第20話 不穏
文字数 2,359文字
図書館の仕事が終わり、夕食を終え、そろそろ勉強を始めようかと思っていると、弟の悠人が、ねぇちゃん、ちょっと、と葵を部屋の前の廊下で呼び止めた。
どうしたの、と聞くと、悠人は素早く自分の部屋に葵を引き入れた。
「うちの家がやばいって話、マジ?」
「まさか」
葵は思わず大きな声を出した。しーっ!っと悠人が人差し指を口に当てる。
「誰から聞いたの、それ」
「母さんが電話口で誰かに話してるのが聞こえたんだ。多分、融資? の相談してるみたいだった」
「それ、本当なの?」
「多分。うちってそんなにやばかったのかな…」
悠人は深刻な顔をした。学校で自習してきたのか、悠人はまだ制服のままだった。試験や勉強が立て込んでいるのか、疲れた顔をしている。
葵もにわかには信じられなかった。確かに、昔ほど経営が上手くいっていないのは気づいていたが、うちは何より江戸時代から続く老舗だ。そんな店が潰れるなんてことがありうるだろうか…
あれ、とそこまで考えて、どこかでこの話に関係した話をした記憶が蘇り、一ヶ月前にした浩行との会話を思い出した。
−家のこと、何か聞いてる?
浩行はそう言っていた。もしかしてこのことだったのだろうか。
急に悠人の言葉が信憑性を帯びてきて、心臓がどくどくする気がした。
「まだ分からないだから、深刻に考えすぎのは止めた方がいいよ。受験生なんだから」
「…酒蔵、無くなるのかな…」
葵の話が聞こえていないのか、悠人はなおも沈んでいた。悠人は、醸造学科のある大学が第一志望だった。落ち込むのも無理はない。
「あたしもちょっと調べてみるよ」
「調べるってどうするんだよ。母さんに聞くとか?」
「それはしないけど…、とにかく悠人は心配しないで勉強しなよ」
葵は姉らしく弟を安心させようと努めて明るい声を出す。
「分かった…」
悠人はまだ納得しきれない様子のまま、自室に入っていった。
葵は自分の部屋に戻っても、さっき悠人に聞かされた話が衝撃的すぎて胸がどきどきしていた。
落ち着こう。とりあえず、落ち着いて考えよう。
浩行からあの話、というかあの一言を聞いたのはもう一ヶ月も前だ。
あの日、BBQの帰りにタクシーに乗る直前だった。
あれから浩行には会っていないし、連絡もしていない。これ以上会いたくないと言ったのは自分なのだから、当然だった。
どうして、あのとき、あの言葉の意味をもっとちゃんと考えなかったんだろう…。
自分の考えの至らなさに腹が立っていた。あのとき、もうすでに浩行の耳には、うちの経営状況がまずいというのは入っていたのだ。弟の悠人だって、うちの様子がおかしいとどこか気付いていたから、母の電話の内容が耳に入ったのではないか。
葵も父の忙しそうな様子には気付いていた。それなのに、図書館まで送り迎えをしてもらったり、母にも心配をかけたりした。結局迷惑ばかりかけている…
自分ばかりのうのうと試験勉強をして、少しいい結果が出たからといって浮かれていたことが恥ずかしかった。
葵はパソコンを開けて、店のHPにアクセスした。基本的な会社の情報と商品の説明と通販ページが主で、葵が見たかった財務諸表の情報などはなかった。
適当に、「大平酒造 倒産」や「大平酒造 経営難」などと打ち込んで検索をかける。ヒットはするが、どれも関連性のあるものはなく、葵の欲しい情報は得られなかった。
葵は携帯をじっと見つめた。一番手っ取り早いのは、浩行に直接聞くことだったが、あのBBQの日、もうこれ以上会いたくないと自分から言っておきながら葵から連絡するのは気が引けた。
お母さんに、聞くとか…?
聞いてもきっとはぐらかさらてしまうだろう。もっと母の口を割る証拠がないと…
葵は意を決して、浩行に電話をかけた。時間は夕方だったが、浩行はすぐに電話に出た。
「お久しぶりです。葵です」
「久しぶりだね。どうしたの、急に」
浩行の声は前と変わらず、低く静かに笑みを含んでいるように聞こえる。
「ちょっとお伺いしたいことがあって…」
「うん。今ちょっと立て込んでてね。もう少ししたら、こっちからかけるから、待っててくれる?」
「はい、すみません」
「じゃあ、また」
葵は携帯を見つめたまま、タイミングが悪い自分の行動にまた嫌気が差している。浩行だって立派な社会人で、まだ夕方の時間なら働いている可能性の方がずっと高いのだ。悠人から聞かされたことに動揺して、夜になるまで電話をかけるのを待てなかった自分がより考えなしの幼稚に思えて後悔した。
電話がなって慌てて取ったが、相手は樹だった。
「葵? 今学校からバイトに行くところなんだ。元気?」
樹の明るい声に、滅多にないことだが、葵はちょっとだけ精神を逆撫でされた気がした。
「ごめん、樹。今ちょっと電話を待ってるの。あとでもいい?」
「そうか。ちょっと話したかったけど、あとでいいや。じゃあね」
樹は急いで電話を切った。
ほぼ同時にまた携帯が鳴る。今度は浩行だった。
「ごめん、ちょっと慌ただしくて。どうしたの?」
「…すいません。仕事中に電話してしまって…」
「それはいいけど…。どうしたの、何だか声が元気ないけど」
「…あの、前に、あのBBQのあった日に…、浩行さん…、うちの家の話を私に聞きましたよね。そのときのことをお聞きしたくて」
そこまで聞くと浩行は納得したというように、ああ、と声を出した。
「誰かから聞いた?」
「はい…。でも信じられなくて…。詳しいことをお聞きしたかったんです…」
「なるほど」
「すいません…。他に聞く人が思い浮かばなくて」
「うん、分かった。悪いんだけど、今東京でね。金曜に帰るから、それからでもいいかな?」
「…はい」
「その日、仕事?」
「はい、19時までです」
「じゃあ、図書館に迎えに行くよ」
「わかりました」
どうしたの、と聞くと、悠人は素早く自分の部屋に葵を引き入れた。
「うちの家がやばいって話、マジ?」
「まさか」
葵は思わず大きな声を出した。しーっ!っと悠人が人差し指を口に当てる。
「誰から聞いたの、それ」
「母さんが電話口で誰かに話してるのが聞こえたんだ。多分、融資? の相談してるみたいだった」
「それ、本当なの?」
「多分。うちってそんなにやばかったのかな…」
悠人は深刻な顔をした。学校で自習してきたのか、悠人はまだ制服のままだった。試験や勉強が立て込んでいるのか、疲れた顔をしている。
葵もにわかには信じられなかった。確かに、昔ほど経営が上手くいっていないのは気づいていたが、うちは何より江戸時代から続く老舗だ。そんな店が潰れるなんてことがありうるだろうか…
あれ、とそこまで考えて、どこかでこの話に関係した話をした記憶が蘇り、一ヶ月前にした浩行との会話を思い出した。
−家のこと、何か聞いてる?
浩行はそう言っていた。もしかしてこのことだったのだろうか。
急に悠人の言葉が信憑性を帯びてきて、心臓がどくどくする気がした。
「まだ分からないだから、深刻に考えすぎのは止めた方がいいよ。受験生なんだから」
「…酒蔵、無くなるのかな…」
葵の話が聞こえていないのか、悠人はなおも沈んでいた。悠人は、醸造学科のある大学が第一志望だった。落ち込むのも無理はない。
「あたしもちょっと調べてみるよ」
「調べるってどうするんだよ。母さんに聞くとか?」
「それはしないけど…、とにかく悠人は心配しないで勉強しなよ」
葵は姉らしく弟を安心させようと努めて明るい声を出す。
「分かった…」
悠人はまだ納得しきれない様子のまま、自室に入っていった。
葵は自分の部屋に戻っても、さっき悠人に聞かされた話が衝撃的すぎて胸がどきどきしていた。
落ち着こう。とりあえず、落ち着いて考えよう。
浩行からあの話、というかあの一言を聞いたのはもう一ヶ月も前だ。
あの日、BBQの帰りにタクシーに乗る直前だった。
あれから浩行には会っていないし、連絡もしていない。これ以上会いたくないと言ったのは自分なのだから、当然だった。
どうして、あのとき、あの言葉の意味をもっとちゃんと考えなかったんだろう…。
自分の考えの至らなさに腹が立っていた。あのとき、もうすでに浩行の耳には、うちの経営状況がまずいというのは入っていたのだ。弟の悠人だって、うちの様子がおかしいとどこか気付いていたから、母の電話の内容が耳に入ったのではないか。
葵も父の忙しそうな様子には気付いていた。それなのに、図書館まで送り迎えをしてもらったり、母にも心配をかけたりした。結局迷惑ばかりかけている…
自分ばかりのうのうと試験勉強をして、少しいい結果が出たからといって浮かれていたことが恥ずかしかった。
葵はパソコンを開けて、店のHPにアクセスした。基本的な会社の情報と商品の説明と通販ページが主で、葵が見たかった財務諸表の情報などはなかった。
適当に、「大平酒造 倒産」や「大平酒造 経営難」などと打ち込んで検索をかける。ヒットはするが、どれも関連性のあるものはなく、葵の欲しい情報は得られなかった。
葵は携帯をじっと見つめた。一番手っ取り早いのは、浩行に直接聞くことだったが、あのBBQの日、もうこれ以上会いたくないと自分から言っておきながら葵から連絡するのは気が引けた。
お母さんに、聞くとか…?
聞いてもきっとはぐらかさらてしまうだろう。もっと母の口を割る証拠がないと…
葵は意を決して、浩行に電話をかけた。時間は夕方だったが、浩行はすぐに電話に出た。
「お久しぶりです。葵です」
「久しぶりだね。どうしたの、急に」
浩行の声は前と変わらず、低く静かに笑みを含んでいるように聞こえる。
「ちょっとお伺いしたいことがあって…」
「うん。今ちょっと立て込んでてね。もう少ししたら、こっちからかけるから、待っててくれる?」
「はい、すみません」
「じゃあ、また」
葵は携帯を見つめたまま、タイミングが悪い自分の行動にまた嫌気が差している。浩行だって立派な社会人で、まだ夕方の時間なら働いている可能性の方がずっと高いのだ。悠人から聞かされたことに動揺して、夜になるまで電話をかけるのを待てなかった自分がより考えなしの幼稚に思えて後悔した。
電話がなって慌てて取ったが、相手は樹だった。
「葵? 今学校からバイトに行くところなんだ。元気?」
樹の明るい声に、滅多にないことだが、葵はちょっとだけ精神を逆撫でされた気がした。
「ごめん、樹。今ちょっと電話を待ってるの。あとでもいい?」
「そうか。ちょっと話したかったけど、あとでいいや。じゃあね」
樹は急いで電話を切った。
ほぼ同時にまた携帯が鳴る。今度は浩行だった。
「ごめん、ちょっと慌ただしくて。どうしたの?」
「…すいません。仕事中に電話してしまって…」
「それはいいけど…。どうしたの、何だか声が元気ないけど」
「…あの、前に、あのBBQのあった日に…、浩行さん…、うちの家の話を私に聞きましたよね。そのときのことをお聞きしたくて」
そこまで聞くと浩行は納得したというように、ああ、と声を出した。
「誰かから聞いた?」
「はい…。でも信じられなくて…。詳しいことをお聞きしたかったんです…」
「なるほど」
「すいません…。他に聞く人が思い浮かばなくて」
「うん、分かった。悪いんだけど、今東京でね。金曜に帰るから、それからでもいいかな?」
「…はい」
「その日、仕事?」
「はい、19時までです」
「じゃあ、図書館に迎えに行くよ」
「わかりました」