第4話 樹

文字数 2,264文字

 その週の休日、葵は東京にいた。新幹線で2時間かからない場所に住んでいるので、それほど遠くは感じないが、もう暮らしている場所ではない、日常を送っていない東京は新鮮だった。
 3月まで通っていた大学に向かう。新学期なのでまだまだ学生が多く、上京してきたばかりの初々しい新入生たちとすれ違った。
 懐かしいな。
 ついこの前まで学生だったのに、そんなことを思う。彼らの未来はどんな風に広がっているのだろう。
 来年はどこかにちゃんと就職しないとな。
 葵は大学の就職課に立ち寄り、大学の掲示板に貼られた求人票をチェックする。営業職や、エンジニア、デザイナーの仕事…。
 自分は何をしたいのだろう。自分のできること、得意なことはなんだろう。
 図書館の仕事は好きだなと思う。できたら正職員で図書館に勤められたら最高だ。となるとやはり市役所や区役所の職員、または国会図書館の職員なら国家公務員となる。
 まず、どこの自治体を受けるべきなのか。国会図書館なら基本的に勤務は東京になる。また東京で暮らすのか、例えばここで結婚して、子供を育てる。
 それも一つの選択肢なのかな。
 でも、この都会での子育ては大変そうだな。
 そこまで考えたときだった。
「葵」
 懐かしい声がした。茶色の髪の毛に屈託のない笑顔。春の日差しの中でさっぱりした顔をしているいつもの樹だ。その顔を見ただけで考え事が吹き飛んでしまう。元気になる。
「久しぶり。授業、大丈夫?」
「うん。大学院だからな。バイト、夕方からだからそれまでだけど、いい?」
 二人は並んで歩き始めた。何となく駅に向かう。本屋に立ち寄って、空いているカフェに入る。
「勉強してる?」
 樹が葵の買った本を見ながら尋ねた。葵は公務員試験対策の問題集を購入していた。
「うん。ぼちぼち。樹は就職活動するんだよね?」
「そうだな。最初はデザイン事務所からになると思うから、行きたいと思ってるところをいくつか回る予定」
「難しいの。建築事務所って」
「それほど入るのは難しくないけど、個人事務所に入ったら数年間は確実に安月給だな。まだまだ貧乏生活は続く」
 樹は笑いながら言った。昔から樹はそうだった。奨学金で大学も大学院も進んで、生活費を稼ぐためにバイトばかりしている。それでも彼から悲壮感が漂うことはなかった。基本的に体力があり、好きなことを勉強しているという自負があったからだろう。会える時間は少なかったが、会っている間は、樹は愚痴や日々の大変さを口にすることはなく、いつも笑顔だった。
「建築事務所って、東京なの?」
「どうかな。いい事務所だと思ったらどこでもいいと思う」
 さらりと言った樹の言葉に葵はちょっとだけ面食らう。
 あたしはどうしたらいい? って意味で聞いたんだけどな。
 樹の顔をじっと見つめても、意味が分からないというように不思議そうな顔をしている。
 貴女がどこで働くのかで、あたしの将来も変わってくるよ、という意味の言葉をどこかで伝えたかった。
「どうしたんだよ。変な顔して」
「何でもない」
 葵は首を振った。
 いいや、後にしょう。この話は電話でしてもいいし、少なくとも公務員試験を受けるのか、民間にするのか、自分でももう少し考えてから相談しよう。
 22歳の自分にとって将来がまだ分からないように、23歳の樹だって分からないだろう。いずれこの話は相談すればいい。今は楽しい会話だけをして、新生活の環境の変化で緊張していた自分の心が解けていく心地よさを味わっていよう、葵はそう思って、違う話題に切り替えた。 

「じゃあ、またな」
 樹とは駅で別れた。本屋に立ち寄り、お昼ご飯を食べて、お茶をしながら話をした、半時間ほどのデートだった。
「うん。またね」
 樹と葵は何となく握手をする。いつもの別れの挨拶だった。変な習慣だが、何となく樹がいつも別れ際にするので、しないと変な感じになる。
「もう少し、一緒にいられる時間があればいいんだけど」
 わざわざ新幹線に乗ってきた葵に申し訳なく思ったのか、樹が謝った。
「いいよ。バイトあるって知ってたし」
「‥‥泊まってってもいいんだけどな」
 樹がぼそっと付け加えるみたいに言う。
「また今度ね」
「分かってるよ。じゃあ、気をつけて」
 樹は笑ってそう言うと駅の改札口に吸い込まれていった。

 葵と樹の関係はいつもここまでだった。
 葵が樹のアパートに行ったことは一度だけある。古いアパートの一階だった。樹らしい、適度に散らかって、来客のために適度に片付けられた部屋でお茶を飲んだ。それだけだった。
 付き合って1年ほどだったが、その後も、樹に何度かアパートに誘われたことはあった。葵も樹の部屋に行くことにそういう意味を汲み取っていたし、樹もそうだったはずだが、何度か誘われたときに葵が「もうちょっと後がいい」と呟いた言葉を、それから樹はずっと尊重してくれた。
 明確にお互いに言葉にしたわけではないが、きっと近いうちにそういうことになるだろう、という予感は葵にもあった。でも無理に早める必要はない、だって自分たちはずっと一緒にいるのだから、焦る必要はない。そういうコンセンサスが二人の間にはあるのだろう、と葵は解釈していた。少なくとも葵自身はプラトニックな関係が続いても、焦ってはいなかったし、きちんと説明すれば樹も分かってくれるはずだと思っていた。
 樹が忙しかったというのもあるが、本質的な部分、精神的な部分で共鳴しやすい二人だったからこそ、行為の有無には重きを置いていなくても、きっと大丈夫だろう、と葵は解釈していた。
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