第12話 影

文字数 2,901文字

「すいません」
 体に衝撃が加わって、葵は反射的に謝った。
 静まり返った図書館の床に本が散乱する。本を載せたワゴンを引いたまま、人にぶつかってしまったらしい。ワゴンを横に寄せ、急いで本を回収した。
 ぶつかった相手は、三十代くらいの男性で、長すぎる前髪とメガネ、理系の大学院生のような、大人しそうな人だった。
「怪我、ないですか? すみませんでした」
 葵は再度頭を下げた。
「…だ、だだだ、だいじょうぶです…」
 蚊の鳴くような小さな声だった。
「じゃあ、失礼します」
 頭を下げてその場を離れようとすると、あの、と再度声をかけられた。
「あ、あの、大平さんって、あの大平酒造の娘さんですか…?」
「はい、そうですが…」
 反射的に答えてしまったが、即座にしまった、と思った。どうして素性を明かしてしまったりしたのだろう。
 葵のネームプレートを確認しながら男性が徐々に葵に近づいてくる。先程より心なしか声が大きい。嫌に距離感が近くて、葵もゆっくり本棚の間を後退りした。
「葵ちゃん、って言うんだね…」
「あの…」
「僕、何度かお店に行ったことがあってね、可愛い女の子がたまにお店にいて…、君だったのかな…」
 さすがにこれはまずい、と思った瞬間、本棚の端から「すいません」と語尾が強めな声がした。
「私語厳禁です」
 小林さんだった。男性はあたふたとその場から去ってしまった。
「大丈夫だった?」
 小林さんが小声で確認する。
「はい。大丈夫です」
「図書館は公共施設だからいろんな人がいるのはしょうがないんだ。ちょっと変な人もいるから気をつけてね。一応男性職員は気を配ってるけど、全部を見られるわけじゃないから」
「はい」
「また何か嫌なことされたら遠慮せずに教えて」
「はい、ありがとうございます」

 それからあの大学院生風の男性は頻繁に図書館に来るようになった。
 葵もそれに気付いていたが、特に話しかけることもなく黙々と仕事をしていた。考えて見れば図書館は大抵どこにでも人の目があるものなのだ。静かなので物音にも気付きやすい。危ない目に図書館内で遭うことはそうそうない、と思う。
 それでもあの男性は葵の視界によく入った。ワゴンを引いていると後ろに視線を感じることもあるし、本棚に本を戻している最中も、あの男性は同じ棚にある本を選んでいるときがあった。
 葵は出来るだけ、視線を気にしないように、仕事に集中しようとした。
 仕事中は他の利用者や職員がいるのでそんなに気にしていなかったが、問題は帰り道だった。
 図書館から家まで歩いて20分程だったが、図書館でも感じたあの視線を、帰宅途中も何度か感じることがあったからだ。
 その度に葵は早歩きをしたり、道路を渡ったり、コンビニに立ち寄った。
 向こうも適度な距離を保つつもりなのか、葵が回避行動を取ると、それ以上つけられる感じはなかった。
 話しやすい職場の先輩の女性にこの話をすると、図書館で働いている職員は、多くれ少なかれ葵と似たような経験をしているようだった。
 その先輩曰く、図書館で働いているだけで、本好きの大人しい女性だと思われやすいらしく、気にしないで毅然とした態度でいるのが一番効果的らしかった。舐められたらつけ上がる、と彼女は言っていた。
 そもそもつけられているのも、葵の勘違いかも知れないのだ。
「ちゃんと上司に言ったほうがよくないか」
 あれから気まずい空気が流れるかとおもったが、樹は変わらず葵に電話をしてくれた。
 近況報告のついでに先輩のアドバイスも含めて葵がこの話をすると、樹は心配そうな声を出した。
「でもあたしの勘違いなのかも。いつもじゃないし」
「そういう問題じゃないだろう。何かされたらどうするんだよ」
 樹はちょっと怒った声をだした。
「近くにいる訳じゃないんだから、しっかりしろよ」
 うん、そうだね。葵が答えると、うがーと唸るような声がする。
「やっぱり顔見て話したいな」
 素直な樹の反応に葵は笑ってしまう。
「そうだね」
「うん。新幹線で2時間は遠いなぁ。まだまだ忙しいし」
 うん、と力なく答える葵を元気付けるみたいに樹が続ける。
「スカイプか、ズームにするか。今度から」
「いいね。すぐには無理だけど、夏休みも取れるよ」
「そうだよな。どっか行くか、夏休み」
「いいの?」
 ちょっとからかうような樹の声がする。
「葵の試験勉強次第じゃないの? 俺は調整できるよ。バイトも今空き時間目一杯してるし」
 樹の声はいつも葵を安心させる。自分より置かれている状況ははるかに大変なはずなのに、このバイタリティや、自己管理能力がいつも葵は憧れだった。小柄な外見にも関わらず、タフで持久力がある。自分の目標があって、頑張る、という行動にいつも慣れている樹を葵は尊敬していた。
 樹に相応しい自分でありたい、と思う。
 きっと今の葵にもできることがあるはずだった。樹と同じように頑張るべきことが。
「夏休みを目標に、試験勉強、頑張るよ」
 そう言って、電話を切った。

 その日、小林さんはお休みだった。
 図書館にも怪しいあの男性は現れることがなかったし、樹は神経質にしていたが、やっぱり自分の勘違いのような気がして、その日は図書館から久しぶりにゆっくりした足取りで家路についていた。

「葵ちゃん」
 突然話しかけられて、とっさに振り向いた。
 あの男性だった。
 前と同じように、ジーンズにシャツ姿で眼鏡をかけている。
 街頭はあるが、暗くなった道路は人通りも決して多いとは言えない。男性とは多分3メートル程離れているが、長い前髪の下から、じっと葵を見つめる視線が怖かった。
「ひ、ひひひ久しぶりだね…」
 葵は無視して早歩きで歩き出した。向こうも早歩きでつけているのがわかる。
 さらに葵はスピードを上げ走り出した。
「ま、待って…! ちょっとっ!!」
 後ろから追いかける男性の足音が聞こえそうだった。
 葵は全速力で信号の前にあったコンビニに逃げ込んだ。後ろを振り向くと信じられないことに、男性も走ってコンビニの中に入ってくる。
 どこかに逃げないと!
 何事かと訝しげに葵を見るレジにいた店員を尻目に、葵は急いでコンビニの奥にある女性用トイレに逃げ込み鍵をかけた。
 心臓が早鐘のようになっている。このドアの向こうにもあの男性が待ち構えているのかも知れないと思うと、二度とこんコンビニのトイレから出られないのではないかと思った。

 どうしよう、家に電話をして迎えに来てもらおうか…、それが一番現実的な気がする…
 真っ先に頭に浮かんだのは樹の顔だった。樹が迎えに来てくれたら…。顔を見れたら安心するのに…。
 携帯を握りしめていると、いきなり携帯が鳴った。
 浩行だった。
「もしもし」
「葵ちゃん? 今電話してても大丈夫?」
「はい、少しなら」
 ドアの外にいるかも知れない男性に聞こえないように声をひそめる。
「どうした? 何かあった?」

 葵は一部始終を浩行に話した。
 誰かに聞いて欲しかった。話しているうちに自分の声が震えていることに気づく。
 浩行は最後まで葵の話を聞くと、
「分かった。すぐ行くから五分くらい待ってて」
 そういうと、すぐに電話が切れた。
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