第7話 クリムト

文字数 1,998文字

 槇から報告書のメールが届いたのを確認し、浩行は槇の携帯に連絡を入れた。 
「一切変わったところがない、至って普通の子ですね。交流関係も白、健康状態も良好で持病もない、勤務態度も真面目、家柄も文句なく、一見幼いような外見ですが、思考や性格は同年代より大人びていいる印象です。社交性も高く、金銭感覚もしっかりしている」
 槇はひとつづきに説明した。
「写真にある川島樹についてですが、友人以上恋人未満、と言ったところでしょう。どちらもまだ若く、将来を約束しているとも思えませんし。あと、これは私のカンですが、おそらくこの二人はプラトニックでしょうね」
「ご丁寧だな」
 思わず浩行の口から笑い声が出た。
「ああいう子は数年であっという間に綺麗になります。早めに手を打った方がいいです」
「ありがとう。助かったよ」
「いえいえ、またご入用ならいつでも」
 そこで電話を切った。

 不意に見たくなって、クリムトの画集をAmazonで注文した。おそらく実家に帰ればクリムトの画集はどこかにあるだろうが、あいにく戻っている時間がないし、探すのも面倒なので注文することにした。
 Amazonで買うものはほとんど会社に届くようにしており、秘書に一言伝えればデスクに置いておいてくれる。
 葵のお土産も書店で買ったものではなく、ネットで注文したものだった。それを秘書に頼んで大型書店の紙袋に入れたものをそのまま渡した。
 書店に全巻揃っている保証はないし、第一書店に行って探している時間がないのだ。
 
 今週は忙しい。東京でイベントがあり、取材があり、他県の県立図書館に大量の椅子の搬入があった。
 デスクチェアにもたれかかり、目を閉じる。
 浩行は無意識に、葵の姿を脳裏でデッサンしていた。
 かなり昔、寝ても覚めても絵ばかり描いていた時期がある。その頃から、気に入ったもの、美しいと思ったもの、記憶に残したいもの、そういうものをデッサンしながら頭の中に思い浮かべるようになった。
 細い筆のペンで、艶のあるセミロングの髪を書きこむ。大きくはない控え目な瞳、きゅっと引かれた顎、今時らしい華やかさに欠けるので、目立たないが葵の造形は職人が作った精巧な人形のようだった。
 昔から浩行のすることには基本的に何でも賛成してくれた祖父も、美大に進むことだけは許してくれなかった。
–絵ならいくらでも描ける。そのためにするべき仕事をしろ。
 病室ではっきりそう言われた。
–好きなもの、大切なものを守りたいと思ったら、まず稼げ。話はそれからだ。
 こうも言われた。
 基本的に祖父は一貫してリアリストだったが、それも含めて一貫して尊敬できる人間だった。
 戦後すぐ家具職人からインテリア会社を興し、一代で大きくした。仕事には厳しかったのだろうが、よく本を読み、博識で、理知的な人だった。木工大工が得意だったから、子供の頃はよく木のおもちゃを造ってもらった。

–好きな女を抱け。そのために最大限の努力をしろ。好きな女を抱けた男と一生抱けなかった男とではその後の人生が全く違うものになる。
 いろいろなことを教えてもらったが一番印象に残っているのは、病室でぽつりと言ったこんな言葉だった。
 おそらく祖父は好きな女を抱けなかった後悔があるのだろうと浩行は感じていた。戦争もあったし、家柄やしがらみも多かっただろうが、真相はわからない。良家の娘だった祖母とは、特に不仲には見えなかったが、きっと祖父のいう好きな女は祖母ではなったのだろう。
 もう絵を描かなくなってずいぶん経つ。
 美大進学を反対されたこと、描きたい対象は結局ひとつだったこと、それがなくなってしまったこと、要因はいくつかあるが、あの熱に浮かされたような、寝ても覚めても絵筆を握っていた頃のことを思い出すことはほとんど無い。
 
 結局、自分も好きな女を抱けていないのだろう。
 浩行はため息をついた。
 祖父の言った言葉の意味が分かるような気がした。本当に欲しいものを手に入れられなかった人間は、ずっとその幻影を追い続けることになる。
 それでも、と思う。
 あんなに自身が動揺した瞬間はなかった。
 あの葵を見た瞬間、時間軸が強制的に巻き戻される感覚があった。あの病院の中庭に、高校生時代の自分に。
 どうせ二度と抱けない女なのだ。代わりを探すくらい罪はないだろう。
 手に入れなければ、と思う。
 今度こそ、欲しいと思ったものを手に入れなければ、と思う。

 一度目は源氏物語だった。
 次はどうするかな。
 浩行は槇から送られてきた報告書の添付写真を見つめた。
 葵はとても自然な笑顔を横顔の青年に向けている。自分に向けられていた表情よりだいぶ幼かった。
 川島樹。
 苦学生の大学院生、か。
 結局は葵に選んでもらわなくてはいけない。
 もっと言うと、彼女が自分で選んだ、と思ってもらわなければならないのだ。
 浩行はそこまで考えてPCを閉じた。
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