四一 奇策
文字数 5,429文字
戦場で愚痴をこぼすなど、睦には初めての経験だった。罪悪感はちらとも湧かない。
「だったら、
行は気楽に言うが、結局、嫌なことには変わりない。行の明るい調子に、睦も
乗った
。戦場で軽口を叩くこともまた、初めての経験としてあった。「訂正します。目の前の舞台に上らなくて済むなら、何千通だろうと恋文を書きます」
言ってから、睦は深く嘆息した。どうあれ、上るしかないことはわかっている。
「ま、ある意味、求愛行動には変わりないしさ」
行はそう言って、舞台上に続く段に足をかけた。
悪い冗談だ、と、睦はとっさに思ったものの、すぐに考えを改めた。何もかも本気であるから、別千千行の策であり、始末に負えないのだった。諦めて、行の後に続いた。
行と睦、ふたりで
腕を大きく振り上げ、小さな体で大きな身振りを交え、行は
前説
を始めた。「諸君!」
それは待機が終わることを意味し、また、戦勝請負の中心、別千千行の策が始まることを意味した。
「我々はこれより、新たな作戦行動に移る!」
いくらか、兵たちがどよめいた。それは期待であり、不安でもあった。
「
兵たちの期待の色が増す。生活のために兵をしていればこそ、勝ちたい。勝つほうが、無事に家に帰れる見込みが強まる。極論、
「これは、別千千行の策にして、後に語り
何もかも本気であることを
、今ここで示さねばならないと
!!」そう叫んでから、行は自らが纏う陣羽織に指で触れた。
「さあ、
見る
んだ! 絶対に、決して目をそらすな
!!」行は陣羽織を掴み、
堂々と脱いだ
。陣羽織だけではない。下に着ていた行のすぐ隣で、睦が、行にしか聞こえない声量で言った。
「あえて言います。私、医者と家族以外の男性に裸を見せたこと、ないですからね」
睦もまた服に手をかけ、そして、迷いなく脱いでいく。
合理
であるのだ。自然、兵はざわめく。兵の大半が男であるゆえに、自然、目が集まる。
存分に見てもらわねば意味がない。行はいったん、演説を中途のままにした。ざわめきが波立ち、視線はこちらに強く集まる。だいたいの目は、大人の女の体つき、睦のほうに向いているようだが、行に全く向いてないではなかった。大将が全裸になった驚きゆえなのか、あるいは物好きなのか。
演出として、本気をさらに示すため、行は脱いだ服をまとめて
衣服が無用
ということなのだ。睦にだけ聞こえる声で、行は返した。
「
まだ
だったんだ。睦なら、誘いはありそうだけど」睦も同様、衣服を手近な
「ありましたよ。誘いは。列椿国軍の選抜試験は難関です。勉強と鍛錬で、それどころではなかったんです。選り抜きとなってからは、いつも、仕事が山と積まれてましたし」
兵たちは騒いでいる。化かされたか、夢でも見ているのか、そんなふうだ。実際に頬をつねっている者の姿が、行の目に映った。
「じゃあ、ふたり一緒に、あっちゃんに習おうか。男の扱い方ってやつ」
睦は眉をひそめた。知りたくないことのように思える。しかし結局は尋ねてしまう。
「ひょっとしなくても、私、彼女に先を越されてるんですか?」
行は半ばまで呆れ顔を浮かべ、あっさりと答えた。
「先を越されるどころか。
周回遅れ
だよ。だって、天栲湍って、あっちゃんが嫁いだ先の名字だからね」行の呆れ混じりに対して、睦は諦め混じりで応じた。
「愚問でした。よくよく考えれば、私より遅れをとっている女は、この世のどこにもいません」
「睦もさすがに焦る時期でしょ。あたしもちょっと思うところあるし、あっちゃんに
行にだって、教わるべきことはある。そして、経験に勝る知識はないだろうと考える。左手の中指、そこにある金の指輪に触れながら、行は話を足す。思うところとは何であるのか。
「よくよく考えれば、ひどい話だよ。女に指輪を贈っておいて、薬指にだけははめてくれるな、ってのはさ」
言ってから、行は気持ちを切り替える。もう十分に見たはずだ。行は兵に向けて声を張る。裸のままで、大げさに身振りを交える。
「諸君! 見ただろう! 見ていないとは言わせない!!」
見たならば、行は策を進められる。
人の動かしかた
で争うことが隠のもくろみだった。将の力でやり合うのだと。では、それは将
としてのみ争えるものか、否
だ。今、ここに別の活路がある。人ではない
、約束の活路だ。必勝不敗の神話が人を動かす
。――必ず、勝つ。
――この身をもって示さなければ。
行は自らで体現することを求められた。戦勝請負の意味するところを。確信を。これは常軌の
――そのいずれもが勝利に行き着いたものだ。
行は考えたのだ。必ず勝つ
でっちあげる
ことができるのか。真に見せつけたものは、服を焼き捨てたことではない。
将たるものが、常軌なき戦勝請負の
神話を信じた
ことだ。「まず諸君に求めることは、ごく簡単だ! 見たからには脱いでもらう! ひとり残らず、全員が!!」
女ふたり、それも大将と副将が、万を超える兵の前で裸を晒せば、服を焼いたともなれば、疑うことが困難になる。行の思惑は、まずそこにあった。
将への不信感はもう生じているだろう。戦場で武具を脱ぐのはあまりにも危険と、当然、兵は思う。しかし、ためらってもらっては困る。それでは策が成らない。
ただひとりの兵さえ
、ここに残してはならない
。――
必ず
、勝つ
。示す。行の勝利への確信、行の本気を。万を超す兵を動かすため。
戦勝請負は、別千千行の策は、常に勝利を約束するのだと。
必勝不敗の神話は、
今ここにある
のだと。行は大きく手を振り、強く声を張り上げた。体を隠すそぶりは全くない。
「改めて言っておこう! これは別千千行の策、すなわち
必勝の策
であると!! 恥じらいで戦に勝てるか、答えは否だ!!」語り
「武器も用具も全て捨て置け! 泳ぎが苦手な者は浮き具となるものを探せ! これより奇襲作戦に移る! 全員、あたしの後に続け!!」
大仰な伝説ではなく、
「別千千行のとっておきの奇策は――」
行は、これから成すこと、そのありのままを作戦名とした。
「――
水の尽きつつある川の向こうに、自らが成した策、
――
いない
。そこにいるはずの列椿国軍、一万は超えるであろう兵の姿がない。
「このことも、お前の想定の
隠の隣に立つ裁も、無論、戦場の
「いいえ。
ちっとも
」隠はわずかだけ、首を横に振った。予定外であることは認めねばならない。しかし、不可解だ。手ぶらで敵の領土を進んで、どう益を得ようというのか。隠は苦い調子で言った。
「おそらくは、武器
兵だけがいない。武器や用具、甲冑に至るまで打ち捨てられている。さらには天幕、何らかのために造設したとみえる舞台、持ち主を失ったままでそこにある。隠は必死に考えを巡らせるが、答えを見出せない。何のために?
裁は指揮の判断材料とするため、別なことを訊ねた。
「これは、列椿の軍を追えるのか?」
それについてははっきりしている。隠は答えられる。言い逃れようもなく、目の前に事実が転がっている。
「
追えません
。少なくとも、相手に十分な時間を与えます。この時刻、川の水はほとんど涸れています
」羽撃ちの軍が到着する頃には、川が涸れているようにする。そのことは隠の予定通りに進んでいた。もう、ほとんど流れは尽きている。
「この川、
水の流れがあるから進める
わけであって、歩いて行くなら、相当、手間取ると思いますよ」隠の中で答えは出ない。
――元来が険しい川であるうえ、夜だ。死傷者も出ただろう。それでも先生は川を下ることを決行した。どうして? 武具を捨ててまで、羽撃ちとの対面を忌避する理由は?
しかし、およそ確実としてわかることもある。
「これは、
奇襲作戦ではありません
。ただの時間稼ぎで、避難
です。列椿の軍を、我々、羽撃ちの軍の手の届かないところに配置する、そのためだけの行動です」いくら数で勝ろうと、いくら行が城攻めを得意としていようとも、手ぶらでは月垂りの首府は落ちない。並の将ならどうか知れないが、そこには
逃げ
だ。別千千行は逃走を選んだ
のだ。「私には、うまく逃げおおせたところで、袋の
裁に問われたが、隠には返事ができなかった。わからない。問題はそこなのだ。手ぶらで敵の領内深くに入り込み、そして、どこにも
帰り道がない
。補給路さえ確保できていない。それが成立するならば? 何がどうあれば逃げとして成り立つ
?「報告! 裁将軍に報告!」伝令の兵がふたりのもとまで駆け寄って来て、声を張った。「三点、お伝えすることが!」
裁は頷き、伝令の兵はひざまずいて後、事柄を告げた。
「ひとつ、天幕の
それはそうだろう。隠は考える。そこに兵を配置したところで、人数が少なすぎるうえに、むしろ囲まれてしまう。裁に説明は不要と、隠は黙したままでいた。
「ひとつ、天栲湍改は、我々の包囲を抜け、戦線を離脱した模様!」
隠は裁に視線を向け、何も言わずに頷いた。それは想定していた。広い
「ひとつ、列椿国軍、一名を捕縛! 白旗を掲げ、無抵抗のため! その者は、副将、乙気吹睦を名乗り、裁将軍、並びに隠殿との面会、交渉を要求しています!」
それを聞いて即、裁は太刀を抜いた。その切っ先を、ためらいなく伝令の兵の首元に突きつけた。兵は、ひぃ、と、ごく短く悲鳴を漏らした。
「羽撃ちの兵として、道に反することはするな。交渉の使者は丁重に扱え。縛るなど言語道断だ。ただちに縄を解き、私のもとまで連れてこい」