第3話 瑠璃
文字数 2,184文字
その日のうちに瑠璃から連絡があり、翌日の夕食にお邪魔することになった。
大学を卒業したあとも、東京でしばらく「ふらふら」する予定だという瑠璃は相変わらず明るく元気がいい。慎重で大人しかった葵とは何もかも正反対だ。瑠璃は中学から市内の私立女子校に通うようになってからは、小学生のころのように一緒に遊ぶことはなくなったが、それでも週に一度、瑠璃の母親から習うお茶の時間は一緒だった。
「葵ちゃん! 久しびりだね」
瑠璃は大学に入った頃から、所謂雑誌に出てくるような女子大生になった。実際読者モデルとしてお嬢様系の雑誌に出る瑠璃を何度か見たことがある。
それでも久しぶりに会う瑠璃は相変わらず明るく、根本的にいい子で裏表のない性格が懐かしかった。
瑠璃の実家は家具職人から財をなした瑠璃の祖父が興したインテリア会社を今でも経営している。経営自体は瑠璃と父親と瑠璃の兄が行なっているので、瑠璃は気楽なお嬢様暮らしだった。会社は北欧家具を中心に、手堅く行なっているらしく、経営が上手く行っているらしいことは、瑠璃の実家の細やかな部分にも手の込んだ豪華さを見れば明らかだった。インテリアのほとんどは瑠璃の実家の会社の商品だった。贅沢にヒバや天然杉を使ったダイニングテーブルや椅子が暖かな雰囲気を醸し出している。子供の頃から出入りしていた家だからか、瑠璃の実家の会社の製品は街で見かけても何となくすぐに葵には見分けがついた。
仕事で不在の瑠璃の父親を除いて、気楽な女三人の夕食を楽しんで食後のコーヒーを飲んでいると、玄関がドアノブが回るガチャガチャという音がした。
「あれ、パパ?」
「そんなはずはないけれど…」
瑠璃と瑠璃の母親がそんな会話をしているところに、背の高いスーツ姿の男性が入ってきた。
「お兄ちゃん!」
「あら、浩行さん」
額に前髪が落ちないようワックスで固められた髪を掻き上げながら顔を上げた浩行と目が合った。葵はこの瞬間の浩行の表情を、その後何度も思い出すこととなる。
幽霊を見たような、信じられないようなものを見たような、そんな表情だった。浩行が息をのむ音が聞こえてきそうだった。
「お兄ちゃん、こちら小学校の頃の同級生の大平葵ちゃん。どうしたの、驚いた顔して」
瑠璃も驚いたように笑った。
「いや…。珍しいな、お前が友達連れて来るなんて」
「お茶のお教室にも来てくれてたのよ。浩行さん、その頃東京だったから、会ったことがなかったのね」
「失礼しました。女だけでお楽しみのところを」
浩行は取り直したように葵に向かって軽く頭を下げた。意図的に計算された笑顔を向けている。直線的なラインのスーツを完璧に着こなした、涼しげな目が印象的な、賢そうな大型犬のような人だと葵は思った。そういえば瑠璃は昔から歳の離れた兄をよく自慢していた。
「珍しいわね。実家に寄るなんて」
瑠璃の母親の言葉にはほんの少しだけ毒が込められている。滅多に帰ってこないのだろう。
「ちょっと必要なものがあって寄ったんです。久しぶりだから、コーヒーくらいは飲んで行きますよ」
浩行はそういうと広いダイニングを出て行った。
さっきより明らかに瑠璃も瑠璃の母も嬉しそうだった。瑠璃の母がいそいそとお茶の準備をしている。
「うちのお兄ちゃん、かっこいいでしょう」
瑠璃が当たり前のことのようにいう。葵は笑ってうんうん頷いた。
「そうか、大平酒造のお嬢さんなんだね」
葵、瑠璃、瑠璃の母親、浩行で揃って移ったリビングで、コーヒーを飲みながら、浩行は葵に話しかけた。
先程一瞬走った緊張感はもうない。スーツのジャケットとネクタイを外した、寛いだ姿で、いかにも落ち着いた社会人だった。
「はい。経営自体は全く関わってないんですけど」
葵の実家は、昔から続く造り酒屋を営んでいる。と言っても、瑠璃のところのような豪華さは一切なく、最近では経営も大変だとよく母がこぼしている。
「一度挨拶したいと思ってたんだ」
浩行はさすが若手の実業家と言った雰囲気で、穏やかだがとても話し上手で聞き上手だった。相槌と質問が上手いので、葵もするすると誘導されて話してしまう。しかも年下の葵の話を最後まできちんと聞いてくれる。大人の男性とこんな風にプライベートな場面で、向き合って話をするのは葵にとって初めてのことだった。
「図書館か、最近本を読む時間もなかったけど、確か有名な建築家が建てたところだよね。君は、カウンターにいるの?」
「いつもいるわけじゃないんですけど…。いることもあります」
「そうか、貸し出しカードがないから、借りるならまずカード作るとこからかな」
「即日発行でその場で使えます」
「じゃあ、そのうち」
浩行はゆっくりと笑顔を葵に向けた。
その日は結局そこでお開きとなり、ひとり暮らしのマンションに帰る浩行の自家用車に送られて葵は家に帰った。
レクサスの助手席でも、浩行は完璧に聞き上手で、大学は文学部だったこと、卒論は源氏物語だったこと、はたまた今欲しいと思っているが高くてなかなか手が出ない本のことまで話してしまい、葵は家に帰ってから思い返すと、自分の言動があまりにもらしくないので恥ずかしくなった。
このときは、この夜が自分の人生を大きく変えることになるとは、まだ気付いていなかった。
葵はこの日の出会いを、その後何度も後悔することとなる。
大学を卒業したあとも、東京でしばらく「ふらふら」する予定だという瑠璃は相変わらず明るく元気がいい。慎重で大人しかった葵とは何もかも正反対だ。瑠璃は中学から市内の私立女子校に通うようになってからは、小学生のころのように一緒に遊ぶことはなくなったが、それでも週に一度、瑠璃の母親から習うお茶の時間は一緒だった。
「葵ちゃん! 久しびりだね」
瑠璃は大学に入った頃から、所謂雑誌に出てくるような女子大生になった。実際読者モデルとしてお嬢様系の雑誌に出る瑠璃を何度か見たことがある。
それでも久しぶりに会う瑠璃は相変わらず明るく、根本的にいい子で裏表のない性格が懐かしかった。
瑠璃の実家は家具職人から財をなした瑠璃の祖父が興したインテリア会社を今でも経営している。経営自体は瑠璃と父親と瑠璃の兄が行なっているので、瑠璃は気楽なお嬢様暮らしだった。会社は北欧家具を中心に、手堅く行なっているらしく、経営が上手く行っているらしいことは、瑠璃の実家の細やかな部分にも手の込んだ豪華さを見れば明らかだった。インテリアのほとんどは瑠璃の実家の会社の商品だった。贅沢にヒバや天然杉を使ったダイニングテーブルや椅子が暖かな雰囲気を醸し出している。子供の頃から出入りしていた家だからか、瑠璃の実家の会社の製品は街で見かけても何となくすぐに葵には見分けがついた。
仕事で不在の瑠璃の父親を除いて、気楽な女三人の夕食を楽しんで食後のコーヒーを飲んでいると、玄関がドアノブが回るガチャガチャという音がした。
「あれ、パパ?」
「そんなはずはないけれど…」
瑠璃と瑠璃の母親がそんな会話をしているところに、背の高いスーツ姿の男性が入ってきた。
「お兄ちゃん!」
「あら、浩行さん」
額に前髪が落ちないようワックスで固められた髪を掻き上げながら顔を上げた浩行と目が合った。葵はこの瞬間の浩行の表情を、その後何度も思い出すこととなる。
幽霊を見たような、信じられないようなものを見たような、そんな表情だった。浩行が息をのむ音が聞こえてきそうだった。
「お兄ちゃん、こちら小学校の頃の同級生の大平葵ちゃん。どうしたの、驚いた顔して」
瑠璃も驚いたように笑った。
「いや…。珍しいな、お前が友達連れて来るなんて」
「お茶のお教室にも来てくれてたのよ。浩行さん、その頃東京だったから、会ったことがなかったのね」
「失礼しました。女だけでお楽しみのところを」
浩行は取り直したように葵に向かって軽く頭を下げた。意図的に計算された笑顔を向けている。直線的なラインのスーツを完璧に着こなした、涼しげな目が印象的な、賢そうな大型犬のような人だと葵は思った。そういえば瑠璃は昔から歳の離れた兄をよく自慢していた。
「珍しいわね。実家に寄るなんて」
瑠璃の母親の言葉にはほんの少しだけ毒が込められている。滅多に帰ってこないのだろう。
「ちょっと必要なものがあって寄ったんです。久しぶりだから、コーヒーくらいは飲んで行きますよ」
浩行はそういうと広いダイニングを出て行った。
さっきより明らかに瑠璃も瑠璃の母も嬉しそうだった。瑠璃の母がいそいそとお茶の準備をしている。
「うちのお兄ちゃん、かっこいいでしょう」
瑠璃が当たり前のことのようにいう。葵は笑ってうんうん頷いた。
「そうか、大平酒造のお嬢さんなんだね」
葵、瑠璃、瑠璃の母親、浩行で揃って移ったリビングで、コーヒーを飲みながら、浩行は葵に話しかけた。
先程一瞬走った緊張感はもうない。スーツのジャケットとネクタイを外した、寛いだ姿で、いかにも落ち着いた社会人だった。
「はい。経営自体は全く関わってないんですけど」
葵の実家は、昔から続く造り酒屋を営んでいる。と言っても、瑠璃のところのような豪華さは一切なく、最近では経営も大変だとよく母がこぼしている。
「一度挨拶したいと思ってたんだ」
浩行はさすが若手の実業家と言った雰囲気で、穏やかだがとても話し上手で聞き上手だった。相槌と質問が上手いので、葵もするすると誘導されて話してしまう。しかも年下の葵の話を最後まできちんと聞いてくれる。大人の男性とこんな風にプライベートな場面で、向き合って話をするのは葵にとって初めてのことだった。
「図書館か、最近本を読む時間もなかったけど、確か有名な建築家が建てたところだよね。君は、カウンターにいるの?」
「いつもいるわけじゃないんですけど…。いることもあります」
「そうか、貸し出しカードがないから、借りるならまずカード作るとこからかな」
「即日発行でその場で使えます」
「じゃあ、そのうち」
浩行はゆっくりと笑顔を葵に向けた。
その日は結局そこでお開きとなり、ひとり暮らしのマンションに帰る浩行の自家用車に送られて葵は家に帰った。
レクサスの助手席でも、浩行は完璧に聞き上手で、大学は文学部だったこと、卒論は源氏物語だったこと、はたまた今欲しいと思っているが高くてなかなか手が出ない本のことまで話してしまい、葵は家に帰ってから思い返すと、自分の言動があまりにもらしくないので恥ずかしくなった。
このときは、この夜が自分の人生を大きく変えることになるとは、まだ気付いていなかった。
葵はこの日の出会いを、その後何度も後悔することとなる。