第10話 再び樹

文字数 3,086文字

 樹は大学の講堂で、凝り固まった背中を伸ばしていた。
「樹くん」
 後ろから声がする。
「おお、池内か」
 すらりとしたショートカットのスッキリした女性を見つけて、急いで姿勢を正す。
 同じ院生で同じゼミになった池内梓は、先日の講義の話をしていた。建築系の院生も女性が多くなったらしいが、池内はその中でも群を抜いて実力も知識も豊富だった。出身の地方では有名な木工所の娘らしく、家具などを見る視点も周りとは違って、樹は何度か海外の建築関係の本を借りていた。
 興味のある建築士も被っていることもあり、同じ院生の中でも話をする方だった。
「就活、進んでる?」
 梓は短い髪を耳にかけながら、聞いた。ボーイッシュな見た目なのであまり分からないが、整った顎のラインがあらわになる。
「ぼちぼち。そっちは」
「同じかな。もうだいぶ絞られてるかんじ」
 梓は笑顔で答えた。この女性の、将来に迷いなく突き進むかんじが好きだな、と樹は思う。周りの男性よりもいい意味で野心のある梓が、樹には眩しく見える。
「じゃあ、あたし図書館に行くね」
「おう」
 勉強か調べ物に行くらしく、梓はあっさり席を立った。その背中をほんの少し羨ましく思う。今日は午後からアルバイトを入れていた。今週末は葵が東京にやってくる。
 疲れが溜まっているだけだろうが、今日になってあまり体調がよくなかった。今週末は溜まっている研究課題や、調べ物をしながらゆっくり家にいたかったといえば嘘になる。でも数日前から電話で約束していたし、葵が身構える気がして家にも呼びにくかった。何より新幹線に乗って約1ヶ月ぶりに自分に会いにくるのだ。今更断るのも悪かった。
 何とかなるだろう、気合を入れてバイトに向かうべく、樹は席をたった。

 葵はその週の週末、東京に向かう新幹線で、浩行からの電話を受けた。
「ああ、葵ちゃん?」
「はい」
 ちゃん付けでよばれたのは初めてで、ちょっと驚いた。新幹線の座席を立って、デッキで浩行の声に耳を澄ます。
「もしかして移動中?」
「はい、ちょっと用事があって東京に向かってるんです」
「そうだったのか。実は図書館から本を借りたままになってるんだ。今、俺も東京だから返せなくてね。延滞になっちゃうんだけど」
「浩行さん、本も東京ですか?」
「うん、一緒に持ってきてる」
「よかったら、私、受け取りに行きましょうか」
「いいの? そうしてくれるとすごく助かるけど」
「夕方からは暇になるので大丈夫です」
「ありがとう。都内にいるよね? 時間と場所を後で連絡するよ」
「わかりました」
「じゃあ」
 葵は電話を切って、席に戻った。
 樹はどのみち夕方からアルバイトだと言っていたから、そのあと、浩行から本を受け取るくらい、面倒ではなかった。
 それより樹には今日は将来について、どうするつもりなのか聞いておきたかった。そろそろ願書の出願だってあるのだ。試験日がかぶるものもあるので、ある程度絞り込まなくてはならない。
 普段電話では聞けないことを顔を見て聞きたかった。

 樹と待ち合わせたのは、大学近くのスターバックスだった。大学時代、何度もここで待ち合わせをした。いつもの窓際の席に座ると、ちょうど樹が横断歩道を渡ってくるところが見えた。隣にショートカットの女性が一緒だった。スタバの前で別れて、そのまま店内に入ってくる。店内に入って葵に気づいたらしく、マスク姿の樹はちょっと驚いた様子だった。
「早いんだな」
「まあね。マスク、風邪?」
「予防だよ、予防」
 樹は珍しくちょっと疲れているようだった。それぞれの飲み物を飲み終わるといつものようにゆっくりと歩き出す。樹といるときは歩いていることがすごく多い。お互い学生でお金もないし、流行りの商業施設にも興味がない葵と樹は、花から花に渡り歩く蝶々のように緑を求めて、日比谷公園や新宿御苑を散歩した。そしてそれが全然苦ではなかった。いつまでも二人で歩いていられそうだった。
「そろそろ願書の出願が近いんだよ」
「ああ、試験か。どこにするか決めたの?」
「まだはっきりとは。樹はどこに出願したらいいと思う?」
「え?」
 きょとんとした顔をして樹は葵に聞き返した。
「それって、どういう意味?」
「どういう意味って、樹も来年は就職するんでしょ。近くにした方がいいかなと思って。どこに就職する予定なの?」
「別に近くなくてもいいだろう。葵がやりたいことを自分で決めるのが一番いいよ。何で俺の就職先が関係するの?」
 樹は滅多にないことだが、少し苛立っているようだった。ちょっとだけ棘を含んだ声がかすれている。二人の間にひんやりした空気が流れる。
「だって、公務員試験なんだよ? 簡単な試験でもないし、長く続けることが前提だと思う。だったら、先のことも考えて、樹の職場の近くにしたいと思っても、別におかしくはないでしょ」
 葵は一息で言い切ると、樹が何も言ってくれないのに、戸惑った。普段あまり言い争いになることがないせいか、重苦しい空気が苦痛だった。
「俺、先のことは正直わかんないよ。一社目にずっといるとも限らないし、いい建築家がいれば全国どこでもいいって思ってる。そこに最初から希望のところに就職できるとも限らないし、どうしても行きたかったらどっかで修行してから行く方法もありだと思う。葵はどうしてもやりたいことはないの? 俺の就職先とか関係なく」
 樹に言われて、思わずかっと顔が赤くなった。周りの人間に比べてどうしてもやりたいことが見つからないのは自分の最大のコンンプレックスだったからだ。興味のあることはある、でもこれだと思うのものがわからない。誰も彼もどうしてそんなに自分のしたいことが決まっているのだろう。途中で変わったりうまくいかなかった時のことは考えないのだろうか。そんなに、やりたいことを一つに絞っているのはいいことなのか。やりたいことがないからと言って、どうしてこんなに劣等感を感じなくてはならないのか。
「樹は、将来的にあたしと一緒にいなくても平気なの? あまりに漠然としすぎてるよ。せめて東京にいるかどうかだけでも教えてくれないと、図書館だって受けられないよ」
「だからどうして俺が出てくるんだよ。やりたいことやってみたらいいだろう。そうやって俺の将来を考慮してたら、本当にやりたいこともできなくなるだろう」
 樹が声をあらげるので、通行人の人が怪訝そうにこちらを見ていた。感情が出てしまって恥ずかしい思いをしたのはどちらも同じだった。
 樹は、ごめん、とりあえずどこかに入ろう、と言って、通りかかったカフェに入った。ちょうどお昼時なこともあって、店内は混んでいる。あまりお互いの声が聞こえないまま、席につきオーダーをする。先程の言い争いを引きずって、どちらも言葉少なだった。
「ごめん、さっき言いすぎた」
 取り立てて特徴のない、大して美味しくもないパスタを食べながら、樹が呟いた。
「大丈夫」
「ちょっと最近忙しくて、イライラしてた」
「気にしてないよ」
「俺、正直本当にわかんないだと思う。将来がどうなるのか。今が必死すぎて、精一杯やるだけで。でも今一生懸命やってたら自然に先のことも決まるだろうし、今頑張らなかったら後悔するとも思ってる」
「うん」
「俺、忙しいけど今すごく楽しいんだ。学校の研究もゼミの人間と話してるのも。だから、そういうの葵も味わった方がいいんじゃないかと思う。本当に葵がやりたいことを見つけるのに、俺のことは考えて欲しくないんだ。本当に自分のことだけ考えて決めて欲しい」
「うん、分かった」
 会話が終わると、二人は黙々と食事をした。
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