第18話 初夏 その②

文字数 2,632文字

 別荘の中は広いリビングとダイニングになっていた。
 涼子は紅茶でも飲もう、と言ってお湯を沸かしている。
 昼頃にここについたが、夕方になり日もだいぶ落ちてきた。一日中太陽の外にいたので、室内はひんやりとして気持ちよかった。
「今日は疲れたんじゃない? みんなに注目されて大変だったでしょう」
「少し」
 葵は出された紅茶を飲んだ。程よく濃い紅茶が喉に心地いい。
「公務員試験の勉強中なんでしょう?」
「はい。秋に市役所を受ける予定なんです」
「浩行くんの会社で働くのかなって思ってたわ」
「…あの、さっきも言ったんですけど、あたし全然そんなつもり、ないんですよ…」
 涼子は困ったように笑った。
「うーん、葵さん、そのこと浩行くん、知ってるの?」
「え?」
「だって葵さんなりの理由があるわけでしょ? やりたい仕事がここじゃ出来ないとか、他に恋人がいるとか」
「…はい」
「さっきも言ったけど、浩行くんだって、何とも思ってない子をここには連れて来ないと思うの。葵さんもここにいるメンバーを見たら、何となく分かったと思うけど」
 葵は黙って頷いた。
「だったらちゃんと言わないと。浩行くんだって傷つくわよ」
 葵ははっとした。今更ながら、浩行の感情に何の頓着していなかったことに気づいたのだ。
「傷つく…でしょうか…。浩行さんが…」
 まさか、私のことで浩行さんが感情を揺すぶられるなんて、思ってもいなかった。というか、これまで、葵は浩行が自分をどう思っているかなんて、真剣に考えたことがなかった。
 涼子さんはおかしそうに笑った。
「そりゃあ傷つくわよ。いくつになってもそれは同じ。葵さんが思ってるより、大人じゃないからね、あたしたち」
「はい…」
「だったらお互い傷が浅いうちに言わないと。浩行くんだって立場がある人だからね」
「はい…」

 ふらりと浩行がリビングに入って来た。ビールを飲んでいるせいか、普段よりテンションが高そうに見える。
「あれ、ここにいたんだ」
「浩行さん、あたし、そろそろお邪魔しようかと…」
 ちょっと酔っているのか、浩行の体がふらふらしている。
「もう? 今日はここに泊まっていったら?」
 浩行は潤んだ目のまま笑っている。断る言葉を探していた葵が言いかけたのを遮って、
「分かってるよ。駅までタクシーで送るから」
 その言葉を受けて、涼子が一台回すように電話してくる、と言って席を立った。
 入れ替わりに浩行が葵の向かい側の椅子を引く。大きなダイニングテーブルを挟んで、二人きりだった。まだ、日は暮れていないがだんだんと遠くに夕焼けが迫っていた。賑やかな話し声を上げる人たちの輪郭がくっきりと見えて、ガラス越しに家の中から見たその風景は、映画のワンシーンのようだった。
 浩行は疲れているのか黙っていた。でもリラックスした雰囲気から、今日一日を思う存分楽しんだ様子が伝わってきて、葵は今日言おうと準備してきた言葉をここで言うのが躊躇われた。
 浩行はへたりとテーブルに突っ伏して、食べすぎたなぁ、と声を上げる。
「今日、ありがとう。気を遣っただろう」
「緊張したけど楽しかったです。涼子さん、いい人ですね」
「君が楽しそうならよかった。落ち込んでないか心配だったから」
「いい気分転換になったみたいです」
「それならよかったよ。またおいで。みんなも喜ぶ」
 言うならここだろう、というタイミングだと決意して、葵は話しかけた。
「あの、浩行さん」
「ん? どうした?」
 うつ伏せになって目を閉じていた浩行が目を開けた。
「あの…、こういうの、あの、浩行さんに誘われてどこかにいったり、ご馳走になったり、そういうの……」
 しどろもどろに話した葵を見ながら、おかしそうに浩行はくつくつと笑った。
「どうしたの」
「あの…、あたし…。今日で…、今日で最後にしたいんです」
「どうしたの、いきなり」
 浩行はうつ伏せのまま言った。まだ酔ってるのかも知れない。
「いきなり、というか…、前から考えていたんですけど…。これから試験もあるし、こうやってどこかに連れて行ってもらったりするの…、前も言ったとおり…理由がないですし…」
「うん、それで?」
 浩行がむくりと体を起こした。もうすっかり酔いが覚めた様子だった。
「あの…、あたし…、負担…というか……、その、罪悪感が、ある…んだと思います」
「…なるほど。俺がどこかに君を連れて行くと、罪悪感を感じる相手がいる、そういうことだよね?」
「はい…」
 浩行の口調からはさっきまでの穏やかな雰囲気が消えていた。理論整然とずばり葵の発言を問い詰めるようだった。間違ったことを言ってはいないはずなのに、浩行の前にいると自信がなくなってくる。
「あたし…誠実でいたいんです…、多分…」
「その人と何かあったの? 喧嘩したとか」
 葵は首を振った。
「ない、です…。でも、何かあったときに自分のことを振り返って、後悔したくないって思うんです」
「清廉潔白でいたいってこと?」
 浩行はやれやれというように笑った。
「そうだと思います…」
「強情だなぁと思うけど。気持ちは分かるよ」
「すいません…」
「謝ることはない。多分そういうところが君の美点なんだろうし」
「もっと、何というか上手く言いたかったんですけど…」
「いや、ちゃんと伝わったよ。もう俺から誘ったりしないから、安心して」
 意外にもあっさりした返答に葵は面食らった。
「タクシーが来るな。そこまで送るよ」

 葵は涼子や涼子の夫の正平、そのほかの来客たちにお礼をいい、その場を辞した。涼子はまたいつでもいらっしゃい、と笑って葵に挨拶した。
 タクシーが停まっている庭の門まで浩行に送られた。
「じゃあ、ありがとうございました」
 葵は浩行にも礼を言った。きっともうこうして会うこともないのだろうと思うと、よくしてもらっただけに、寂しかった。
「気をつけて帰ってね」
 はい、と答えてタクシーに乗り込む。ドアが閉まる瞬間、浩行が不思議なことを口走った。
「葵ちゃん、家のこと、聞いてる?」
「え? …家って?」
「いや、いい。聞いてなければいいんだ。じゃあ」
 浩行はそこまで言って、運転手に駅まで、と告げた。ドアはもう閉まっていた。
 手を振る浩行が遠ざかっていく。葵も同じように手を振り返した。
 これでいいのだと思う。
 寂しいと思うと同時に、葵の心はどこか重圧が取れたようにスッキリしていた。
 早く樹の声が聞きたい。葵はそう思った。
 懐かしい樹に、またいつものようにくだらない話を聞いて欲しかった。
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