしたことがない。
別千千行の戦術、その根幹、土台となるところは、本来、自分を相手にすることを想定していない。問題はなかった。別千千行は世界にふたりいないのだから。行は、蔵を出た後も、目の前の敵将に勝ることを優先してきた。
対して隠はどうであるか。
全くの逆
だ。隠は常に行を意識し、追いつくべく努力を重ねた。目標とするのは別千千行ただひとりであり、仮想する敵もまた、行だった。そして、一番弟子であることにも、強くこだわった。行を師と仰ぎ、その戦術を用いてこその自分だった。
すなわち、
別千千行の戦術で別千千行に勝つこと
を、ずっと考え続けてきたのだ。これではむしろ、裏をかかれないでいるほうが、
理に合わない
。行と隠がともに信ずる理は、ふたりを裏切らなかった。不条理なく、妥当な結果を戦場に与えた。成っている。
隠の策は、もう、すでにして、
成就している
。行はこの現実を受け止めなければならない。行が今まで想定していなかった驚異が現れ、出し抜かれて、追い込まれている。根っこを辿れば、それは蔵の中での
――
気づいた
。別千千行の戦術の本質が、娯楽であるならばこそ。
自然、手のひらが顔から離れる。
血が震えた
。さながら天啓、本質がそこにない秋大忌隠には決してできぬ認識。行は
行は
――今まで望んでも得られなかった、
最高の難易度
じゃないか。悪寒さえ感じながら、行の心身に満ちるのは、
興奮と歓喜
なのだ。負けて失って惜しいのは、自分の命などではなく、必勝不敗の、
戦勝請負
。あまりにも重い。しかし、極限の代償があるからこそ、極致の娯楽がそこに生まれる。人間の、人としての、不条理な喜びがそこにある。蔵の中では、決して手にできなかった、娯楽の極み。
正気の沙汰ではない。それは行にもわかっている。現実の
しかし、行は振り返らない。
それが、それこそが、秋大忌隠には到達できない、
正気の沙汰ではない。それが何なのか。いったい何だというのか!
――正気で
突き進む。迷わずに勝利へ。戦勝請負の別千千行は、そうする。それが勝ちに繋がると思えば、
兵の士気は
娯楽と思えばこそ
、行の戦意は燃える
。行は馬上にいる沈が馬を寄せてきて、行に向かって微笑み、声をかけた。
「ゆっちがそんなに楽しそうにしているのは、久しぶりに見ます」
後方から吹く風は、次第に強さを増してきていて、沈の長い
沈とふたりで気兼ねなく話をしたくて、行は人払いを命じた。
「どうかな。自慢の一番弟子に、一杯食わされたところだよ。すっかり騙されたね」
行は心中で独りごちる、いかにも別千千行がやりそうなことだ、と。
私塾での思い出が、行のうちを巡る。あの頃はお金が足りず、廃棄された木材を補修し、うまく繋ぎ合わせ、それを教壇としていた。そこに立って言ったことを思い返す。
行は逆のことを教えた。行の身長に合わせた、高めの教壇の上で、『木を森に隠したりするな』と。そして、『木を川に沈めてから、森を守れ』と加えた。大事なものがそこにある、来てもらっては都合が悪い、だから守っている、そう誤認させれば、敵は見当違いのほうへ動く。川を探さずに森を攻める。隠はその通りのことをした。
「絶対に進んでほしくないから、鬼神の軍を配して、留めようとしている、無意識でそう思っちゃう。だから、あたしたちはここまで進んだ。実際は全く逆だったんだよ。
どうしてもここまで進んでほしかった
んだ」鬼神の軍が立ちはだかるからこそ、そこを破るべきと誤認した。隠にとって真に都合が悪かったのは、
列椿の軍が動かないこと
だった。「離反からの一連の流れ、戦術に無駄がないよ。お見事ってとこかな」
行の記憶は、ひとつ先へ進む。塾生たち、皆がそろって行の教えに納得するままの中、『俺なら、木を空に浮かべて、敵と一緒に地を探します』なんてふうに、すぐに応用した者が、ひとりだけいた。団子屋の
行の視線の向こうで戦旗がはためく。風が吹き、もう手遅れだと示している。
隠は入念な準備をしていたのだ。調べていただろう。この時期、この場所にどんな風が吹くのかを。
たとえ風が吹かなくとも、隠の策は成る。重要なのは、決めた時刻に、列椿の軍がここにいることだ。なまじ風が吹けば、敵に策を
配慮
を優先した。慎重に慎重を期し、確認に確認を重ね、そしてそれ以上に、策が円滑に成されるように配慮を怠らない。それは、いかにも隠らしい。ひとつの戦術を共有しても、それを用いる者の個性は見え隠れする。
話の流れを無視して、行は言った。
「この気配り、隠坊はきっといい夫になるよ。指輪、やっぱ薬指にはめときゃよかったかな」
八刀鹿訂は死んだ。
なぜ、死ななければならなかったか。
古今東西、いかなる名将であっても決して解消することのできない、どんな
それは必ず発生する。前線にいる兵たちはその理不尽、不等を抱きながら戦うことを余儀なくされる。それは――
――
自分たちは死ぬのに
、なぜ将は死なないのか
。指揮官が死ねば
絶対の不条理、覆しようがないそれを解消する方法を、多くの将が正しく知ってきた。わかっていた。明快な理屈、選びようのない選択肢。ごく
――
死ぬしかない
。将が兵と同様に、同じ条件下で戦い、そして死ぬしかない。
だから、八刀鹿訂はそうした。
鬼の軍に、迷いは無用。ならば、迷いのもとになる理不尽は、指揮官が断たねばなるまい。すれば、絶対の不条理を断ち切ってしまえば、そこにいるのは、ただひたすら戦うことしか知らぬ、
訂は、自らの手で敵を倒したいわけではなかった。戦うのは兵だ。
兵を強くしたかった
のだ。それがため、鬼と化した。確信があった。必ず強くなる、と。遠からず自分を凌駕するであろう、新たな大将、隻眼の鬼神にふさわしい鬼の軍勢となるに違いない、と。わかっていた。もはや将には兵を鼓舞することしかできないと。だから、
そうした
。握った一刀、訂は決してそれを手放さなかった。
最初から最後まで、訂は刀の一振りだけで戦った。
一兵卒として戦い、そして死ななければ意味がなかった。
――兵が、好きに武器を選べるわけがないではないか。
――他の兵から、好きに馬を借りられるわけがないではないか。
――鉄砲は、訓練を積んだ射手が持つ物ではないか。
また、訂はこうも思った。
――防具は行き渡っていないのだ。鬼の鎧は、いっそ遺してしまってもいいではないか。
鬼は、誉れ高き猛将は、自分を生かしてきた戦場に、唯一無二の解を捧げた。
絶対の不条理を、見事、断ち切ってみせた。
加え、訂の
これからの澄が何を背負い、体現し、超えていくのか。鬼神の
そして、月垂りの何たるか。
――少し前、奇跡のさなかまで、戻る。