第24話 条件

文字数 1,742文字

「何ですか、その条件って」
 葵に食い入るように見つめられ、浩行は息をのんだ。思いがけず、自分の感情が揺すぶられていることを自覚して驚いた。自分を真っ直ぐに見つめる葵の表情がかつて自分が追いかけた造形に重なる。黒目がちの瞳が自分の本心を問いただすようだった。
 浩行はなかなか次の言葉を継げない。
 葵が焦れたように、教えてください、と言ったのを遮って、観念したように、
「君が平岡の家に入ってくれたら」
とひと息で言い切った。
「…どういうことですか…?」
 呆気に取られた葵の顔を見たら急に気が楽になった。背筋を伸ばす。相手は社会に出たばかりの女の子なのだ。仕事で行う交渉と変わらない、むしろ明らかに楽なはずなのだから、気楽にやればいい。
「そのままだよ。条件は君が俺と結婚すること」
「ちょっと待ってください。どうしてですか」
 動揺している葵を観察するように、浩行は組み合わせた両手に顎を乗せる。いつも大人しくて礼儀正しい葵の、あからさまに動揺した態度は面白かった。
「君は子供の頃からだから気づかないかも知れないけど、この地域で大平酒造の持ってるブランド力は大きいんだよ。もちろん酒蔵としてもそうだけど、先祖代々この地域に貢献してきた。街中にも、君のおじいさんやその前の世代の人が寄贈した建物、沢山あるのは知ってるだろう。合併前の町長も出てるし、現に君の大叔父は県会議員。代々地元の篤志家としての面もあっただろうから、世話になった人も沢山いたはずだ」
「…それは、そうですけど…」
「俺は自分の会社にそのブランド力が欲しいと思ってる。一朝一夕にはどうしても難しいんだよ。長い時間をかけて、君の家が守ってきたものだから。隠してもしょうがないから正直に話してるつもりだ。ただの業務提携じゃなく、大平家の婿として扱われるなら、うちの会社の事業の幅はずっと広がるはずだからね」
「……だから、私と結婚するんですか?」
「…もちろんそれだけじゃない。単純に俺は君が気に入ったから」
 葵は俯いたまま顔を上げなかった。
「…私、ちゃんと就職して正社員で働きます。弟も大学に行かずに家を継ぐかとか、お金を返す手段はこれから考えます。だから、あの…、うちにお金を貸してくださいませんか。お願いします」
 頭を下げた体勢のまま、葵は絞り出すように訴えた。
 浩行はやれやれ、というようにため息をつくと、幼い子供に言い聞かせるようにゆっくり話す。
「お金を貸す用意はあるんだよ。それにはさっきも言った通り条件を君が飲み込んでくれないと」
「……それは…、考えたこと、ありません、まだずっと先のことだと…」
「そうだね、人生が変わっちゃうね。今、22だろう。やりたいこともあるだろうし、恋人だっているんだろうし」
 浩行の言葉はまるで他人事のように響く。ことの成り行きを面白がって観察しているような冷たさがあった。
「でもこれがこちらの条件だよ」
「……」
「俺も慈善事業したいわけじゃないからね。大切なうちの従業員たちが汗水垂らしたお金を無償で貸すわけには行かないんだ。君も商売屋の娘だから分かると思うけど、俺も利用できるものは最大限に利用したい」
「……」
「勘違いしてもらうと困るけど、俺がこの話を持ち出したのは単純に君が気に入ったからだ。君の実家の家業の経営については本当にたまたま。いまどき政略結婚しろと言ってるわけじゃないし、俺はちゃんと結婚生活を送るつもりだよ。俺はこういう選択肢もあるよ、ってあくまで提案しただけ。決めるのは君だから」
 葵は顔を上げた。真っ赤な目から今にも水滴が零れそうだった。
 泣いてるかと思ったけど。
 葵はそばにあった紙ナプキンで目を押さえた。コーヒーを一口飲むとだいぶ落ち着いたようだった。
「送ってくよ。疲れただろう」

 葵は車の中で一言も口を聞かなかった。呆然とただ前を見て座っていた。
 車を葵の家の近くで止め、エンジンを切る。
 ドアを開けて出ようとする背中に浩行は声をかけた。
「もしさっきのことで分からないことがあったり、話したかったら電話して。全部ちゃんと答えるから」
 葵ははっとした顔を一瞬だけして、ありがとうございました、と頭を下げた。
 おやすみ、と浩行が微笑むのを戸惑ったように認めて、車から出て行った。
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