第6話 浩行

文字数 1,787文字

「大平さん、カウンターにお客さんだけど出られる?」
 事務室で仕事をしていた葵に、先輩の図書館司書専門員の人が声をかけた。慌ててカウンターに出たが、客人はすでにおらず、紙袋を下げた小林さんがいた。浩行の会社名の入った名刺と一緒に有名書店のロゴの入った紙袋を渡された。
「大平さん、浩行と知り合いだったんだな。仕事忙しいみたいで、また来るって言ってたよ」
「妹さんと友だちなんです。小林さんもお知り合いなんですか」
「小学校まで同じ学校の同級生だった。あいつは中学受験してるから中学から別の学校だったけど」 
 葵は紙袋を受け取った。ズシリと重い。
「お土産だってさ。本かな」
「ありがとうございます」
「先輩の司書さんたちにあまり見つからないように。あいつは何かと目立つから」
 小声で小林さんが囁いた。同じようにカウンターにいた女性職員が興味深げに葵のことを見ていた。紙袋の中身は見ずに、頭を下げた。
 たしかに仕事中、男性にカウンターに呼び出される新入職員など、印象がいいはずがない。葵は女性に嫌われるタイプではなかったが、面倒なことはごめんだった。

 ーお兄ちゃんからお土産をもらったの?
 仕事が終わった後、葵は瑠璃にLINEを送った。
 ーうん、本をもらった。お礼の連絡をしたいから連絡先を教えてくれない?
 ーいいけど。お兄ちゃんがお土産とか、ありえないんですけど。
 ー瑠璃が友だち少ないから、珍しかったんじゃない。連絡しちゃいけない時間とか、ある?
 ー分かんないなぁ。あたしも何か買ってもらおうかな。
 瑠璃からは浩行の電話番号と可愛いLINEのスタンプが送られてきた。

 紙袋の中身は、予想どおり本だった。
 近年刊行された、A・ウェイリー版を翻訳した源氏物語全四巻。クリムトの表紙が美しい本だった。先日、浩行に車で家まで送ってもらったときに、この本が欲しいと思っているが、高くてなかなか手が出ない、という話をしたのだった。
 浩行がその話を覚えていたのも意外だったが、お土産には高価すぎるものだった。全部買うと1万円以上するのだ。欲しいと思っていたのは確かだし、いつか買おうと思っていたので、要らないと言えば嘘になる。でももらう理由がなかった。
 普通、妹の連れてきた友達にそんなことするものなのだろうか。値段もそうだが、嵩張るし重いのだから荷物にもなったはずだ。
 お金持ちの考えること、大人の考えることはよくわからない、と葵は思っていた。それに、本心を言うと、いくら欲しい本でも、欲しい本だと思ったものほど、自分で購入したかった。
 
 夕食を終えて、お風呂に入ったあと、自室に戻って携帯を手にする。
 父親は今日も仕事で不在だった。最近あまり店の方が上手くいっていないのか、父親は不在がちだった。
 結局、大人のビジネスマンが一日のうちで、いつが比較的暇な時間か分からなかったから、夜9時前に電話をかける。
「はい」
「あの、大平葵です。こんばんは」
「ああ、どうしたの」
 浩行の声が第一声より柔らかくなった気がして、ほっと体の力が抜ける。無意識に緊張していたらしい。
「お土産、受け取りました。ありがとうございます」
「ああ、あれで合ってる? この前言ってたやつだよね」
「はい。合ってます。ありがとうございます。高価なものなのに」
「高価って」
 はっというような浩行の低い笑い声が電話越しから聞こえる。何が面白かったのか分からなかったが、柔らかな笑みを含んだ声がすぐ耳元から聞こえてきて、すぐそばに浩行がいるような気がして緊張した。
「今日、仕事だったの」
「はい。すいませんでした。すぐに出られなくて」
「いや、一瞬しかいなかったし。仕事中だったんだから」
 何も言うことがなくて、そこで沈黙になる。電話越しに浩行の息をのむような音が聞こえる。男性的な顎のラインと喉仏のラインが目に浮かんで、訳もなくどきどきする。
「あの、本当にありがとうございました。何かお返しします。大したお礼も出来ませんけど…」
「お礼? 考えなかったな」
 声に葵の発言を面白がっているような笑みが含まれている。
「何をすればいいのか…」
「いいよ、そんなの。読んだら感想を教えて」
「はい、分かりました」
「じゃあ、また」
「はい、失礼します」

 葵は電話が終わった後、すぐにもらった源氏物語を一巻から読み始めた。きちんと読んで感想を言おうと思っていた。
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