一二 陰手

文字数 3,541文字



 死処(しどころ)(ひめ)――禍祓(まがばらえ)(はや)は、館の一階にある一室で寝台に腰を下ろし、自分が狙われるのを待っていた。幸いにして、季節は春が訪れたところ、窓を開けていても、さして違和感は抱かれない。今日はいい陽気だ。ここは千束の国では北のほう、南方にある列椿の春とは違う。どうかすると暑く感じる春だ。
 (はや)(よわい)は十二。同年の子らと比べれば、背丈は少し低い。比べて脚は長めだ。そう悪いものではない。見くびってくれる。相手が狙う的が小さくなる。狭い場所に潜り込める。
 早は濃紺の繋ぎ衣裳(ワンピースドレス)をまとい、腿の上で本を開いていた。海の向こうの小説を、和語に翻訳したものだ。貴重な品だが、仕事のために先方に用意させた。早はここで、令嬢としてふるまわねばならない。知らず、わずかに膝を崩してしまっていて、それを直した。心持ち、裾からはみ出る膝頭(ひざがしら)が狭くなった。
 いくらか色素の薄い肌に、繋ぎ衣裳(ワンピースドレス)はよく映える。よく整えられ、真っ直ぐに下りる黒髪もそれを引きたてる。なるほど確かに令嬢然としている。
「偽装も兼ぬて、暇つぶしに読むだけのつもりが」
 早は『か

て』ではなく、『か

て』と言う。
「こうも()ける話だとは」
 『

ける』ではなく、『

ける』と言う。天聳(あまそそ)りの国の中でも最北端、山岳地帯にある僻村(へきそん)で長くを過ごし、早には、その土地に根づいている訛りが染みついている。陰手(おんしゅ)と称する、特異な生業(なりわい)を村中で続ける里、各地に散らばるうちのひとつが早の生まれ故郷だ。
 早は訛りを抜いては話さない。国言葉でしか話したがらず、標準を避ける。
 男女問わず、老若に関わりなく、早たち陰手(おんしゅ)の者はいずれも等しく道具、等しく兵器、それはひとつの真実としてある。本来であれば、歓迎されない訛りだった。聞き込みをして情報を集める役を負えば、不都合が生じる。通じないことも多いからだ。国言葉と標準の言葉を使い分けるのが普通だ。
 他方、陰手が個人という概念を価値のあるものとせず、里という単位、それをもってひとつの共同体、ひとつの生命と捉えることもまた真実。特に天聳りの里はその傾向が顕著だった。聞き込みや交渉、弁舌(べんぜつ)に優れる者は他にいる。頭と口は任せてしまっていい、自分は腕として働けばいい、早はそう判じている。刀を握り、斬ること、それが天聳(あまそそ)りの里のうちでの、自分の

であると。
 国言葉でしか話さないのは、心情の問題が強かった。国言葉を話していると、

一員ではなく、

一員なのだ、早にはそう思える。
「まさか、靴屋の息子を選ぶとは思わねかった」
 読んでいる小説の中で、三角関係はついに決着がつき、主人公である娘は靴屋の息子と恋仲になったのだが、状況はむしろ悪化する一方で、残りの(ページ)数も多くないとなれば、どのような終わりを迎えるのかと、ひどく興味を引かれる。
 思いのほか、読書に熱がこもってしまった。いったん本から目を離した早は、

という音につられて、壁にかかっている柱時計に目をやった。この館にある他の多くのものと同様、海を渡ってきたものだ。
「十四時十四分、そろそろか」
 円を巡る短い針は〈2〉を過ぎたところを指し、長い針は〈3〉のすぐ上を指している。西国(さいごく)の数字で、西国での時の数え方を表すそれは、本来ならば、早には馴染みの薄いはずのものだった。陰手たちでさえ、知識として知る程度、早のように活用する者は少ない。諸国連合全体では、時刻を読み取れるものはごく少数だ。
 そも、諸国連合には

という単位が存在しない。小刻みに進む秒針がどんな役割を負っているか、おおよその者には見当がつかない。早は考えている。秒という単位があり、あと四十秒弱で十四時十五分になることを。
「読みきれねは、口惜しい」
 思わず口に出る。小説はまさに佳境だが、結末を知る前に仕事が始まってしまうだろう。
「報酬代わりにもらえねか、どうか」
 故郷(ふるさと)には十分、送金できている。小説の一冊くらい欲しがっても怒られはしない。個人という概念を受け入れない、それは個人的な欲求の一切が認められないということではなく、早の欲求が里全体の欲求、利益として考慮されるということだった。すなわち、早が死処(しどころ)(ひめ)でいることもまた、里という生き物の総意なのだ。
 扉が開き、執事らしき人物が顔を出した。もっとも、それは装いだけのことで、これもやはり先方が雇った傭兵に過ぎない。令嬢がたったひとりで館にいるとなれば、怪しまれる。執事が部屋に来る時刻は、前もって、早が細かく決めておいた。
「お嬢様、紅茶のおかわりは?」問われて、一瞬だけ間が空く。「いいえ」早は結局、短く返すにとどめた。どれが国言葉でどれが標準なのか、早にはもうわからない。一応は令嬢としてふるまってみようかと思ったのだったが、無駄な努力とすぐに諦めた。
 

標準の発音が、すっかり上塗りされてしまっている。あっちの里は生きた心地がしなかった。こっちの里は温かかった。どっちに馴染みたくなるか、あるいは忘れてしまいたいか、自問する余地がない。
 執事は早の返事を確認すると扉を閉め、廊下を歩いて部屋から離れた。聞こえる足音が次第に遠ざかっていく。わざと音を立てて歩けと命じたのは早だ。用件を言い漏らしたのでなければ、執事はしばらく部屋に来ない。狙うなら今だった。
 足音が聞こえなくなってから、早は全神経を研ぎ澄ませる。武芸の嗜みがないであろう令嬢、まず間違いなく、すぐに首を折ろうとしてくる。それならば、服の裏、腿に潜ませた短刀で、十二分にことが済む。
 奥の手こそわからないが、傭兵としての経歴が長い(うる)の情報を仕入れるのはたやすかった。人を呪わば穴ふたつとは、よく言ったもの。呪いには代償がつきまとう。
 空気の振動が肌に伝わった。床の(きし)む音がする。目に見えぬ蛇が迫っているのだ。そろりと、早は利き腕である左手を腿に伸ばす。
 潤は、遠見で目にした場所に、呪いの蛇を出すことができる。その大蛇は、他の者の目には見えず、潤が随意に動かせる。ふざけたことに、(あそ)という名前をつけているらしい。色は黒であると聞いたが、無論それは、潤の言うことを信じるならば、だ。
 見えないが、(さわ)れる。そうでなければ、人を絞め殺すことはできない。
 大蛇が早の細い首に触れるか触れないかというところで、早は短刀を振り、造作なくそれを斬った。
 斬り捨てると同時、早の脳裏に、ひとつの景色が浮かぶ。話に聞いた通りだった。

は、これで死んだのだ。
 早の中で浮かんだ像は、山中、崖の上にいる黒の振袖を着た白い髪の女。隣には白の大蛇がいる。ずいぶんと眺めが良さそうな場所だ。周辺、この館から半里までの地形で、潤が好んで陣取りそうな場所は下調べをしてある。浮かんだ景色が地図上のどこにあたるか、すぐに見当がついた。
 そして、その場所から半里の圏内に潤の側の陣地がないこともまた、すぐに判断できた。呪いの蛇を用いて救援を呼ぶことはできない。もともと、この館を選んだのはそのためだった。
 潤の出す呪いの蛇は、幾度殺しても、二匹目三匹目と繰り返し出される。潤が蛇と一緒に傷つくこともない。しかし、呪いの蛇を殺せば、とどめを刺した者にひとつの情報が渡る。
 

、その景色が脳裏に閃く。呪いを破った者は、逆に見通してやることができるのだ。
 潤にとっての代償、早にとっての恩恵、それを得るために、着慣れぬ服を着ていた。これ以上、蛇に狙われてやる義理はない。早は躊躇(ちゅうちょ)なく唇を開いた。
可惜夜(あたらよ)
 早以外、そこには誰もいなかった。しかし、誰が何人いたところで、発された言葉を解することはできなかった。
 それは、早にのみ許された咎言。罪の証であるから。ある一夜に罪を犯したことの、揺るぎない証左なのであるから。
 早は、あらかじめ右手首に巻いておいた紐を手早くほどき、頭の後ろ、頂点に近しいところで黒髪をひとつに結った。仕事をするにあたって、こうでなければ気合が入らない。
 俊敏でこそあったが、何ら隠そうとしない、堂々とした仕草だった。
 それでも、潤にその光景は見えなかった。



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登場人物紹介

哭日女囁 なきひるめ・ささや 16歳、女。

四人組の傭兵、〈戦勝請負〉の一員である。

通称、焉の囁。

天栲湍改 あめのたくたぎ・あらた 16歳、女。

〈戦勝請負〉の一員である。

通称、矛の改。

双思沈 ならびおもい・しず 14歳、女。

貴人の出身。〈戦勝請負〉の一員。

通称、知の沈。

別千千行 ことちぢ・ゆく 13歳、女。

〈戦勝請負〉の一員にして中心人物。

稀代の戦術家。

乙気吹睦 おといぶき・むつ 26歳、女。

列椿国軍所属・従七位。

行付きの任を命じられる。

神幡姫潤 かむはたひめ・うる 17歳、女。

兵(つわもの)の頂点として知られる。

通称・魅の潤。

戯(おど)と名付けた大蛇をいつも連れている。

禍祓早 まがばらえ・はや 12歳、女。

“死処の姫”の異名を持つ。

通称・夜の早。

秋大忌隠 あきおおいみ・かく 21歳、男。

隣国・羽撃ちの国に雇われた軍師。

行の一番弟子。

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