第19話 夢

文字数 1,845文字

 試験終了の合図があり、葵は鉛筆を置いた。後ろから答案用紙が回収される。
 とりあえず、やれるだけやった…
 脳味噌がくたくたに疲れ、心地よい疲労感でいっぱいだった。窓からはもうすでに暑さを孕んだ東京の青空が広がっている。
 葵は腕を伸ばして背中も伸ばす。何かを一生懸命にやり切った後の高揚感と充実感が気持ちいい。
 葵は国立国会図書館の職員二次試験の会場にいた。
 力試しで受けた一次が受かったときは信じられなかったが、二次試験までは、ろくに対策していなかった筆記試験の勉強を必死でした。もともと合格率が2%以下という難関試験だったので、一発で受かるとは思っていない。それでも自分にとっては夢の職場だった。専門科目の筆記試験と、英語の問題。対策方法も分からず、時間もなかったからとにかく必死だった。
 葵は勉強する過程で、自分の意識がどんどんクリアになっていくのを感じていた。
 挑戦したい。ダメでもともと、頑張りたい。樹の職場が東京でもどこでも、自分の気持ちに正直にこの試験に向けて頑張ってみよう。そう思った一ヶ月弱だった。
 樹があのとき言ってたのって、こういうことだったのかな。
 後になって気づくことがたくさんある。
 ちょっとだけ樹の気持ちがわかって、成長した気分だった。
 早く樹に会いたい。
 切実にそう思っていた。
 
 葵はそのあと、樹と一緒にランチをとった。大学近くにある、学生でも入りやすいイタリアンレストランだった。ここでかつてたくさんの時間を過ごした。樹とのおしゃべり、おかわり自由のコーヒー、いつも声をかけてくれるマスターに、その奥さんのウェイトレス。
「試験、お疲れ様」
 樹の柔らかい笑顔が葵を安心させた。日の光が樹の柔らかそうな髪に当たって綺麗だった。まだ昼間だが、久しぶりに樹はビールを、葵はグラスワインを飲みながら食事をした。気取らなくて素朴な美味しいパスタやサラダ、パテにチーズが美味しい。
 なかなか会えない時間を埋めるように葵は樹に話しかけた。
 今回の試験で、自分のやりたいことがよりはっきりした気がしたこと。今回国立国会図書館の試験が落ちても、来年また受けることだってできる。もちろんかなりの試験勉強が必要なはずだったが、まだ時間はある。
 やっぱり自分は図書館が好きだった。自分の住む自治体の試験を受けることはもちろんできるのだが、行政職採用になるため、配属は図書館だけでなく市民課や税務課など、全く図書館に関係のないところになる可能性が高かった。それなら、もっと図書館絞って就職活動をしてみよう。国立国会図書館だけじゃなく、都心部は司書に絞った採用をしている自治体がある。もっとほかにも本や、図書館に関われる仕事があるかも知れない。おぼろげながら、自分の将来やりたいことが見えてきたような気がしていた。
 そんなことを葵は樹に話していた。
「じゃあ、落ちても来年も挑戦するんだな」
「多分。配属は東京か関西になる予定だけど、受けようと思ってる」
「そうかぁ。葵にはそれが合ってると思うよ。頑張ればいいと思う」
 樹はそう言うと、目を伏せて少し黙った。何か大事なことを言いかけた仕草のように思えた。
「樹は行きたい建築事務所、決まったの?」
「…いや、まだもう少し考えて決めるよ」
「そう」
 もう樹に進路を聞くのは辞めようと思っていた。結局樹自身の問題なのだし、葵にはどうすることもできない。不安定な気持ちを抱えてるのは樹だって同じなのだと思う。
 何者かにはなりたいと思っていても、実際に自分にその実力があるのかどうかを試されて苦しい思いをしているのかも知れなかった。
 葵は自身の将来のことを考えられるようになったのと同じように、樹の状況を慮れるようになっていた。
「このあと、葵どうするの?」
「夕方の新幹線で帰るよ。明日仕事なんだ」
「なんだ、そうなのか」
 樹は困ったように笑った。今日は泊まるのかと思ってた、と。
「なかなか続けては休みづらくて」
 葵は樹の言葉に、別の意味が込められているような気がして、言い訳じみた言い方になってしまった。
「だよな」
 樹はそう言うと素っ気なく伝票を取って立ち上がった。
 確かに、葵も今日はこっちに泊まればよかったな、と思っていた。樹とも久しぶりに会ったのだし、母親には花のところに泊まると伝えればいいのだ。
 今日はもう少し樹と一緒にいたかった。
 もしかしたら、そろそろ自分たちの関係がもう少し前に進むのかも知れない。
 そこまで考えて、葵は急いで樹の後を追った。
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