第8話 ジンジャエール

文字数 2,542文字

 葵が閉館間際の図書館で本棚に本を戻していると、本棚の間を背の高い、スーツ姿の男性が横切るのが目に入った。
「平岡さん」
 小声で声をかけると、気づいた浩行がゆっくり葵に近づいてきた。本を二冊持っている。身長差があるので、葵は見上げるように浩行に向き合った。
「今日もいたんだね」
「はい。本、まだ読んでる途中で、感想お伝えしてなくてすいません」
 葵は律儀に頭を下げた。源氏物語は最終巻の中盤まで読み終わっていて、もう少しで読破出来そうなところまできていた。
「いいよ。今日、ここ19時までだっけ?」
「はい。あと10分くらいです」
「終わったらすぐ出られる? 食事でもいこうか」
「えっ」
 思わず驚いた声が出た。光が当たりすぎないように計算された図書館の中で、困惑したように葵の顔が曇った。
「そんな顔しなくても。無理にとは言わないけど、今日はもう直帰するだけだし、飯に付き合ってくれたら助かるなと思っただけ」
「はい」
 苦笑している浩行を前に、大袈裟に反応してしまった自分が恥ずかしい。浩行だって偶然立ち寄っただけなのだから、食事に誘われたところで大した意味などあるはずもなかった。
「でも、もう家で食事の用意、しちゃってるよな」
「大丈夫です」
「そう? じゃあ、19時過ぎに。車にいるから」
「はい」

 葵は19時過ぎに、ほかの職員たちと一緒に図書館から出てきた。
 白い光沢のあるシンプルなシャツにベージュのチノパン、ゆったりとしたパーカを羽織り、布のくたりとしたトートバックを持っている。足元はコンバースのスニーカー。仕事中だったからか、髪の毛を一本に束ねている。この子は飾り気のないスタイルが一番似合うな、と浩行は思った。
 浩行のレクサスを見つけると、葵は駆け寄ってきた。
 浩行がロックを外すと、するりと小柄な体が助手席に収まる。香水などの人工的な匂いがしないのに、背中におちた髪の毛の一房から、かすかに清潔そうな香りがする。
 高級車は音もなく滑り出した。何人かの職員が車に乗り込んだ葵を見て、好奇の目を向けていた。葵は気まずそうに俯いていたが、浩行は気づかないふりをする。彼女のその一瞬の表情が気に入った。
「嫌いな食べ物、ある?」
「大体何でも食べられます」
「そう。じゃあ、ちょっと走るけど」

 街の中を抜けて、レクサスは郊外に出た。どんどん山道に入り、遠くに見えるビルや家々のあかりが濡れたように光っていた。車中は低音のJAZZが小さな音量で流れていた。静かなピアノの音と低いベース音が聞こえる。葵は普段聴かないジャンルの音楽で聴き入ってしまう。
 JAZZは何だか大人の音楽のような気がしていた。夜中までやっているバーでかかっているような曲。お酒やタバコの似合う大人な男性が聴いている曲。
「大人しいね」
 浩行が右折のウインカーを出しながら言う。
「いい曲だから、この音楽」
 浩行がダッシュボードからCDを取り出す。神経質そうな細い白人の男性がピアノの前の椅子に腰掛けているジャケットだった。Bill Evansとジャケットには書いてあった。
「貸してあげるよ。ゆっくり聞いてみて」
「ありがとうございます」
 葵は素直に受け取った。
 車は丘のてっぺんにある、一軒のレストランに到着した。経営が成り立っているのか心配になるくらい殺風景な場所にある。窓からは明るい光が漏れ、駐車場には数台の車が停められていたが、まわりの静けさに調和するようにひっそり立っていた。外壁の一角に、暖炉用の薪が高く積み上げられている。子供の頃に絵本の中にでてくるようなレストランだった。
「あの、こんな格好で大丈夫ですか?」
 葵が心配になって、車から降りた浩行を呼び止めた。本を持ったり、脚立に登ったりするので、服は作業着のようにカジュアルなものだったからだ。
大丈夫だよ、浩行が笑って葵の背中をそっと押した。大人の男性に触れられたことなどなかったから動揺したが、さっきの二の舞になると思って平気な顔を装った。

 いらっしゃいませ、と迎えたウェイトレスやギャルソンも葵の服装を見とがめる人間はいなかった。みな静かだがにこやかな笑顔を向けてくれる。浩行は慣れた様子で席に着く。
「家族でたまに来るんだ。何でも美味しいから、好きなのを頼んで。今日は車だから付き合えないけど、ワインも美味しいから」
 そう言われてもメニューを見てもよく分からない。困った顔をしていると、浩行が適当に注文してくれた。ワインを聞かれたが、お酒に強いわけでもないのでジンジャーエールを注文する。
「酒蔵の娘さんだけど、お酒には弱いんだね」
 昔からよく言われていた。葵はビールでも日本酒でもすぐに顔に出て、真っ赤になるので、誰も強制して飲ませる人間はいなかったが、酒蔵の娘のくせに下戸、というのはなかなに気まずいものがある。
「お店は弟さんが継ぐの?」
「本人はそのつもりみたいです。まだ高校生ですけど」
「君は?」
「え?」
「図書館、ずっと勤めるの? 市役所を受験するとか」
「まだ決めてません。図書館の仕事もいいし、本屋に勤めるのもいいかな、と思います。本のあるところ、本の側で働けたらと思ってるんですけど…」
 浩行はゆっくり葵の顔を見てうなずいた。この前瑠璃の家で話したときと同じように、全身を傾けて話を聞いてもらっている姿勢が、葵を緊張させた。
「ゆっくり考えたらいいよ。まだ22歳だろう」
 食事をしながら、浩行はJazzの話をしてくれた。自身は音楽を演奏しないが、大学時代仲の良かった友人がベーシストだったので、よくライブハウスに聞きに行ったこと、大学時代バーでアルバイトをしたこと、引っ越しのアルバイトも同じくらい長く続けたこと、そこで知り合ったサックス奏者のライブを見に行ったこと、大学卒業後、留学したデンマークでもジャズのライブハウスによく行ったこと、浩行の話は本ばかり読んでいた自分の世界とはあまりにもかけ離れていて、どこか別の国の話を聞くようだった。
 浩行は聞き上手な人だと思っていたが、今日は饒舌で自分の話をしている。あまり話すのが得意ではない葵にはこのほうがありがたかった。
 食事が終わり、ジンジャエールの氷がすっかり溶けてしまった後も、浩行の話をずっと聞いていた。
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