第5話 槇

文字数 2,192文字

槇はカフェでノートPCを広げていた。先程撮ったばかりの写真のデータを取り込み報告書に添付する。
 槇は先程カメラを向けた、まだ少女ともいっていいような無防備な表情をした女性をPCのディスプレイ越しに見つめる。
 肉親であるのだから当然だが、こうして見ると驚くほど似ている。
 小柄な体型ながら、頭が小さめで身体の四肢が長いので、全体的なバランスが良く見える。シンプルなブルージーンズに丸襟の薄いブルーの春らしいシャツと、無地の布のトートバックを肩から下げている。足元はグレーのコンバース。アクセサリーはシルバーの控え目な腕時計だけ。真っすぐな黒髪に、陽の光を受けて綺麗に光輪が輝いていた。
 似ているのは顔立ちというよりも、その佇まいだった。真っ直ぐに育った人間が背負っている清潔感や高潔さが滲み出ており、その雰囲気に槇は見覚えがあった。
 あの少女と一緒だな。

 男は初恋の女を一生涯追い続けるというのは本当らしい。
 槇ははるか昔だが、この少女とそっくりな女性の写真を撮るため、今日と同じように街中の背景に溶け込み、カメラを構えたことがあった。
 その時は病院の中庭だった。今日と同じように暖かな日差しの中、あの女性は自分の生を精一杯輝かせるように、微笑んでいたのではなかったか。
 そしてその依頼主は浩行ではなく、その父親の貴行だったが。
 貴行は、高校生の息子の浩行が心を奪われた相手を調べるために、探偵である槇を放った。中高一貫の名門私立高校に通っていた浩行が突然美大に行きたいと言い出したのもその頃だった。
 そして今回はその息子の浩行が、自分が気に入った女性の身辺調査をさせるため、槇に調査を依頼した。

 探偵という仕事は嫌いではない。地味だが正確な作業を要求されるところが自分に向いていると思う。個人の感情を押し殺して、じっと息を潜めるように調査をし事実を積み上げる工程が気に入っていた。槇はもう20年以上平岡家の依頼を請け負っている。何か依頼ごとがあれば馳せ参じるわけだ。
 槇は取り込んだ写真データを見ながら、ため息をついた。
 丸襟のシャツの少女は笑顔を向けながら、こちらに背を向けた男性と握手をしている。小柄だが意思の強さを感じさせる男性の俯いた横顔が優しげに微笑んでいるのが見える。その様子があまりにも自然で美しく、昔のモノクロ映画の主人公たちのようで槇には眩しかった。今時珍しいほどの爽やかな気持ちのいいカップルではないか。
 少女の方は一度身辺調査をした女性の姪にあたるので、調査はことのほか簡単だった。今年の3月まで通っていた大学、卒業まで続けていたアルバイト、図書館での仕事ぶり、東京での交友関係。
 唯一特筆する点があるとすれば、彼女の大叔父に当たる人物が、県会議員をしているところくらいであろうか。実家は明治から続く造り酒屋。弟が後継者予定だ。一応会社の経営状態もざっと調べたが正直最近はあまり上手くいっていないが、この辺りは浩行の方が詳しいだろうし、噂も耳に入りやすいはずだ。専門外の部分は触れる程度にしておく。
 男性の方もいたって不思議なところはない。
 川島樹。23歳。H大学大学院の建築課在籍。Y県出身。母子家庭で郷里には看護師の母がいる。生活はそのほとんどが大学とアルバイトで占められている。一年ほど前から大学で知り合った大平葵と交際…
 そこまで書いて槇はキーボードを打つ手を止めた。これは槇のカンだが、この二人はおそらくプラトニックだと踏んでいた。せいぜいキスが数回ある程度。なにせ別れ際には手を握って別れを惜しんでいるくらいなのだ。
 奥手といえばそれまでだが、案外若者というのはそういうものなのではないか。本当に一生涯大切にしようと思っている対象に人生の序盤で出会ってしまったものたちは、その幸福に追いつけず、かと言ってそれをどう扱っていいのかも分からず、戸惑ってしまうものなのではないか。壊さないようにそっと持っていることに一生懸命で、どう扱っていいのかお互いに分からないままで…。
 ここまでで、このドキュメントを閉じる。書きにくいことは口頭で伝えればいい。あくまで自分の雑感として。実際に目にした感想として。

 槇は別のドキュメントを開き、今度は浩行の最近の生活状況を記した。これは父親の平岡貴行宛への報告書だ。
 まったくいいお家に生まれた人間は大変だ。
 最近の浩行の生活状況、主に女性関係はほとんど動きがない。せいぜい半年に一度父親の貴行に報告する程度だが、変わったことがあれば報告するように言いつけられてる。今回はその変わったこと、が発生したため記しているまでだ。おそらく浩行自身も自分自身及び自分の選ぶ女に身辺調査が入ることはすでに自覚しているだろう。こういう家で生活していれば嫌でもそのあたりは自覚せざるを得ない。
 浩行の女性関係はシンプルなものだった。馴染みの女性がひとり。入れ替わりの数人の女友達。こういうものに綺麗も汚いもないのであろうが、浩行の女性選びは比較的抜かりがなく、自身の周辺の女性に手を付けることはない。社内恋愛は鼻からするつもりがなく、知人の妻や恋人には一定の距離を置いている。現在進行形の女たちにも耽溺することもなければ痴情のもつれになることもない。上手に遊んでいるほうだと思う。
 槇はPCを閉じた。そろそろ新幹線の時間だった。
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