第25話 それぞれの夜

文字数 2,267文字

 葵は浩行から車で送ってもらったあと、ふらふらになりながら家に入った。
 すでに母親の優は自室に引き上げているらしく、居間には電気だけがついており誰もいなかった。母はあまり身体が丈夫な方ではない。父も遅いし、心労がたたっているのか、最近は10時くらいには寝室に入ってしまう。
二階には電気が付いていたから、弟の悠人は勉強中なのだろう。
 食事はいらないと言ってあったから、自室に戻って入浴の準備をする。ひとりきりで湯船に浸かっていると、先程の浩行の言葉ばかりが浮かんでくる。
 葵ちゃんは器量よしだからねぇ、いい人と結婚せんとねぇ。
 そう言って葵に笑いかけていた祖母の顔が浮かんだ。
 大平酒造を数年前まで祖父と切り盛りしていた祖母は現在はサービス付きの高齢者用住宅でひとり暮らしをしている。
 先代である祖父が数年前、まだ70代で倒れ、あっという間になくなってさから、祖母は引き留める父と母を振り切って、家を出てしまった。
 祖母は若い頃、小学校の教師をしていたと聞いたことがある。実際、子供の頃から成績もよく、無事に教師になり、結婚してからも続けていたが、子供ができ、家族経営の酒蔵の手伝いをするように親戚の人たちからの外的な圧力もあって、数年で辞めてしまった、と。
 祖母は教師を続けたかった、と葵にぽつりと漏らしたことがある。
 そのせいか、葵の勉強にはとても厳しかった。小学生の頃から、毎日三十分だけでも机に向かう習慣は、忙しい両親に代わって葵を育ててくれた祖母がつけてくれたと言ってもいい。
 女の子の方が学力は必要になる。いつか必ず役に立つから、と。
 大学に進んだときも、将来は働く女の人を助けてくれる、優しい人を伴侶に選ぶように、そういう人と学生時代に出会えるように、と言っていた。
 帰ってこんでも、葵ちゃんが幸せなら、それでおばあちゃんは充分。
 優しく笑った祖母の顔が浮かんで、思わず泣きそうになる。
 祖母が望んだような人生とは、全くかけ離れたものになりつつある、自分の人生が悲しかった。
 こんなはずではなかったと思うし、自分の実力を試してみたかった。
 国立国会図書館に勤め、好きなことで自立し、樹に相応しい女性でいたかった。
 自分の将来はどうなってしまうのだろう。
 もし、浩行と結婚したら、多分外に出て働くことはできない気がする。
 国立国会図書館で働くことも、公立の図書館で働くこともない。きっと仕事をしたいと言ったら、浩行の会社の何か簡単な事務などになるのかもしれない。瑠璃の母親も家でお茶を教えるくらいで、働いてはいなかった。
 きっと働くと言っても、片手間でできるものなのだろう。そもそも女の人を一緒に働く人員とは見ていないのだ。浩行だって正直に、何の臆面もなく、葵のバックボーンに魅力を感じたから、もっと言ってしまえば、葵の家柄が気に入ったから結婚したい、と言っていたではないか。
 今時、こんな全時代的なものが自分のすぐそばで起こるなんて、思ってもいなかった。
 葵は、他人事のように思った。それくらい、浩行の行動原理は、昭和のドラマの中の話のようだった。
 どれだけ人を馬鹿にしているのだろう。
 葵は呆然とするとともに、浩行の別な一面を知って複雑な気持ちだった。
 がっかりした。意外だった。怖かった。
 どれもしっくりくる言葉が見当たらない。
 最初は、単純に、いい人だと思った。
 スマートで、優秀で、大人で理知的。
 何度か会うだけだった頃は、瑠璃が言うように、浩行は、若い女の子が憧れるようなものを全て備えていた。
 本当にこんなひとがいるんだと思っていた。
 樹やほかの同学年の男の子と違う、低くて落ち着いた声。
 お仕着せじゃなく、しっくりと身体に馴染んだ皺のないスーツの着こなしや、しっかり櫛を入れて手入れされた髪、無駄がなく、それでも一目で高級だと分かる持ち物も、葵には全部新鮮に映るものだった。
 最近まで学生だった自分の話もきちんと聞いてくれる、物分かりが良くて、まだ学生の樹が決して連れて行けないような場所に、葵を連れ出してくれた。
 ホテルのラウンジ、経営者のいる飲み会、静かで車でしか来られないような郊外のレストラン。
 それに全くはしゃぐ気持ちがなかったとは言い切れない。戸惑いつつも、浩行が提示する分かりやすい消費財、シックで落ち着いて高級感のある空間、平均よりもはるかに稼いでいる、有名大学の同級生で繋がった仲間たち、そういうものすべてに、身を委ねるのは、単純に楽しかった。
 私だって、樹に内緒で楽しんでいた。
 浮ついた気持ちが確かにあったのだ。

 それが、全部浩行の計画だなんて、思いもしなかった。
 かっこいい歳上の男性に可愛がられて、いい気になっていた。実際は、自分の後ろにある名前やバックボーンが目当てだなんて、とんだ笑い種だと思う。
 自分は周りの女の子たちより、少しだけ素材や醸し出す雰囲気が、大多数の男性の好みにマッチしていると思っていたし、それでいい思いをしたことはたくさんある。
 正直、嫌な思いをしたことより、いい思いをしたことの方が多い。
 出来るだけ分からないように、目立たないように、自分の整った容姿を控えめにすることも、きっと母や祖母の影響もあって無意識にしていた。
 自分は自己分析ができており、客観的で、大きく羽目を外すような馬鹿なマネはしないだろう。
 そんなふうに思い上がっていたのだ。
 
 きっと、それを浩行はどこかで見抜いていたのだと思う。
 だから、あんな人を馬鹿にしたようなことを言えたのだ。

 
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